フラクタル 〜linked〜




「予定……?」
オスカルは、ベルナールの表情を伺った。彼の目には、意志と闘志を感じさせる、強い光が宿っている。それが何に向けられているかまでは、もちろん分からなかったが、こんな目をしている人間が、単なる金目当てで、動くようには思えなかった。そんな人間に、あの清冽なまでの文章が、書けるはずはない。
それに、金銭目的での誘拐ならば、もっと扱いやすい子供でも狙うだろう。もしくは、もっと抵抗する可能性の少ない女性でもいい。オスカルがそれなりの訓練を受けていることを、ベルナールはその目で見て知っているはずだ。ならば、彼女でなければならない理由があるということになる。先ほどのエベールの発言からすると、どうやら父親に何かを要求するための人質のようだが、では、その要求とはいったい何なのか。父上でしか、ならないこと、それは、おそらく……。
「……父親のことは好きか?」
「は?」
唐突にそう尋ねられて、オスカルは答えにつまった。これまで、特段に意識して考えたことはなかった気がする。
「“好き”……か……。単なる好きとは違う気もするが、家族としての愛情は持っていると思う」
少し考えた後、迷いのない口調で言った彼女の言葉を聞いて、ベルナールは口の端に、皮肉そうな笑みを浮かべた。
「こちらで調べた限り、家族関係はうまくいっているようだったが、あんな電話で、のこのこおびき出されるくらいだから――やっぱり、そうなんだろうな」
字面だけ見れば、彼女を皮肉っているようにも取れたが、馬鹿にした調子は全くなく、その目には、わずかに苦痛とも哀しみとも取れる色が浮かんでいるように感じられた。不思議に思いながらも、オスカルは、深夜の呼び出し電話の内容を思い返した。
「まさか、あの電話は、おまえが?」
ベルナールは、にやりと笑った。
「今ほど、個人情報が裸で世界中にさらされている時代は、かつてない。特に公的な人間ほど、利用できる音声や映像記録は、少し探せばいくらでも出てくる。それを繋ぎ合わせて、自然な感じに調整するのも、技術的に難しいことではない。うまく引っかかってくれるか、多少、心配はしていたが」
左手をヘッドフォンでも押し付けるように耳にあて、右手でキーボードを打つ仕草をしてみせる。
あの電話の、父親の、わずかに不自然な口調と一方的な物言い。首をかしげないではなかったが、腹立たしさの方が先に立って、深くは考えず、あの父ならば、そういうこともあるかもしれないと思い込んでしまった。そう思わせるのに、父親がニースに来ているという事実も手伝った。
電話一本して、確認されれば終わりだったが、心理的に再度電話をかけにくい、深夜という時間帯も計算に入れて実行に移したに違いない。彼女と父親の性格も、ある程度リサーチして、賭けに出たのだろう。まんまと乗せられたわけだ。オスカルは、下唇を噛んだ。
「……何が目的だ?父上に、何をさせようとしている?」
「…………将軍がこちらの要求を飲んだら、詳しく話してやる。その時には、将軍と我々は、同志になったも同然だからな」
喋り過ぎたと、ベルナールは椅子から立ち上がり、踵を返して部屋から出て行こうとした。
「何をするつもりだ!ベルナール・シャトレ!」
そう叫んだオスカルのことは無視して、ベルナールはドアを開けた。オスカルの監禁されている部屋よりも、むしろ廊下の方が明るく、アフメッドと呼ばれていた青年の横顔がちらりと見えた。ベルナールは一言二言、彼に何か告げると、初めて彼女の方を振り返り、それから扉を閉めた。

再び一人になったオスカルは、大きく息を吐きながら、枕に頭を深く沈み込ませた。羽毛のつまった枕はふわふわと、彼女の頭を包み込む。ベッドも家具も、18〜19世紀頃に作られた、質のよいアンティークだ。彼女の好みにも合っている。こんな状況でなければ、居心地のよさそうな部屋だった。
薄暗い照明も、心を落ち着かせたが、部屋全体が妙に暗いのは、外光を取り込む窓が一つもないためだと気づくと、部屋の雰囲気が、一変して異様に感じる。元々、監禁するために特別にあつらえられた部屋なのか、そうでなければ、窓が作られなった理由は、他にひとつくらいしか思い浮かばない。
おそらく、窓を開けても、空も風景も見えず、新鮮な空気も取り込めないから――どこかの地下に、この部屋はあるから。
そう思って見ると、天井付近に換気口のような長方形の穴があって、かすかに中から機械音がしていることに気づいた。
ここで目覚めた当初よりも、思考力や五感が、かなり回復してきている。頭痛も治まり、気分はよくなっていた。しかし、まだ、ガスの影響で、全身はだるく、足や手の先が、わずかに痺れていた。
扉の前で、あの青年が見張っている上に、身体がこの状態では、今は自力で逃げ出すのは無理だろうと判断する。回復を待ち、機会を伺おうと心に決めた。
きっとチャンスは来る、そう自分に言い聞かせるものの、ふと、不安がよぎらないではない。
果たして、無事に戻れるのだろうか。100%の確信はなかった。誘拐者が、名前も顔も曝しているということは、裏返せば、交渉が決裂した時には、無事に帰すつもりがないということだ。
もし、父が要求を飲めば、“同志も同然”だとベルナールは、妙なことを口走っていた。何らかの弱みを作らせ、父親を何かの組織にでも取り込むつもりなのだろうか。
オスカルは本能的に、灯りの方に寝返りを打った。蝋燭の炎を模した電球は、本物の炎のようには、揺らめきもせず、微弱ながらも一定の明るさを放っている。手をかざすと、指先が触れそうになるまで近づいた白熱燈は、うっすらと温かかった。
光の中に、アンドレの顔が浮かんだ。どれほど心配しているだろうか。きっと、自分を探し回っているに違いない。
このまま、自分が帰らなかったら……。
手が電燈の表面に触れ、慌てて引っ込める。それほど熱くもなかったが、そこから電流が身体の中を走り、心臓にまで伝わったような痛みを覚えた。

父は、私のために要求を飲むだろうか?
Nonと拒絶したとき、私は。
Ouiと答えたとき、私は――。


ドンドンという、やや粗雑なノックがして、我に返った。上体を起こして、唯一の外界との接点である扉の方を見る。
彼女が入室を許可する前に、さっさと扉は開かれ、アフメッドがぬっと顔を出した。肩でぐいっとドアを押し広げると、両手でトレーを支えて入って来る。
「飯だ」
そう、ぶっきらぼうに言うと、やや乱暴にテーブルの上に、それを置いた。
スープの皿と、炭酸水の入ったガラスのコップに、平皿に載せられた、パンと、煮込んだ肉料理が少量。肉料理からは、独特の香りがした。馴染んだものではないが、オスカルも知っている匂いだ。クミンなどのハーブの匂い。スープには、ひよこ豆が入っている。
彼女は、ベッドの端に腰かけたものの、テーブルには近づかなかった。
「何だよ、早く食ったらどうなんだよ」
アフメッドが急かしたが、彼女は動こうとしない。
「また、薬でも盛られていたら、困る」
少しからかうような口調で、オスカルがそう言うと、アフメッドは舌打ちした後で、「そんなケチくせえこと、おれがするかよ」と吐き捨てるように言った。
「拉致監禁されている身だ。疑り深くもなる。信用しろと言われても、“はい、そうですか”というわけには、いかん」
彼女の言い分は、至極当然だった。アフメッドは言い返す言葉が見つからず、腕組みをし、オスカルをにらみつけたが、彼女がひるむ様子を見せないので、いまいましそうに顔を背け、いらついて貧乏ゆすりを始めた。
「――何も入っていないと言うなら、食べて見せたらどうだ?」
オスカルにそう言われて、アフメッドは目をむいた。この女、何を考えてやがると、再びにらみつけたが、彼女が少し顎をあげ、挑発するような仕草を見せると、鼻息も荒く、乱暴に椅子を引くと、どかっと腰を下ろした。
「食って見せりゃ、いいってか!だったら、ちゃんと見てな!」
アフメッドは、スープをたいらげてから、左手にパン、右手にフォークを持ち、肉料理とパンを交互に口に運んだ。パンくずがテーブルの上に落ち、煮込みの汁もはねる。あまり品がいいとは言えなかったが、見事な食べっぷりではあった。
オスカルは、青年の姿を愉快そうに眺めていた。「薬でも盛られていたら――」と言ったのは本音ではあったが、もう少し、この青年を観察してみたかったし、できれば話もしてみたかった。さっき、ふらつく彼女を支えてくれた手つきが、引ったくり常習犯のゴロツキにしては、思ったより丁寧だったから。

「アラブ料理……チュニジア?それともアルジェリア?」
オスカルが尋ねると、アフメッドは食事の手を止めず、口に食べ物が入ったままで、それでも律儀に「アルジェリア」と答えた。
「おまえが作ったのか?」
アフメッドは、無言で肯いた。
「国は、アルジェリアか?」
「違う。親は移民の子だけど、マルセイユで生まれたから、おれはフランス人だよ」
皿の上の料理は、そんな会話を交わしている間にも、みるみるうちに、まだまだ育ち盛りの若者の胃袋に収まっていく。
「なぜ、ひったくりなんて?」
口に入れたパンを奥歯で噛みしめるようにしながら、彼はオスカルの顔をじっと見た。ごくんと喉を鳴らすように、それを飲み下すと、これまでとは違って、饒舌になった。
「スーパー・マーケットに入った途端に、警備員に後をつけられたことがあるか?CD売り場になんて行こうものなら、ずっと張り付いていやがる。最初から疑ってるんだ。ありつける仕事だって、ろくなもんが、ありゃしねえ。それだって、ありつければマシな方だ。あんたみたいのには、わからねえだろうな」
「……そうか……」
1970年代までに、単純労働者として迎え入れた移民たちやその家族を、今や国が持て余し、社会問題化しているのは、オスカルも知っている。時には暴動すら起きている。2005年の大規模な暴動は記憶に新しい。フランスの若年層の失業率は2割を超えているが、移民の多く住む地区の失業率は、その全国平均よりも、ずっと高い。この青年も、盗みなど、やりたくてやっていたのではなかったのだろう。
「おれは、おやじみたいに、朝から晩まで働いても、やっと家族を養えるかどうかなんて暮らしはごめんだ!この国は、おれ達にチャンスをくれもしねえ。だけど、黒い騎士の作る国について行けば、人並み以上の暮らしができるんだ……」
「黒い騎士の作る国?」
オスカルが、彼の言葉を拾うと、アフメッドは、しまったという顔をし、それからは、何を訊いても答えようとしなくなった。やがて、口を手の甲でぬぐうと、トレーを持って無言のまま立ち上がり、部屋を出て行こうとした。その後ろ姿に、彼女は声をかけた。
「待ってくれ。最後に一つだけ。今は、いったい何時頃なんだ?この部屋には窓がないし、時計も置いていないから」
アフメッドは、うっとうしげに頭をゆらゆらとさせたが、それでも、質問には答えてくれた。
「もう、夜だよ。あんた、ほぼ一日中、寝てたんだ」
ドアがバタンと音を立てて閉められる。また、かすかなエアコンのような音以外は、何も聞こえない薄暗闇の中に、オスカルは一人で取り残された。
意識を失っている間に、既に一日が経過していた。その間に、ベルナールは、父親であるジャルジェ将軍に連絡を付けているはずだ。父は何と返答するのだろうか……。
アンドレは、別荘に訪ねて行っただろうか。父とは会ったのだろうか。自分の行方がわからないので、もしかすると、警察にも行ったかもしれない。だが、せいぜい、アフメッドのことを疑うくらいで、まさか自分がベルナールに囚われているなんて、露ほども思わないだろう。
ふと、過去の記憶が頭をよぎった。夢で見た光景。結ばれたばかりの彼が、銃弾に倒れる。その時の、あの胸が張り裂けそうな思い。幸せが、掌の中で、なす術もないまま、粉々に砕けていくような、どうしようもない喪失感。
今度は自分の方が――?彼を置いて、先に逝くのだろうか?
運命とは残酷なもので、形をわずかに変えても、同じように繰り返すものなのだろうか。壁にできた影が、自分の尾を食む蛇の姿に見えた。
オスカルは目を閉じた。目の奥がちりちりと痛む。彼女は、意識的に何度かゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
瞼の裏に、あの航空事故の日のことが蘇った。無線を通して伝えられた、彼の言葉。そして、空港の一室で、帰還した彼女を抱きしめた彼の、広くあたたかい胸と、力強い腕。
トラブルを抱えたランディングに、命を預かる重責と、言い知れぬ不安を感じていた。その時にくれた、彼の言葉は、負の要素を払拭した。彼女に生きること、それだけを思わせた。生きて、彼のもとに帰る。その思いが、自分を支えてくれた。
彼が自分自身で言ったように、ある意味で、彼は何もしなかった。だが、何物にも勝るものを自分に与えてくれた。
あの時、ふたりは、確かに、物理的には遠く離されていたのだが、同時に、確かにつながっていた。誰も何者も邪魔はできないくらいに。

昨夜、オスカルは、彼の腕を枕にして眠ろうとした。電話のせいで、それは叶わなかったのだが、アンドレはいつも律儀に腕を貸したままでいるから、ときどき、朝まで彼女の頭を乗せたままでいて、目覚めてから、しばらく、腕が痺れて動かないと、ぼやく。
遠い時の彼方で、一度失って、再び、やっと手に入れた、彼のぬくもり。それは、生きた血の通った温かさで、肌が覚えてしまっている。

オスカルは目を開いた。自分でも驚くくらいに、心が凪いでいた。彼も自分も、まだこの地上に存在して、つながっているのだと思うと、身体の奥の方から力が湧いてくる。自分の力以上のことが、できるような気がしてくるから不思議だ。


決して、手放したりなどしない。絶対にあきらめない。
運命などというものがあったとしても、自分が、この先を書き変えてみせよう。

彼女は、背筋をまっすぐに正すと、言った。壁に、もう蛇はいなかった。
「愛している、アンドレ」
それから、天井を振り仰いだ。
「このオスカルを、そして彼を、甘く見るな」



(つづく)





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