フラクタル 〜O.A.〜




リビングへつづくドアを開けた刹那、目が眩んだ。
次の作品執筆のために、書庫として使っている薄暗い部屋で作業していたアンドレは、まばゆい光に思わず手をかざす。
すぐに明るさには慣れたが、ああ、もうそんな季節がやって来たのかと思う。
毎年のことではあるが、この季節には、体が、強く揺り起こされるような感覚を覚える。
それは、子供とばかり思っていた少女が、ある日、鮮やかに女の気配をまとって振り返った姿に目を奪われるのと似ている。
キャビネットの上の時計を見ると、もういい時間だった。そろそろ出かけないと。今出れば、ちょうど約束した時間に着けるだろう。オスカルの住むアパルトマンに。
これまでのところ、彼女と会うのは自分の部屋か外でばかりだった。アパルトマンまで送ることはたまにあったが、彼女の部屋で時間を過ごすのは初めてだ。あらためて考えてみると我ながら意外だったが、別に避けていたわけではなく、たまたまそうなっていただけで、彼にとってはどこで会っても問題なかったから、気に止めなかったのだと思う。彼女に会えさえすれば、それでいいのだ。
だが、今日は彼女の部屋に行くべきだと思った。
それには、三つの理由があった。

ダイニングテーブルに置きっぱなしにしていた、カフェの飲み止しが少し残ったカップを片づけてから出かけようと、キッチンに運んで行くと、今朝挽いた豆の残り香が鼻腔をくすぐった。
小窓にかかったレースのカーテン越しに中庭が見える。明るい日差しに包まれた情景は、絵葉書を綾取る印象派の絵のようで、しばし眺めているうちに、自然と口元が緩んだ。片隅にある小さな花壇には、今を盛りとばかりに春の花が咲き誇っている。赤、黄色、ピンク、紫、白、そして葉の緑。小さな花壇は、水彩絵の具を散らした賑やかなパレットのようだ。
ちょうど、反対の棟に住む老婆が手入れをしているところだった。草花に水をやっている。じょうろを傾けるたびに、幾筋かの放物線が描かれ、葉や花にかかった飛沫は、日差しの輝きを閉じ込めた水滴になって、コロコロと滑り落ちていく。
老婆が少し背中の曲がった細身の体を屈めたり伸ばしたりする度に、後ろできちんとまとめた白髪頭がひょこひょこと動いた。似ているところといえば、その見事なまでの白い髪しかないのだが、勤勉に体を動かしているところに、アンドレは故郷の祖母の姿を重ねた。
バイクのキーをいつもの場所から取り出すと、アンドレは、ほとんど身一つで部屋を出ようとして忘れ物に気づき、慌てて仕事部屋に戻った。小包を抱えて出て来た彼は部屋の鍵を閉めると、古いポップスのサビを口ずさみながら外へ出た。故郷からの小包は、祖母からオスカルの部屋にしっかり届けるようにと厳命があった代物だ。
――それが、彼女の部屋に行く理由の一番目。

外は建物の中よりずっと温かかった。アンドレが自分に気づいた老婆に挨拶をして通り過ぎようとすると、「ちょっと、待って」と呼び止められた。
老女は年齢の割には軽やかな足取りで自分の住む棟に入って行くと、しばらくして、時間を気にして少しじりじりしながら待っていたアンドレの元に戻って来た。花鋏と、色つきのセロファンやリボンが入った籐のバスケットを手にしている。彼女は花壇の左端に咲いていた白い花を何株か切り取ると、器用な手つきでブーケにして、アンドレに渡してくれた。すずらんの花束だった。
「美人の天使さんに」
アンドレは礼を言って花束を受け取った。どこに行こうとしているのかはお見通しというわけか。自分はそんなに浮かれていただろうかと鼻の頭をかく。

バイクにまたがった彼は、いつものサン・ルイ島を渡るルートを避け、左岸を西に進んだ。今頃、セーヌを渡った先は恒例のデモが行われているはずで、周辺は騒がしくなり、道路はいつも以上に渋滞しているに違いなかった。数日前からメトロも、ストで入り口が封鎖されたりダイヤが大幅に乱れたりしていて、毎年のこととあきらめながら、少々辟易もする。
今日は5月1日。メーデーだ。南仏の旅から帰って既に半月以上がたっていた。
市内がこんな状態だから、今日は自分が彼女の部屋に行った方が無難だと思った。自分ならバイクで渋滞もすり抜けられる。
――この、今日のパリの喧騒が、彼女の部屋に行くことにした理由の二番目。

アンドレのバイクは、右岸を迂回してきた車で混雑気味の車道を徐行しながらすり抜けて行く。歩道では、にわか花売りが道行く人に声をかけていた。今日は幸福を祈って、大事なひとにすずらんを贈る日でもあった。誰もが近郊の森などで摘んだすずらんを売ってもいいということになっている。
アパルトマンで老女から、思いがけず貰うことがなければ、アンドレもオスカルに途中で買って行こうと思っていた。
街に溢れる、いくつもの白い小さな鈴が、今にも鳴り出しそうな可憐な花。あの老女も誰かから貰うのだろうか。確か、とうの昔につれあいを亡くし、子供達とも疎遠だと聞いている。
ヘルメットのシールドに街並みが映っては消え、祖母と老女との顔が重なり合うようにしながら交互に浮かんだ。
さっきの老女の水色の瞳が、覚悟はあれど、わずかに寂しげだったように思えて来た時に、前方の信号が赤に変わった。
すぐ脇の歩道では、女の子がバスケット一杯に摘んだすずらんを売っている。アイドリング中のエンジンは、少し機嫌が悪そうに短気な音を立てながら、彼に何かを促すように、短く破裂音を繰り返した。シグナルはグリーンへと変わりつつある。彼は、自分のアパルトマンのある後方を何度か振り返った。


オスカルの住む16区は、メーデーなど無縁とばかりに、いつも通りの閑静な佇まいだった。実際、そこに住まう住人のほとんどはそう思っているに違いない。
アパルトマンの駐車場にバイクを置きに行く途中で見上げると、オスカルの部屋の窓辺に人影が見えた。だが、すぐにすっと身を引き消えてしまった。
彼女の部屋のインターホンを押すと、入れと答えが帰って来た。ロックが解除される音がする。
ドアを開けると、そこにオスカルの姿はなく、少し長めの廊下の奥にあるリビングで、革張りのアームチェアに座って本を読んでいた。肘掛の近くには部屋のロックを開閉するリモコンが置いてある。待っている間、読書で時間をつぶしていたようだ。
「ずいぶん、遅かったな」
彼女は本に視線を落としたまま言った。
約束した時刻をもう優に30分以上過ぎている。アンドレが約束の時間に遅れることは滅多になかった。
「悪い。ちょっと忘れ物をしたものだから」
そうかと素っ気ない返事を返すと、彼女はやっと本を置き、お茶を淹れて来ようと立ち上がった。
彼女が遅刻を怒っているのではと気にかけていたアンドレは、拍子抜けするほどの彼女の平静な反応に胸をなで下ろしながらも、一抹の寂しさを感じつつ、ソファに腰を下ろした。
彼は手持ち無沙汰に、両手を何度もこすり合わせるように組み替えてから、広い室内を見回す。
このリビングだけで彼のアパルトマンがすっぽり入ってしまいそうだ。天井も通常よりかなり高い。それほどインテリアに興味があるわけではないが、それでもこの部屋の調度品が上質で高価なことだけは分かった。
かつてジャルジェ家で働いていた祖母の言葉が思い出される。
“……その……本当にすごい家なんだよ”
ニースでの事件でも、それは思い知った。彼女の父親が大きな権限を有し、国家レベルの紛争に深く関わっていたために起きた事件だった。オスカル自身が、社交界で注目される存在であることも目の当たりにした。
自分が属している世界とは、明らかに違った。アンドレは一つ深いため息をつく。
事実は事実だが、思い煩っても仕方がないと、彼は目の前のテーブルに伏せられた本を何の気なしに手に取った。さっきまでオスカルが読んでいた本だ。取り上げて、不審に思う。彼女が開いて置いた部分よりずっと先に、しおりが挟んであったからだ。彼女は何か気になって、遡って読み返していたのだろうか。
よく見ると、彼女が座っていた椅子のクッションが背もたれの方に極めて不自然に持ち上がっている。慌てて勢いよく座ったために、ずれたかのように。
アンドレは先ほどの窓辺の人影を思い出した。彼女が悠然と椅子に座っているのを見て、見間違いだったかと思ったが…………。オスカルの奴。
「何だ?一人でニヤニヤして。おかしな奴だな」
銀製のトレイに茶器を載せて戻って来た彼女が言った。テーブルの上にトレイを置くと、白い皿に載ったミルフィーユを自分とアンドレの前に置く。それを見たアンドレが思わず、「あれ?」と声をあげた。
「カフェ・ド・ラペのミルフィーユ?」
「ああ、そうだが」
彼女の口ぶりは相変わらず素っ気ない。だが、詳しく知っているわけではないものの、あの店はテイクアウトをしていただろうかと思う。初めて二人が会った時、待ち合わせに使ったあの店は――。たまたま偶然なのだろうか、初めて彼女の部屋で過ごす日に、その思い出の店のガトーがここにあるのは。
アンドレの頬がさらに緩んだ。
「な、何だ?本当に変な奴だな!」
少し顔に朱が差した彼女は怒ったようにそう言った。アンドレは「おれがやるよ」と言って、ティーポットを覆うステンレスのカバーを開けた。球体に近い白いポットから二人分の紅茶をそそぐ。彼女はさきほどのアームチェアに腰かけると、頬杖をつき、彼が幸せそうな顔で作業するのを横目で見ていた。
アンドレからソーサーに載ったカップを受け取ると、口元まで運ぼうとしていたオスカルの手が、何かを思い出して止まった。
「昨日、ロザリーにばったり会ったんだ」
ロザリーはオスカルが行きつけのブティックの店員で、彼女に付き合って何度か店を訪れた時にアンドレも会ったことがある。春風のようなあたたかさをもつ、可憐な女性だ。
「ベルナールはどうしているって?」
アンドレは、彼女が座っている椅子の肘掛に軽く腰を下ろし、彼女の背中に回すように、背もたれに腕を伸ばした。
あの事件の後、行方をくらましたベルナールが、オスカルの紹介したジャーナリストの下に姿を現したのは、二人がパリに戻ってから10日ほどが過ぎた頃だった。まずはアシスタントとして仕事をしてもらうつもりだと、彼女に連絡が入って分かった。その後、パリに知己のないベルナールは、これもオスカルから話が通っていたロザリーを訪ね、ちょうど彼女の部屋の隣が空室になっていたので、そこを借りることになった。
オスカルの世話になるのは、よほど意に染まなかったのだろう。ベルナールは未だに彼女に会いに来ない。だが、オスカルはそれで構わないと笑った。それに甘んじても、このチャンスを物にしたいという彼のジャーナリスト魂に火をつけただけで充分だと。
「ああ、最近はずいぶん変わったそうだ。笑うようになったし、明るくなったと。あのベルナールがロザリーの部屋の棚を修理したんだそうだ。ロザリーも嬉しそうだったぞ。なあ、アンドレ、あの二人――なかなかお似合いだと思わないか?」
自分が百万言をもってするよりも、ロザリーが世話を焼き、側で笑っていた方がベルナールには、よく効くだろうとオスカルは言った。
「ま…あ……よかったんじゃないか……」
オスカルが愉快そうなのに対して、アンドレはあまり面白くなさそうだった。正直、彼はまだベルナールのしたことをすっかり水に流す気持ちにはなれなかったからだ。彼女を拉致監禁し、危険な目に遭わせた。あの時のことを思い出すと、自分がもし、後少し遅かったらと想像するだけで、今でも腸が煮えくり返りそうだ。
「アンドレ……」
例の事件の後、パレ・ロワイヤルは閉鎖され、そこに秘密クラブがあったことが地元紙で報道されたが、扱いは意外なほど小さく、数名の娼婦とオーナーが逮捕されたことのみを伝えた。あの時連行された金持ち連中はその日のうちに釈放され、お咎めなしだったらしい。クラブの名目上のオーナーはフィリップ・ド・オルレアン氏とは別の人物で、氏の名前はおくびにも出さなかったそうだ。
結局、トカゲの尻尾切りで、割を食ったのは末端の人間だけだった。
かの地では、独立派の残党がゲリラ化して、母国から派遣された軍と小競り合いを繰り返し、一般市民は不安のうちに暮らしている。
誰が得をしたというのだろう。
それでも彼女は、ベルナールの筆がいつか、そんな事態を収める一端を担うに違いないと信じていて、自分の身に起こったことなど、大したことではないと言う。
――大したことがないなんてことがあるものか。大義名分など、くそ喰らえだ。どんな理由があろうとも、彼女が危険に曝されていいことにはならない。
オスカルは、険しい表情で拳を握り締めているアンドレの腕に自分の腕を絡め、肩にそっと頭を預けた。
「心配かけて、本当に済まなかった。こうして、わたしは無事だったのだから」
彼女の気持ちを汲んで、彼はかすかに微笑んで見せた。オスカルは頭を彼の方に押し付ける。
「――だけど、だけどおまえの気持ちもよく分かる気がする」
オスカルはアンドレの左目に手を伸ばして、指先でそっとなぞった。
「もし、あの時、またおまえの目が傷つけられるようなことがあったら、わたしは……わたしは、決してベルナールを許さなかっただろう……!」
アンドレは自分の顔に触れていた彼女の手を取ると、そっと安心させるように指先に口づけた。見下ろす彼と、まだ動揺したような彼女の視線が合い、どちらからともなく唇を合わせた。互いを確かめるように。
淡く深く、何度も唇を重ね合わせた後で、彼の胸に頭を預けて幻惑めいた余韻に浸っているオスカルの目に、テーブルの上のブーケと小包が映る。指差すと、アンドレは花束を彼女に差し出した。オスカルは両手でそれを受け取って、花の香りをかいだ。
「ミュゲか……今日は5月1日だったな。そっちは?」
アンドレがテープをはがし、茶色いダンボールを開けると、中には緩衝材に包まれたいくつかの布袋と手紙、それに木箱が入っていた。
「おまえの部屋までしっかりお届けしろって、おばあちゃんからの厳命だ」
オスカルが封筒を開ける。マロンからの手紙で、オスカルと過ごした数日間を今も何度も思い返していること、今春摘んだばかりの花で、オスカルが誉めてくれたポプリを作ったから貰ってほしいことなどが綴ってあった。達筆とはいえなかったが、律儀な印象の文字から、彼女は素朴なマロンの笑った顔や泣き顔などを思い浮かべた。サシェを嗅ぐと、グラースの部屋に置いてあったものと同じ香りがして、気持ちが安らいだ。
オスカルはサシェを膝の上に置き、つづいて木箱を手に取った。箱の中には、白い光沢のある絹布に何かが包まれていた。折り重ねた絹地を開くと、細長いガラス瓶が横たわっていた。それは、見る者に棺の中で眠る美女を思わせた。ミディアムブルーのガラスの表面が、古代ギリシャのヒマティオンを思わせるように加工されていて、波打つ幾筋ものラインを描いていたからだ。
「あの時の香水の完成版だそうだ」
オスカルが箱から、そっと瓶を取り出し、蓋を回すと、あの時と同じ香りがふわりと広がった。手首に数滴たらしてみる。
「トップノートはこんな感じだったんだな。おやじは少し改良を加えたと言っていたけど」
彼女の手首を取って、アンドレは香りを聞く。彼女もかいでみる。
「ん……、あの時とわずかに印象が違うような」
以前よりスパイシーな香りを加えて印象を強めてあったが、それだけではなかった。おそらく、香水本来の香りに彼女の体のもつ香りが混ざったためと、ここがグラースの家ではなく、パリの彼女の部屋だからもある。
――これが、彼がオスカルの部屋でなければならないと思った、最後の理由。
父親が彼女をイメージして作ったこの香水を、彼女のフィールドでかいでほしいと思ったからだ。身に纏う香水は、そのものの香りだけでなく、本人のもつ香りや周囲の香りと微妙に合わさって初めて完結するものだから。
「おやじが、オスカルがつけてみた感想を聞きたいって」
「ん……」
会話を交わしているうちにも、計算されつくした香料の成分全てが混じり合い、調和する瞬間がやって来る。
頃合をみたアンドレが再び彼女の手首を取った。今度は、唇が届きそうで届かないぎりぎりの距離でじっくりと吟味するように味わう。薔薇を中心としたミドルノートが彼女を包み、肌から立ち上る香気は、華やかでシックな気品を感じさせた。感覚的に彼女そのものを感じた彼は、賞賛するように、そのまま手首に唇を押し当てた。
オスカルの体に、鮮やかな痺れが走る。取られた手首から、彼の吐息に含まれる熱が伝わるだけで、もう既にわずかに甘く神経が昂ぶっていた。彼に触れられる度に、それまで誰かに、こんな風に触れられることに慣れていなかった体が、少しずつほとびるように変わっていく。それが自分でも分かった。
手首から唇を離さずに彼女を見つめるアンドレの目が、彼女の青い瞳の陶然としたゆらぎを捉えたとき、手を伸ばさずにはいられなかった。
かき抱いた彼女の体温が心なしか熱を帯びていく。二人だけに分かる無言の要求だと、このところやっと分かってきたところだ。
アンドレが逆らえるはずは、なかった。


二人の肌のぬくもりを帯びたシーツの上で、オスカルは夢現つの世界をさまよっていた。背中から彼の腕が伸び、何も身につけていない背中に彼の厚い胸板がぴったりと押し付けられている。その胸は、わずかに膨らんだり引っ込んだりを繰り返して、彼の満ち足りた顔を想像させた。ちょうど鼻先にあった自分の右手首に意識的に鼻を近づけると、ムスクの香りの中に、ミドルノートの薔薇の陰に隠れていた花がほんのりと香った。
オスカルはぼんやりと、何の花の匂いだったろうと考えを巡らせる。今日、これに近い香りをかいだように思った。今日かいでいなければ、ほとんど気づかないほどの控えめに加えられた香り。
そうだ、あの、森に咲くすずらんの花の香りだ。
そのまま目を閉じると、何ともいえない安心感に包まれる。自分の体に回された彼の腕の重さと、背後に彼がいてくれる感覚と、そして、この香り。癖のない万人に好かれる香りは、誰かさんのようだと思う。
すずらんは他の花のように、花自体から香料が取れない。化学的に分析しても、すずらん特有の香り成分が特定できないにも関わらず、薔薇やジャスミンと並んで三大フローラルノートと呼ばれるのだと、アンドレが教えてくれたことがあった。
ありふれた花の香気成分しかもたないのに、強烈に人を惹きつけずにはおかないところも、また、彼のようだとオスカルは思った。
優しい、穏やか、気が利く、それなのに時に情熱的で。
彼の長所はたくさんあるが、優しくて穏やかで気が利く人間なんて他にもたくさんいるし、情熱的な男だって、星の数ほどいるのに。

アンドレだけが特別で、彼だけが私を捉えて離さない……。

彼女は少し乱暴にアンドレの腕を押しのけると、いきなり彼の鼻を強くつまみ上げた。
「――うっ、いきなり何だ!?」
気持ちよくうとうとしていたアンドレは、ハトが豆鉄砲を食らったような顔をした。つままれた鼻を押さえて、「おれ、何かしたか?」と困った顔をするのを見て、彼女はただ、くすくすと笑う。


翌日、アンドレの故郷にオスカルは電話をかけた。
香水の感想を伝えるためだ。
相変わらず言葉少なに応対するセルジュだったが、思いがけないことを言ってきたので、隣にいたアンドレに、そのままの言葉を耳打ちすると、彼は静かに力強く肯いた。
わずかに考え込んだオスカルの口からついて出た提案に、今度はセルジュが考え込んだが、最後には了承する。
電話の向こうが、少し嬉しそうに照れていたように感じたのは気のせいか。


「今のわたしがあるのは、自分の力だけではないので」


”O.A.”


その年、彼女をイメージし、彼女の名前を冠したいと請われた香水が、“O.A”と名づけられてパリのショーウィンドウを飾ったのは、ノエルのイルミネーションが美しく輝き始めた頃のことだった。

大々的な宣伝はされなかったものの、じわじわと人気を集めて、翌年のヒット商品のひとつとなったこの香水の名前が、何の頭文字なのかは巷で噂となり、もっともらしい諸説が囁かれた。
何度かインタビューで尋ねられることもあったが、2つのアルファベットが何を表すのか、「nez(ネ)」の称号をもって称えられる寡黙なパフューマーは、決して明かさなかったという。



(了)

※ nez はフランス語で「鼻」のこと 。極めて評価の高い調香師をさす。





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