フラクタル 〜失われた時を求めて@〜




おそらくではあるが、その制御し難い感情が何と呼ばれるか、彼女自身、自覚していなかったかもしれない。


昨夜と打って変わって眠れない夜を過ごしたオスカルは、わずかにまどろんだものの、なかなか顔を出そうとしない春の太陽よりも早く、暁のうちに目を覚ました。
しばらくベッドに横たわっていると、鎧戸の隙間から朝の清涼な空気を感じさせる光が幾筋か漏れ入って、日の出を知らせた。光は部屋のカーペットの上に落ち、ゆらゆらと形を変えた。今日は風が強いらしい。
オスカルは、昨夜の出来事を思い返してみた。
思わず口をついて出てしまった女の名前と、弁解する彼。彼の戸惑った顔と、だんだんと暗闇に紛れて見えなくなった、やるせないような背中。
「子供か、わたしは……!」
“敢えて話す必要なんてないから……”
全くアンドレの言うとおりだった。
理性では分かっている。
分かってはいるのだが、心にわだかまった凝りは、自分の意思ではどうすることもできず、一夜たっても消えないままだ。
自分のこだわりは、ただ二人の関係を傷つけているだけなのに、これまで感じたことのない強い負の感情が、彼女をつき動かす。
オスカルにも、向こうから近づいて来て短期間だけつき合った相手はいた。しかし、その誰一人にも、このような感情を抱いたことがなくて、どうすればコントロールできるのかが、皆目分からない。
むくりと起き上がってベッドから下りると、鎧戸の隙間からもれる微かな光の筋にそっと手を触れてみる。触れた感覚すらないのに、光は透明に彼女の手の甲を照らし、白い肌にわずかに浮き出た青い静脈を際立たせた。薄暗い室内で、そこだけが妙に明るい。

身支度を済ませて母屋に向かった。母屋では、既に生活の気配がしていた。室内には、マロンとコリンヌに今日はセルジュもいて、彼女が挨拶すると、セルジュは「おはよう」と一言返して、じっと彼女の顔を見つめたかと思うと、また仕事場に行くのか、母屋を出て行ってしまった。コリンヌが今すぐ朝食の支度をしますねと、彼女をダイニングへと促した。
テーブルにはアンドレがいて、朝食をとっていた。彼女は一瞬、ためらったが、彼の隣の椅子を引くと、当然のような顔をしてそこに座った。
アンドレがバゲットをかじる。
「おはよう」
オスカルから声をかけた。
「……おはよう」
アンドレが挨拶を返す。
すぐにオスカルの分をコリンヌが運んで来てくれ、彼女はまずカフェオレに口をつけた。
「午前中は教会に行くのだったな」
「ああ」
次に彼女は、バゲットにバターを薄く塗ると、口に運んだ。
「わたしも行く」
アンドレは彼女の方は見ないままで、ジャムを乗せたヨーグルトの器に手を伸ばした。
「……うん」
あまり和やかとはいえなかったが、表面上は会話が成立している。
アンドレは、内心、胸をなで下ろした。一晩たって、彼女も冷静になったのだろう。まだオスカルの口調にはぎこちないところがあったが、彼と行動を共にすると宣言することで、昨夜の怒りを抑えようとしているのだと、自分に伝えているのが分かった。それが、彼女の精一杯の表現であることも、彼にはよく理解できた。

食事の後、教会に行くまでにまだ少し時間があったので、アンドレはマロンと屋外で一仕事することになり、オスカルは一人、室内に取り残された。
人気のないダイニングは閑散として、何となく居心地が悪かった。ただキッチンでコリンヌが食器を洗う音だけが、生きている人間がいる証のように響いている。
オスカルはたまらなくなってキッチンをのぞいた。
「何か、お手伝いできることはありませんか?」
ひょっこり顔を出したオスカルに、コリンヌは手を止める。
「あら、ゆっくりしていて下さい。いいんですよ。お客様なんですから」
オスカルが手持ち無沙汰で、と言うと、コリンヌはわずかに首を傾げて考えた後で言った。
「それじゃ、悪いけれど、ふいたお皿を戸棚にしまって下さる?」
オスカルは言われた通りに、シンクの横に置かれていた皿やコップを棚に片付け始めた。同じ種類の食器を探し、わからない場合は聞きながらの作業で、あまり効率のよい手伝いとはいえなかったが、何かしている方が、気が紛れた。
「朝も、結構な洗い物になりますね」
夕食の時とは比べ物にならないが、5人もいれば相当な数の食器を使うことになる。
「アンドレがいると、余計にね」
コリンヌが食器を洗いながら言った。オスカルは戸棚にしまおうとしていたカップを引っ込めて、どういう意味か尋ねた。
「……ほら、あの子、朝からよく食べるでしょう?」
コリンヌは皿洗いの手を止めないで、オスカルの方に首だけ振り返った。手にしたカフェオレ・ボウルが逆さにされて、こぼれ落ちた水が、ゴポポと音を立てて排水口に飲み込まれていく。
「アメリカにいた時のことを思い出すと、昨日みたいに朝から調理までして。特に、一日がんばらなくちゃって思う日には、しっかり食べなくちゃって」
オスカルは、昨日の朝のことを思い起こした。
極一般的なフランス人は、バゲットや甘いパンと飲み物くらいで簡単に朝食を済ましてしまうものだが、昨日の彼のしっかりした朝食といったら。
あの子は自分で作れるから、そこはいいのだけれどと、コリンヌが洗い終わった皿をシンク脇の籠に置いた。オスカルは拭いて片付けましょうと言いながら、次の言葉を待った。
「じゃあ、そこの、使って拭いて下さるかしら?」
オスカルはコリンヌが指差した布を手に取る。
「あの子、リセを卒業後、エクスの大学に進学したけれど、休学して2年くらい世界を回っていたでしょう?その時に、アメリカに半年だったか一年だったか留学して、カレッジで文学や作家になるためのライティングのコースを受講したりして。大学進学はしたものの、最初は何になりたいのかもわからなかったみたい。旅しているうちに、作家になろうと決心して、そのための勉強を本格的に始めたの」
コリンヌは手際よく食器を洗って、オスカルに手渡す。オスカルは慣れない家事に精一杯慣れているふりをして、渡された食器の水滴を少し危なっかしい手つきでぬぐった。
エクスの大学で学んだことは、オスカルもアンドレから聞いて知っていた。しかし、アメリカで生活していたことは初耳だった。
洗っていない皿は残り一枚になった。コリンヌの手にしたその白い皿に、水道からの水が当たり、表面を伝った水がステンレスのシンクに落ちていく。
「わたしね、若い頃は英語と国語の教師をしていたの。――だからね、アンドレにはみっちり仕込んでいたのよ」
そのためにアメリカのカレッジでも、言葉には不自由しなかったらしい。そういえば、自分達がメールのやりとりをするきっかけになったのは、彼の翻訳の仕事だった。
どうりで、とオスカルは思った。アンドレもアンドレの母親も、訛りのない、きれいなフランス語を話すわけだ。マロンとアンドレの父親の、強い南仏訛りと比べると、ニュースや外国人向けのフランス語講座ででも耳にするような、極めて標準的な“正しい”フランス語発音。
「今もときどき代用教員や補助教員として子供たちを教えているんですよ。――…ところで、ソーという街をご存知かしら?」
唐突に言われて、オスカルの手が止まる。ようやく頭の中の知識を検索して、ラベンダーで有名な所ですねと答えると、コリンヌは満足そうに微笑み、肯くとつづけた。ソーは、プロヴァンス地方にある高原の村だ。
「あそこが生まれ故郷なの。そこの学校で教えていたのだけれど、その時にあの人がラベンダーの買い付けにやって来てね。そこで出会って――」
食器をすすぎ終わると、コリンヌはタオルで手をふき、冷蔵庫の中から食材を選び始めた。教会に行く前に、昼食の下ごしらえを済ませてしまうつもりのようだった。食材を選び終えると同時に、寸胴鍋をコンロにかける。
昨夜から水につけて戻しておいた干しえんどう豆を、たまねぎやブーケ・ガルニと一緒に煮始める。鍋の中を軽くかき混ぜてから、コリンヌがクスクスと笑い出した。どうやら思い出し笑いのようだった。
「これでも、わたしね、同僚に婚約者がいたのよ」
「えっ?」
コリンヌは次に、冷蔵庫から出したニンジンにピーラーをあてて皮をむき始めた。
「実家が香料になる花の栽培農家で――今は兄が継いでいるのだけれど――あの人ったら、会った翌週から毎週、欠かさずソーにやって来てはうちを訪ねて来て言うの。街を案内してほしいとか、畑を見たいとか。たまにプレゼントを渡されたり、ね。そこまでされると、さすがに言葉にされなくても気づくじゃない?」
オスカルが相槌を打つ。
「初めは無愛想な人だと、ただそう思っただけだったけれど、会う度に、あの人のいい所を見つけてしまったのよね……。それでつい、気持ちを打ち明けられた時には二つ返事でOuiって言ってしまったの!そこにたどり着くまでに、あの人ったら何と、1年もかかったのよ」
その後のゴタゴタを思えば、実際は大変な決心だったろうに、コリンヌは他人事のように軽い口調で話す。まるで朝食のバゲットにはコンフィチュール(ジャム)を塗ろうかバターを塗ろうか、それともヌテラ(チョコナッツクリーム)にしようか、ちょっとだけ迷って決めた時のような、そんなさらりとした口調だった。
「あの人、本当はとても気のいい、優しい人なの」
コリンヌが仕事の手を止めた。仕事場に篭ってばかりで、ごめんなさいねと夫にかわって謝る。
「たぶん、今もそういう感じだと思うの。何か考えるところがあるのだとは思う。口下手で、職人気質といえば聞こえがいいけれど、思い込んだら一途なところが、良くもあり、悪くもありで」
困ったものねと言ったコリンヌの言葉の調子には、しかし少しも非難めいたものはなく、むしろ夫への大きな愛情が感じられるくらいだった。
「大丈夫です」
そう言ったオスカルの言葉に、偽りはなかった。セルジュの態度の理由はわからなかったが、人間自体は嫌いになれないような、そんなところがあった。それは決してアンドレの父親だからという理由だけではない。
「わたし達の馴れ初めをお話したのだから、聞いてもいいかしら?……あなたとアンドレの出会いのきっかけは?」
「あ…、それは、アンドレの本を読んで、わたしがメールしたことがきっかけで……」
急に自分達のことに話を向けられ、オスカルは一言ずつ言葉を選ぶようにしながら答えた。
「あら、あの子の本がきっかけなの!それは素敵な偶然ね」
―偶然―
自分と彼の前世からの因縁をコリンヌは知らない。
オスカルにしてみれば、この世のものかどうかも分からない書店のこともあり、彼との出会いは“必然”で、もし彼が作家になっていなくても、きっとどこかで出会えたのではないかと思っている。しかし、彼の書いた本に導かれるようにして、二人が出会ったのは間違いない。
「それだけでも、作家を志した甲斐があったというものだわ!調香師になっていたら、会えなかったかもしれないじゃない」
「アンドレは調香師を目指していたのですか?」
これも聞いたことがない事実だ。調香師である父親から手ほどきを受けたとは聞いていたが、職業として目指していたとは知らなかった。
コリンヌは軽く首を横に振った。
「主人としては、跡を継いでもらいたい気持ちはずっとあったのね。小さい頃からあの子に指導していたから、それは、アンドレも感じ取っていたと思う。あの子も楽しそうに見えていたから、リセを卒業したら、父親の下か学校で調香師として修行を積むものだと、みんな、そう思っていたの」
コリンヌの左手から、シンクに置かれたざるに向かって、皮をむかれたニンジンが落とされる。
「――ぎりぎりになってエクスの大学に進学することにしたって報告されたときには、わたしもさすがに唖然としたものよ……。あの子なりに悩んで、ずっと言えなかったのでしょうね。大学で何を勉強したいのか尋ねたら」
コリンヌの手がしばし止まったが、すぐにまた作業を再開した。野菜の皮むきをつづけながら言う。
「あの子ったらね、“ここには、おれの探しているものがない”って、そう言って家を出て行ったの」

それからオスカルの仕事の話に話題が移り、彼女は、フライトのおおよその流れや訓練の話、自分が訪れた国のエピソードなどをコリンヌに話して聞かせた。コリンヌは、自分も夫も南仏からほとんど出たことがないからと、楽しそうに聞いていたが、その手は止まることはなく、一通りオスカルの仕事について話し終えた頃には、すっかり昼食の準備が済んでいた。
アンドレが二人を呼ぶ声が聞こえた。そろそろ教会に行く準備をしないかと。
オスカルに、さあどうぞ外出する準備をして来て下さいと声をかけて、彼女はエプロンの紐を解き始めた。
離れに戻る前に、最後に一つだけ、とオスカルが質問した。
「アンドレが作家になったことを、セルジュさんは、快く思っていない……?」
コリンヌはエプロンを畳みながら、笑った。それから人差し指を立てて、軽く唇にあてる仕草をしてから言った。
「さあ?どうかしら、わたしも聞いていないの」


部屋に戻ると、オスカルは何着か持って来た上着の中から一着を選び、ハンガーから外した。やや紫がかった濃紺の上着だ。手に取って眺める。手触りのよい、丁寧に織られた上質の生地。襟には、生地よりさらに濃い色でステッチされた、細やかな波型の刺繍が施されている。その規則的な動きを目で追う。
ここに来て初めて知ったことが、頭の中を駆け巡った。かなり重要なことなのに、自分は今まで聞かされていなかったこともある。アメリカへの留学や、父親との関係。
まだそれほど長い時間を一緒に過ごしているわけではないから、知らなかったことがあっても、おかしくはないとは分かっている。ただ、話す機会がなかっただけだ。自分だってこれまでの全てをアンドレに語って聞かせたわけではない。
また昨日の、女性としてひどく魅力的な幼馴染の姿が浮かんだ。
「ああ、もう、だめだ、だめだ」
何をまた感情的になっていると、頭を強く振る。金色の長い髪が鞭の先のように、頬を叩いた。
「感情をきちんとコントロールすることに決めたのだから……」
彼女は上着を着ると、しっかりとボタンを留めて、部屋を出た。



(つづく)





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