フラクタル 〜水面下〜




現在、世界が抱える諸問題の中で、最も重要かつ最優先事項を選べ、と言われたら――。
アンドレにとってそれは、オスカルの奪還以外には考えられなかった。なのに、彼女につながる手がかりを握っていそうなこの男は、顔色ひとつ変えずに淡々と、まるでさっき見た映画のストーリーでも説明するかのように、事件のことを語る。
「……18世紀の終わり頃、貴族の館を荒らしまわった怪盗が、そう呼ばれていてね。正体を掴ませないのに、ごっそりお目当ての物はかっさらっていくところが似ているってことで付けられたんだ。おれの上司が歴史に詳しくて……。もしかして、知ってるかな?」
「そんなことは、どうでもいい」
アンドレは、爪が食い込むほど強く拳を握り締めた。静かだったが、声からは、普段の人好きのする明るいトーンが消えていた。男は肩をすくめた。
「わかったよ。横道は全部カットして、本筋だけ追おう」
そうは言ったが、男の歯切れは相変わらずよくない。本人も、まだ整理がついていないのだろう。いくつかの断片的な情報を、頭の中でつなぎ合わせながら、話しているからのようだった。
「この、黒い騎士って奴は、時にはハッキングされたことすら気が付かせないすご腕でね。でも、鮮やかすぎる手口がかえって奴の特徴になって、奴の犯行だと99%以上の確率で断定できるものだけで、十数件。余罪は、それこそ数え切れないくらいだろうね。集めている情報に一貫性があるし、伏せられているけど、EMA(統合参謀本部)やDAF(財務局)なんかも侵入されてる――たまに、撹乱のためにアダルト・サイトやショッピング・サイトなんかの情報を抜いたりしているけど――どうも、愉快犯的なものじゃなくて、組織的な匂いがする」
男は、そこで一拍置いた。
「何年もかけて追い続けて――ま、それだけしてたわけじゃないけど――掴んだプロファイルはたったそれくらいのものだったのに、ここへ来て、動きが変なんだ。雑っていうのかな……何か、慌てているような感じで。現場に、いくつも証拠を残しながら、あちこちで犯行を重ねていくみたいな。痕跡がトレースできてしまって、その中でいくつかのキーワードが浮かび上がった。その中に、ジャルジェ将軍とご令嬢の名前があってね」
「オスカルと――?」
その父親の名前。アンドレは、しばし考え込んだ。彼女が言っていた、“父親が急にスケジュール変更した場合”に、今回があてはまるということだろうか。将軍は、何か目的があって、南仏にやって来た。一体、それは……。
「彼女から、何か聞いていない……?」
アンドレが首を振ると、「……だよね」と、男は最初から期待していなかったけどと、頭をかき、軍に問い合わせても教えてくれず、かなりの極秘任務であることは間違いないようだと言った。
「お嬢さん、その辺りは、知っていても言わないように躾けられているだろうしね。尾行をまくやり方も、よく訓練されてたみたいだ。おれの前につけていた奴をあっさりまいた後、おれのことにもすぐに気がついて、振り切ろうとしてた。彼女が車に乗り込んだ後、走って追いかけたら、歩道にこれが転がってて」
男は、テーブルの上の携帯を指差した。
「それから、彼女が向かっていたジャルジェ家の別荘を訪ねたけど、彼女は来ていないと言うし、将軍も不在で門前払い。手がかりはそこで、ぷっつり」
そこまで聞くと、アンドレのこめかみが、ぴくりと動いた。
「……もしかして、おれの名前を語ったのは、おまえか?」
「ああ、ごめん、ごめん。だって、見ず知らずの人間が訪ねて言っても、本当のことは教えてもらえないだろうからね」
一応、謝りはしたものの、その態度には不思議なくらい悪びれたところがなく、あっけらかんとしている。アンドレは、半ばあきれ、だんだんと男の性格というものがわかってくると、苛つくだけ損な気がしてきた。
「オスカルを尾けていたと言ったが、どうして、オスカルが別荘に向かっていることを知っていたんだ?」
「ああ、それは携帯を傍受……」
簡単に言われ、一度は、もう怒るまいと思ったアンドレも、色をなす。相手はオスカルや自分のプライバシーを覗き、侵害しても、わずかの罪悪感も抱いていない。
「まさか、この部屋に、盗聴器なんて仕掛けていないだろうな!」
「まだ……」
「まだ!?」
冗談ではないと、ソファから立ち上がって憤るアンドレに、男はこれも、「未遂だから」と軽くいなす。食えない奴。確信犯だ。
「ともかくさ、近年、うちも予算カットの人手不足で、すぐには応援を手配してもらえないんだよね。何が狙いかはまだはっきりしないけど、将軍の娘を誘拐するなんて大胆な手に出るくらいだ。きっと、向こうは勝負をかけてきてる。だからこそ、千載一遇のチャンスなんだ。で、利害が一致しそうな君に手伝ってもらえないかと思ってさ」
立ち上がったままのアンドレを見上げた男の目が、鋭く光った。いままでのおちゃらけた感じとは、空気が一変し、アンドレはごくりと唾を飲み込んだ。
「ここまで話したんだし、やってくれるよね」
既に決定事項のような言い方だった。アンドレには他に選択肢がないだろうと、見透かしている。
ここまでの話から察するに、男は政府機関の人間のようだ。捜査のためなら、令状なしに盗聴も許されている、表立った機関ではないようだ。その相手から、捜査上の機密事項を洩らされたということは。その時点で、とっくにアンドレは巻き込まれていたことに、今さらになって気づく。握っていた拳の中が汗ばんでいた。
加えて、他に、オスカルへつながる手がかりは何もない。確かに、アンドレが選ぶ答えは、最初から一つしかなかった。
「どこの誰ともわからない人間を信用できるとでも?」
利害は一致していると言ったが、この男の目的は黒い騎士で、自分が取り戻したいのはオスカルだ。男が目的を達成する過程で、自分達は、切り捨てられる可能性だってある。どれだけ信用していいのか。
あっさり提案を飲むに違いないと思っていたからか、アンドレが意外に骨があり、頭の回転も速いことに、男は、感心したような表情を浮かべた。
「君の言い分は最もだ。だが、どこの、は知らない方が君の身のため。名前は」
男は、立ち上がると、右手を突き出した。
「――おれの名前は、エオン。エオン・ド・ボーモンだ」
アンドレはその手を取るかどうか、一瞬、迷う。
その名前が、本名なのか偽名なのか、それは、確かめようもないことだ。もし、それが仮に本名だったとしても、それが信頼の証になるのか、この男とバディを組む理由になりうるのか。場合によっては、自分も、そしてオスカルの命も賭けることになるかもしれないというのに。
彼はエオンの黒目がちの目を見つめた。互いに目と目を合わせて、見詰め合う。
壁に嵌め込まれた、白い大理石のコンソールの上で、装飾用で、いつも遅れがちなアンティーク時計が、カチコチと時を刻んだ。

「で、エオン、これからどうすればいい?」
アンドレは、差し出されていた手を取った。
触れた、細くて長い指とやわらかな掌の感触は、女性のそれに近かったが、握り返して来た力は相当強く、アンドレは、顔をしかめる。エオンは、男とも女ともつかない、妖しい微笑を浮かべた。
「大丈夫だ。布石は打ってある」
不思議な魅力のある微笑に、自分は幻惑されているのではないかと思う不安定さの中で、アンドレは、しばらく、確かなものを探るように、相手の手を離さなかった。頭の中では、ただひたすら、無事でいてくれと、オスカルの姿を強く思い描いていた。


瞼を開けると、そこは薄暗がり。ベッドサイドにひとつだけ灯る光源を受けて、辺りがぼんやりと浮かび上がる部屋で、オスカルは目覚めた。頭がずきずきと痛み、吐き気もする。まだ目が少しかすんだ。体を起こすこともできないまま、首の回る範囲で周囲を確認すると、どこかの高級ホテルか別荘の一室のようだった。豪華な壁紙と、金の装飾のある柱や扉。優美な曲線をもつ、猫足の家具類、幾何学模様に組み込んだ寄木の床。オスカルは、天蓋のあるベッドの上に寝かされている。不思議なことに窓が一つもなかった。光源は、ベッドサイドに灯る燭台だけだ。
部屋全体が、様式でいえば、ロココを思わせ、天井から釣り下がったシャンデリアと、ベッドサイドの蝋燭を模した灯りの先端が電球でなければ、タイムスリップでもしてしまったのかと錯覚するところだった。
「ここは、一体どこなんだ……」
スプレーを吹きかけられて気が遠くなったところまでは覚えている。見覚えのない部屋にいるということは、不覚にも拉致されてしまったということなのだろう。
しかし、なぜ、どうして。新聞記者である、ベルナール・シャトレが、こんなことをするのか。なぜ、自分が、その一味に捕らえられなければならないのか、皆目、見当がつかなかった。
しばらく、ベッドに横たわったまま、天蓋を見つめていると、頭痛や吐き気が少し弱まった。まだ薬品の影響は残っていたが、現在、彼女の側には見張りはいないようだ。何とかドアをこじ開けて、この部屋から脱出できないかと、彼女は、鉛の服でも纏っているような重たい体をゆっくりと起こした。座っていられるのを確かめると、それから足をゆっくりと床に下ろす。立ち上がろうとしたものの、足に体重をかけた途端に、よろけた。慌てて近くにあった椅子の背に掴まろうとしたが、椅子と一緒に倒れこんでしまう。膝をついた彼女の横で、木製の椅子は大きな音を立てて、小さく2、3度、バウンドした。
すぐに扉が開き、誰かが入って来た。
「おい、大人しくしていろよ!」
そう言って、オスカルの体を支えながら、ベッドに連れ戻した。また頭痛と吐き気が襲って来て、オスカルの呼吸は荒くなり、胸がそれに合わせて上下する。
「おまえは……」
苦しげな息の下で、彼女がそう言うと、相手は顔をしかめた。
それは、あの、マルセイユで彼女が捕まえた二人組のうちの一人で、さきほど街角で見た、あのアフリカ系の青年だった。
「おい、アハメッド、何してやがる。大事な人質なんだぜ。手を出すなよ」
もう一人、後から入って来た男が、青年を怒鳴りつけた。
「エベール、何もしてないよ。あんたじゃあるまいし……」
青年が口答えすると、エベールという中年の男は、彼の頬を勢いよく、平手で殴打した。予想していなかったためか、痩躯のアハメッドは、床に倒れ込んだ。
エベールは、もみあげの濃い、目尻の垂れた、やにさがった顔つきの下品な感じの男で、どうやら、青年と一緒にオスカルの見張りに付いていたようだ。遅れて入って来たところを見ると、青年を扉の前に立たせ、自分はどこかで油を売っていたのだろう。
エベールはオスカルに向き直ると、にやにやと薄笑いを浮かべた。
「あんたも、父親がこちらの条件を飲みさえすれば、すぐに家に帰れるんだから、逃げようなんて思わない方が、余計な痛い思いをしなくせ済むぜ。しかし……」
見れば見るほど、いい女だぜと、濃い産毛の生えた手が、彼女の方に伸ばされる。背筋に冷たいものが走り、オスカルは反射的に顔を背けた。だが、彼女の白い頬に手が触れそうになる直前で、エベールの肩は引き戻された。
「二人共、持ち場に戻れ」
落ち着いた声が命令する。それは、聞き覚えのある声だった。
癖のある黒髪が少しアンドレと似ているが、顔つきはずっときつい印象で、目つきも鋭い。オスカルを巧みに車に乗り込ませ、眠らせて、こんなところに監禁した男。あの新聞記者。
ベルナール・シャトレだ。
エベールは軽くベルナールを睨みながら、部屋を出て行く。アハメッドも立ち上がると、その後につづいた。
「手荒なことをして、悪かったな。こちらも、予定が狂って、少々、慌てているものでね」
ベルナールは、オスカルが引き倒した椅子を床から起こすと、そこに座った。



(つづく)





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