1日目





低い位置にある太陽の光が、西側の大きな窓から斜めに差し込み、書斎の反対側の入口のほうまで届いていた。冬至まで半月ほどともなれば、昼の時間は短い。
上質なオーク材の机の端に腰を載せ、ターンクリップで纏めた書類の束をめくっていた青年は、最後のページまで目を通し終わると、長く形よく伸びた人差し指で表紙を弾いた。
少々乱暴にデスクの上に紙の束を放り投げると、広めの書斎の壁一面に作りつけられた書棚に目を移す。本がびっしりと、かつ整然と並んでいる。
ほとんどが重厚といえるほどの分厚い本で、中には見ただけで年代物とわかる、皮に金の箔押しを施したものもあった。時折、私家本だろうか、厚紙で簡単にまとめられているだけの書籍もあったが、どれもそのタイトルから、専門書や研究論文であることが窺がえる。
哲学関係の本が一番多く、それから社会学・民俗学・言語学、果ては天文学や分子生物・物理学の本まであり、この部屋の持ち主だった人間の興味の範囲の広さが推し量れた。
よくある上流家庭のほとんどインテリア的な書籍のコレクションとは違って、ある程度の思想的系統が読み取れたから、おそらくこの膨大な数の書籍のほとんどかあるいは全部を、その男は読みこなして咀嚼していたに違いなかった。
青年はそのうちの一冊を手に取ると、目次を目で追ってからパラパラとページをめくった。斜め読みしてからパタンと本を閉じると背表紙を見て、ふんと鼻を鳴らす。
「レヴィ=ストロースね……」

本を書棚に戻し、さきほど投げ出した書類をブリーフケースにしまう。部屋を出て、長い廊下を正面玄関まで進んだ。
玄関ホールで、長年この家の家政を取り仕切って来た老女の名前を呼び立てると、慌てて姿を現した彼女に、帰宅することを告げた。彼女は習い性となっているのだろう、深々と頭を垂れながら、自分の孫ほどの年齢の青年を見送った。



玄関ポーチの階段を下りながら、青年はスーツのポケットから携帯電話を取り出すと、画面もほとんど見ずに履歴から呼び出した番号に発信した。少し長めの髪をかき上げてから、ハンズフリーのイヤホンマイクを片耳にかける。
「……あ、先生。ええ、こちらでの目録の最終確認は完了しました。今から事務所に戻って相続人に提出する書類をまとめます。はい、数日内には連絡がついて、手続きに入れると思います――」
こじんまりとした庭を無造作に突っ切って行くと、冬の庭に乏しい食料を求めてやって来ていたヒワが、慌てて飛び去って行った。




待降節の第一主日(11月30日の聖アンデレの日に一番近い日曜日)を過ぎれば、ヨーロッパのほとんどの国々はクリスマスを心待ちにし始める。パリもご多分に漏れずだ。夕刻になると、パリ中心部の大通りではどこも、イルミネーションの明かりが灯され、見る人の心を浮き立たせずにはおかない。
通りごとに趣向を凝らして飾られるイルミネーションは、夜の長さをかこつ代わりに華やかな輝きを放ち、石造りの建物や並木の一部となって、パリの街を彩どる。
北風の冷たさにコートの襟を立てながら、アンドレはルーブル前のガラスのピラミッドの脇を通り過ぎた。
建設当初は物議をかもしたオブジェだったが、今はすっかり風景の一部になってしまって、ライトアップにも余念がない。
現在は商業的な、あるいは芸術的な意味で燈されるイルミネーションだが、たぶん起源は5本の蝋燭なのではないかと、彼は思う。
教会でもキリスト教徒の家庭でも、待降節のこの時期、真ん中に白いキャンドル、その周囲に紫色か青のキャンドルを4本立てて、思い思いに装飾したものを飾る習慣がある。日曜ごとに、まず周囲の蝋燭から始めに1本、次の週に2本とだんだんに数を増やしながら点灯していき、クリスマスの日に最後の真ん中の蝋燭に火をつける。
聖なる御子の生まれる日まで、待降節中の日曜ごとに点されていく4本の蝋燭。
子供の頃、火の数が増えるたびにクリスマスが近づくので、わくわくしながら眺めていたのを覚えている。
あの頃はプレゼントやごちそうが目当てだったが、今は――。

聖なる子が生まれたと同じ日付に生まれ落ちた、彼女。
そして、その日を待ち望む日々のはじまりは、自分と同じ名前をもつ聖人の日。
不思議な符合に気づいた時、彼は思わず笑ってしまった。

「どうするかな」
今日はこれから友人の誕生日パーティーに行くことになっている。だが、その前に予定していた新作準備の取材が早めに終わってしまったので、スタート時間まで中途半端に間があいた。
一度はそのままパーティーの行われる店に向かおうかと思ったが、まだ開店準備中で入れてもらえない可能性もあったし、よしんば店の片隅に入れてもらえたとしても、慌ただしく準備が進められている中、身の置き所がなくて気まずい思いをするだけのような気がして、ふとメトロを途中下車してしまった。気まぐれに下りた場所が、パレ・ロワイヤル=ミュゼ・デュ・ルーヴル駅だった。
しばらく気の向くままに散歩して時間をつぶす。頃合いをみはからって、徒歩かあるいはメトロか、またはタクシーを拾えばいい。店の場所は調べてあったし、パリ市内からならば、散歩して気の済んだ頃に店を目指しても、適当な時間に到着できる自信があった。
彼は足の向くまま、ルーブルから西へと歩き始めた。
ピンクと白を基調とした、どちらかといえば女性的な優美さを感じさせるカルーゼルの凱旋門をくぐると、チュイルリー公園だ。すっかり葉の落ちた木々や、薄暮にぼんやりと浮かぶ彫刻たち、空を大きく切り取る観覧車。閉園前の闇に沈んでいく公園もまた、昼間の顔と違ってメランコリックで美しい。
パリに来た当初は暇が出来ると、こんな風に、よく目的もなく市内を歩き回ったものだったと思い出す。
地理を把握するためもあったが、何より自分の目で足で体で、この街を確かめていくことが彼には必要だったのだと思う。日常の用事もあったし、その頃はもう仕事が滑り出していたから、気ままに歩き回る時間はそうそう取れなかったものの、近所から少しずつ足を延ばして、見知った場所を増やしていった。そのうち――。
すれ違ったカップルを思わず振り返る。日没直前の公園には、まだかなりの人が行き交っていた。体を寄せ合いながら談笑する二人の後ろ姿。女性の方は、腰まで届く長い金の髪を揺らしていた。
遠ざかっていく二人の向こうで観覧車にも灯が入り、池の水面に夜光虫のように映り込んだ。

――そのうち、彼女と知り合って、それから二人であちこちパリの街を巡るようになって。それから……。


彼女とは、フライトがつづいてしばらく会えていない。変わりはないだろうか。メールや電話はしているし、時間があえばスカイプで顔を見ることも出来るが。
会いたい、彼女に。

オスカル。

会ってその頬に触れ、黄金の髪を胸に引き寄せたいと思う。彼女の絹糸のような髪に顔をうずめる度に感じる陶酔が、アンドレを一瞬包んだ。髪に絡めた指先に感じる軽い痺れも。
日の名残りのおかげで、まだかすかに明るい西の空を見上げる。
かつてこの公園には宮殿があって。
それにまつわる過去世の記憶から、彼女はこの場所に近寄ることが出来なかった。あえて試してはいないが、今は、どうだろうか。
出会ってから――あるいは再会してからと言った方が正確かもしれない――共に過ごし、ときには事件を解いて、困難にも打ち勝って来た。笑ったり泣いたり、喧嘩したり……。その時々の彼女の顔がスローモーションの映像のように目の前を流れていった。
彼女は自分と会ってから、変わっただろうか。それ以前を知らない自分には、測りようもなかったが、もし、彼女がやわらかく変わっていてくれたら、と思う。自分の存在が少しでも彼女に安心感を与えていてくれれば、と。
彼女の不安や怖れ、傷つける全てのことから、彼女を守りたいと思う。
現在も、未来も、そして、出来うるなら過去のそれからさえも。


枯葉が乾いた音を立てながら足元をかすめて後方に吹き飛ばされていった。吹き溜まった落ち葉の山を見て、アンドレは軽く頭を振った。
どれだけ自分は彼女のことで一杯なのだろうと思うと、自分でも可笑しくなった。プライベートな時間のほとんどは一緒にいるし、まもなく二人きりでの南欧への旅行も控えているというのに、それでも足りないというのか。明後日には会えることになっているのだし……。ただ、それまでがひどく長く感じられる。
これ以上はよそう。
無理矢理彼女のことを頭の隅に追いやった。
これから過ごす時間に意識を振り向けようと努めてみる。
いまや気の置けない大事な友人となったその男の誕生パーティーには、学生時代や会社の友人が集まって、妹も来るらしい。友人は妹のことをよく口にするが、会うのは初めてだ。さて、一体どんな女の子なのだろうか。友人が妹を溺愛して大切にしているのは、話を聞いているだけでも、よく分かった。


いつの間にか時間がたって、程よい頃合いがやって来ていた。
アンドレは足を速めると、コンコルド広場を目指した。



(つづく)










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