フラクタル 〜想定外〜




予想どおりに物事が運びすぎて想定を越え、たまさか自分のコントロールの範囲を超えてしまって、蚊帳の外に置かれる。そんな経験がないだろうか。また、自分ではどうしようもないタイミングの悪さに閉口することも、長い人生の中で一度や二度は誰しもあるはずだ。
その日のアンドレは、そんな感覚を一気に味わうことになった。

翌朝、彼が目を覚ましたのは昼近くだった。早起きの彼にしては、珍しいことだ。
昨夜はマロンに言いつけられた雑事を片付けた後、自分の部屋に戻ったものの、すぐには眠らなかった。その夜のうちに片付けておきたい用事があったからだ。ダンボールがいくつか、送られて来たままの状態で部屋の中央付近に放置されているし、テーブルの上には十数通の手紙が無造作に積まれていた。その始末をつけてからベッドに入ろうと思っていた。
ダンボール箱の中身は、彼がパリから実家に送った本だった。それぞれ箱の半分ほどに詰まっている。パリのアパルトマンにスペースの余裕がないので、あまり読まないが手放したくない本は、こうして実家に送るようにしている。開封して簡単に分類した後で、隣にある、彼専用の納戸に何往復かして運び入れ、それから、作り付けの本棚に並べた。
納戸には大量の本の他に、ケースにしまわれた衣類や、子供の頃に使っていて、捨てられないでいる思い出の品物などが放り込んである。折々に処分はしてきたものの、久しぶりに帰って来てこの物置部屋を見回すと、自分の生きてきた時間の長さと、それから密度といえばいいのだろうか、そういったものを感じる。
力仕事を済ませると、ベッドに腰かけて、テーブルの上に積まれていた手紙の山に一通り目を通した。パリへの転居を知らせていなかった友人や、役所関係、また不要なダイレクト・メールなどが混在している。まず、保存するべきものとそうでないものに分け、対応が必要なものには簡単に、しなければならないことと、しめきり日をメモする。
一連の作業が終わった頃には、とっくに日付が変わってしまっていた。急いで着替えを済ませると、ベッドに入る。しかし、眠気は一向に訪れなかった。体は疲れているのに目が冴えてしまっている。
仕方なく、読みかけの本をぱらぱらとめくったり、横になったままで葉書を見返したりした。
高校の時に同級生だったカップルには3人目の子供が生まれ、待望の女の子だった。
中学の時に学年で一番荒れていた同級生は、宣教師になってフランス各地を回る生活をしているそうだ。今はタヒチにいて、のどかな自然と人情に厚い人々の中で、穏やかな信仰生活を送っていると、青い海と空に白い鳥が一羽飛んでいる絵葉書には、そう書かれていた。
ちょっと気にかかっていた友人からのものもあった。結婚披露パーティーの招待状で、今は幸せなようで、安心する。
手紙や葉書の懐かしい筆跡を見ていると、一人一人の顔が自然と浮かんでくる。歳月は容赦なくそれぞれを変えているだろうから、今頃はどんなふうになっているのだろうかと、自然に想像が膨らむ。パリでの住所も現在のメールアドレスも知らせていない旧友たちとは、長いものは十数年、短くても数年は会っていない。しかし、葉書一枚で再びつながっているという感覚をもち、まるで会わなかった時間がなかったかのように感じることができる。友達とは不思議なものだ。

目に眩しい光が差し込んだ。気がつくと、枕元とベッドの下に、葉書が何枚か散らばっていた。あのまま気づかないうちに眠り込んでしまったようで、鎧戸の隙間から差し込む明るい日差しが、足元から顔まで、ベッドの上に縞模様を作っていたので、アンドレは慌てて飛び起きた。南向きの窓からこうして日が差し込んでいるということは、昼も近いはずだ。
寝坊したのは、昨日いろいろありすぎたせいだ。マルセイユからのドライブも、ずっと運転していたのは彼だった。どうせ祖母に叩き起こされて、朝から用事を言いつけられるに決まっていると読んでいたので、目覚ましのアラームをセットしていなかったせいもある。
あわててジーンズをはき、パジャマがわりの白いTシャツの上にタンガリーシャツを羽織ると、ボタンをかけながら階段を駆け下りた。
階段を下りながら、ふと思った。こんなに遅くまで寝かせておいてくれるなんて、おばあちゃんもさすがに年をとって少しは丸くなったのかなと。そんな風に思うと、ありがたさよりも、なぜか寂しさの方が先に立つ。

彼がダイニング・ルームに下りて来た時には、もうオスカルはとっくに食事を済ませて、サロンスペースで彼の祖母と母と三人でおしゃべりに花を咲かせていた。もっともオスカルが一言いえば、言葉が十倍は返ってくるという具合で、喋っているのはほとんど祖母と母だった。

サロンの入り口に寝癖も直さない起き抜けの顔で立っているアンドレに、初めに気づいて声をかけたのは、オスカルだった。
「おはよう、アンドレ。昨夜はよく眠れたか?」
「ああ、ぐっすり……」
二人が言葉を交わすと、マロンもコリンヌも振り返ったが、「ずいぶん遅くまで寝ていたもんだね」、「昨夜の残り物があるし、適当に自分で作ってね。あなたはプチデジュネにまでうるさいから」とそれぞれ一言ずつかけると、またおしゃべりに戻ってしまった。
疎外感。
なんだろう、この疎外感は。
起こされなかったのは、こういう訳か。自分の想像が先走っただけで、別に祖母が丸くなったとか、そういうわけではなかったのだ。
アンドレは言われたとおりにキッチンに行くと、残り物のサラダを冷蔵庫から引っ張り出し、それからバゲットを薄く切ったものをトーストにして、ベーコンに目玉焼きをそえた朝食を作ると、ダイニングテーブルに腰かけた。サロンスペースはダイニングとひとつづきになっていたので、三人の会話がはっきりと聞こえてくる。アンドレは、トーストを一口かじった。
「決定的瞬間って、こういうのをいうのね。ピュー…なんとか賞も取れるんじゃないかしら!」
ピューリッツァー賞ですかとオスカルが言うと、コリンヌはそう、それそれと、背の低い猫足のテーブルに広げてあった新聞を取り上げ、しげしげと眺めた。マロンも横から紙面をのぞき込んでいる。
同じ新聞が、アンドレが朝食をとっているダイニングテーブルの隅にも置かれていた。南仏の地方紙だ。
“置かれていた”というより、“積まれていた”、という方が正確かもしれない。数えてみると4部もあった。三人が見ている分を合わせれば、合計5部になる。
食事の手を止めて新聞を広げると、昨日の強盗事件が大きく取り上げられていた。一面にはならなかったものの、社会面でかなり大きく紙面を割かれている。この記事を見て、サロンスペースは盛り上がっていたのだった。
写真は合計3枚あった。オスカルが強盗を足蹴にしている、全身が写ったショットと、警察に連行される犯人達のしょぼくれた後ろ姿、それに最後に記者が、車のルーフ越しに撮った、オスカルの顔のアップ。少しピンぼけしているのは、ご愛嬌なのか、それとも、プライバシーに配慮して狙ってなのか。それでも、彼女の印象的なブロンドの髪と、強い意志の感じられるサファイア・ブルーの瞳は、彼女を実際に知っている人ならば、連想せずにはいられないものがある。それを彼の写真は、ありありと写し出していた。
記事本文には、昨日、記者から聞いた事件のあらましと同じことが書かれていた。やはり、あの二人に余罪があるのは間違いなく、現在も取り調べ中とのことだ。犯人捕縛に大貢献した彼女のことは、名前こそイニシャルで書かれるに留まっているものの、パリ在住のパイロットで、南仏を恋人と旅行中と、淡々と書かれていながら、読む人の関心をきっちりと誘う書き方なのが、小憎らしい。
アンドレのことは、“Jさん他一名の協力により――”と記述されるに留められていた。
「全く、アンドレがついていながら、お嬢様をこんな危険な目にあわせるなんて……!」
マロンがじろりとダイニングの方をにらんだ。アンドレは祖母と目を合わせまいと、広げた新聞の影に頭を引っ込める。
「お嬢様も、くれぐれも危ない真似はなさらないように、お気をつけ下さい!いくら、だんなさまに鍛えられたなんて言っても、オスカルさまはれっきとした女性でいらっしゃるんですからね!」
マロンがいきり立って説教するように言う。
「わかったよ、ばあや」
“ばあや?”
新聞の影から首を伸ばして、アンドレはサロンスペースを見る。祖母にそう呼ぶようにでも言われたのだろうか、いつの間にかオスカルは、マロンのことを “ばあや”なんて呼んでいる。今朝のオスカルは、祖母に対して態度も口調もすっかりくだけた感じになっていた。昨日が初対面とは思えないほどだ。
祖母の方もそうだ。普通、昨日今日会った相手に、あんな旧知の間柄のような説教口調で物を言うだろうか。“ばあや”と呼ばれて、どこか誇らし気にしているのも伝わってくる。
何となく、二人は気が合うのではないかと、そんな予感はあったのだが、こんなに急速に親しくなるとは思わなかった。
「きれいな上に、立派な職業について、しかも男性に負けないくらい、強いなんて」
アンドレは、今朝になっても、うっとりとオスカルを見つめる母を見て、彼女を故郷に連れて行くと電話した時のことを思い出した。
母は、きれいな物が好きだ。姿形もそうだが、本質的にきれいなものを見分ける嗅覚が鋭い。だから、きっとオスカルのことは気に入るに違いないと、そう思いながら受話器を置いた。

祖母にも母にも気に入られるに違いないという予想は見事に当たって、自分にとって歓迎すべき状況のはずだ。

アンドレは、ベーコンを前歯で噛み切った。
だが、“お嬢様”に“ばあや”なんて呼び合うようになろうとは想像していなかった。
冗談半分でも、母親が“オスカルさま、オスカルさま”と彼女を呼び、アイドル扱いするのは行き過ぎではないかとも思う。さすがにオスカルも当惑している。いくら母が、何でも楽しみに変えてしまうのが上手いからといって、これでは、かえって相手に迷惑だ。
オスカルが二人に愛されて、それはそれで嬉しい。心から喜んでもいる。だけど。
白身からとろりとはみ出した半熟の黄身を、器用にフォークですくいあげて、こぼさないようにして口に押し込む。
たった一人の息子を、孫を無視して、二人とも少しどうかしていないか。

アンドレが食事を終えようとする頃になって、ようやくオスカルは二人から解放されて、アンドレの座っているテーブルにやって来た。コリンヌは朝食の片づけと昼食の準備に、マロンは近所に用事があって出かけるとのことだった。手厳しい祖母は、出掛けにわざわざ戻ってきて、「明日は日曜で教会に行くんだから、今日みたいに寝坊するんじゃないよ!」と孫息子に釘を刺すのを忘れなかった。
「おやじは?」とアンドレが声をかけると、コリンヌは目を瞑って二度ほど首を振った。今朝も急いで朝食を済ませると、仕事場に篭ってしまったのだそうだ。
「お客様がいる間くらいと注意したのだけど、全然聞いてくれない。あの人は、いつものことだけど……」
そう言って、オスカルが気に病んでいないかどうか、ちらりと顔を見て確かめた。正直、オスカルは本当にそれだけなのか、自分がいるから居辛いのか、どちらとも判然としなくて戸惑っていたが、コリンヌに心配をかけないように、にっこりと微笑んで見せた。コリンヌは済まなそうに笑い返すと、それからキッチンに姿を消した。
すぐに、キッチンから食器が軽くぶつかり合う音や水の音がし始めた。オスカルはアンドレの隣の椅子に腰かけた。テーブルの上に積んであった新聞を取り上げると、再び広げる。
「普段読む用に、保存用に、ご近所に見せる用に予備だそうだ。歓待されるのはありがたいのだが……」
ページをかさりと音を立ててめくりながら、彼女は言った。それで、合計5部。
オスカルはおそらく、望めばどこででも、さきほどのように輪の中心に置かれて、ちやほやされるだけの華をもっている。しかし、それをよしとしないところがある。
「おまえも記事を読んだか?この記者、なかなか筆力があると思わないか?ほら、ここのコラムも担当している。今回の強盗事件に絡ませて、若者の失業問題をなかなかの切り口で的確に書いているぞ」
オスカルの形のよい桜色の爪が差したところを、どれどれとアンドレが読んでみる。確かにそのコラムの文責も、昨日の記者の名前だった。既に読んだ記事の方も、淡々と事実を伝えながら、あえてアンドレの名前は出さずに、一貫して華のあるオスカルを中心に据えた構成が心憎いと思ったが、コラムの文章の方がずっと躍動感があって上手い。わずか1000字余りの中に、うまく比喩を使い、古典からの引用なども取り入れつつ、読後に一種の高揚感をもたらすような形で締めている。1000字ほどでここまでの内容を伝えるのはなかなか出来るものではない。平易な言葉遣いでわかりやすく書くテクニックまで備えていて、同じ文筆で生計を立てている者として、アンドレにはその力量が十二分に窺えた。読者を惹きつける方法を心得ていて、アジテーションの才能がある。
紙面から顔を上げると、中指の第二関節で、アンドレはオスカルの顔写真の横をはじいた。
「これじゃ、おまえ、南仏では一躍スターだな。よく写ってる……」
アンドレがからかうと、よしてくれとオスカルは本気で迷惑そうな顔をした。ちらりとアンドレの前に並んだ皿を見る。既に載っていたものは全部たいらげられてしまっているが、皿には半熟卵の黄身が少し残っていて、ベーコンの臭いも漂っている。彼女はわずかに眉をひそめた。
「おまえ……朝からよくそんなに入るな」
「こういう日はしっかり食べておかないとな。今日もいろいろありそうだ」
アンドレは胃の辺りをさすり、カップに残ったカフェオレを飲み干すと、食器をキッチンに下げに行った。

その日は、予定していたグラース観光に二人で出かけると、美術館や香水関連の工場を回ったあと、旧市街を散策した。夕食の時間を目処に家路につく。
アンドレが、マロンに頼まれたものがあるというので、旧市街を出る前に、馴染みだという雑貨店に立ち寄った。彼が買い物をしている間、オスカルも店内をぶらりと一周してみたが、取り立てて目を引くものがなくて、一旦、店の外に出てみた。春の街路はまだ十分に明るい。日の入りまで、あと二時間近くある。
アンドレが買い物をしている雑貨店は、店舗どうしの壁がくっついていて、一階が店舗、二階以上が住居になっている古い様式の建物の一角にあった。店舗の前の道は2メートルほどしか幅がなく、すれ違えないので、車の通りがほとんどなかった。建物の前に植えられた街路樹は、剪定もされていないのだろうか、枝を悠々と道に向かって伸ばしている。その下では、車の往来がないのをいいことに、道路にまではみ出して、簡易テーブルと椅子を持って来て、カードをしたり、目の前のカフェで注文した飲み物を片手に、政治談議に花を咲かせている老人などで騒がしい。
グラースは、既に中世の頃には革なめし産業が盛んであると記録に残る古い街だ。旧市街の道は迷路のように入り組んでいて、行き止まりも多い。遠くまで一人で行ったら迷ってしまいそうだったが、オスカルは、手持ちぶたさを持て余して、少し歩いてみることに決めた。
風が出て来た。さわさわと街路樹の梢を鳴らす。オスカルの金色の髪も風になびく。夕方の風は夜を運んでくると共に、ふと、千年前からの喧騒も運んで来て、現代のそれに重ねて吹きすぎていくような気がして、彼女はほっそりとした長い指で髪を耳にかけると、目を細めた。
前方から二人連れの女性が歩いて来た。楽しそうにおしゃべりをしながら歩いている。年の頃はちょうどオスカルやアンドレと同じくらいだろうか。一人は眼鏡をかけて栗色の髪を後ろで結んだ生真面目そうな女性で、もう一人は、彼女とは正反対にトレンドなファッションに身を包み、化粧も髪型も一部の隙もない、少しこの街には似つかわしくないようなブロンドの女性だ。二人は彼女の脇を通り過ぎると、なかよく連れ立ってアンドレのいる店に入って行った。開け放した入り口を通った時、「まあ、アンドレじゃない!」と呼びかけている声が聞こえた。オスカルは急いで店舗の方に戻った。
入り口に立ち、店内を見ると、アンドレはレジ・カウンターの所で紙袋を抱えて立っていた。すでに会計を終えて店主と話しこんでいたところだったらしい。店主が彼女達の方に両手を差し出して歓迎していた。どうやら女性二人も常連客か、古い馴染みのようだ。
ブロンドの方がアンドレの側に近寄って、積極的に話しかけている。紙袋を抱えた彼の腕に親しげに触れて、青い瞳が懐かしそうに顔を見上げる。アンドレも二言三言、返事を返している。
「アンドレ!」
オスカルが声をかけると、4人が一斉に振り返った。
「買い物が済んだなら、帰るぞ」
彼女が強引にそう言うと、アンドレは「じゃあ、また」と二人に挨拶してから、店主にも目配せして店から出て来た。彼が待たせてごめんとオスカルに言う。二人は、黒くて四角い敷石を敷きつめた歩道をゆっくりと歩き始めた。
しばらく歩いてから、オスカルが店の方を振り返った。ブロンドの方が店の前に出て二人のことを見ていた。オスカルと目が合うと、顔を背け、さっと店の中に隠れるように入ってしまった。
「誰だ?」
彼女が訊くと、「幼馴染だよ、二人とも……」とアンドレは何気ない口調で言ったが、何となく最後の“二人とも”が消え入るようだったのが、オスカルには気にかかった。

アンドレの実家に戻ると、既に夕食の準備はできており、二人が荷物やコートを置いて戻って来ると、昨日ほどではないものの、晩餐と呼んでいいほどの品数がテーブルに並べられた。ラタトゥイユに、野菜に肉のすり身を詰めたファルシ。ニョッキが添えられた赤ワインの蒸し煮からは、まだ湯気が立ち上っている。それに、季節のサラダにスープ。
「プロヴァンス風ですね」
とオスカルが言うと、アンドレの母が「わたし、プロヴァンス出身なの」と言って笑った。この女性はいつも微笑を湛えているような柔らかな雰囲気をもっている。そして、言葉と共に笑顔がこぼれ出る。
着席してしばらくたっても、アンドレの父親は姿を見せなかった。昨日と同様に、テーブルの左脇にマロンとコリンヌ、右脇にオスカルとアンドレが並んで座ったが、主のいるべき場所は空席だ。オスカルが体の調子でも悪いのかと尋ねると、マロンとコリンヌは顔を見合わせた。
コリンヌが申し訳なさそうに説明する。
「さっき、一人で簡単に夕食を済ませた後に、また仕事場に篭ってしまって。全く何を考えているのかしら!!」
今度は、アンドレとオスカルが顔を見合わせる。
マロンが二度、軽く手を打ち合わせた。
「さ、自分勝手な輩は放っておきましょ。料理が冷めちまいますよ。じゃ、アンドレ」
不在の主の代わりに、マロンはアンドレを指名して食前の祈りを唱えさせた。アンドレが決まり文句を口にする。オスカルはこっそり薄目を開いてアンドレを盗み見ていた。
食事が始まると、マロンもコリンヌも今日の観光はどうだったかを聞きたがった。
「まず、フラゴナール美術館に行きました。あのトロンプ・ルイユ(だまし絵)のある。それから国際香水博物館に、フラゴナール香水歴史工場で蒸留法や製造過程を見せてもらって。石鹸や入浴剤などに加工する装置まで見学できました。全て興味深いものでしたが、その後に行った旧市街の雰囲気もとてもよくて……」
オスカルが一通り行程を説明すると、「オスカルはアンティークが好きなんだ。特に18世紀頃の」とアンドレが補足して、片目をつぶった。
それならばと、マロンが旧市街の絶好のスポットを紹介し、コリンヌはアンティークの食器や香水瓶が買える店を推薦してくれ、グラースの街について、ひとしきり話し終えた頃には、料理の皿はほぼ空になっており、デザートに、カルソンというアーモンドの菓子が出された。コリンヌに手渡されたカフェのカップから立ち上るローストした豆の香りを楽しんだ後で、オスカルは濃いこげ茶色の液体を一口飲んだ。
「そうそう、今ね、ミレイユが帰って来ているのよ。ほら、小さいときによく遊んだ」
自分の皿のカルソンをフォークで一口大に切りながら、コリンヌがアンドレに向かって言った。
「今度結婚するんだってねぇ。相手はモナコに住んでいるかなりの金持ちだって話だよ。相手は再婚らしいけどねぇ。玉の輿じゃないか」
マロンも今日、出先で聞いてきたという噂話を披露する。
「へえ……」
相づちを打つアンドレの声の調子がやけに平板だった。オスカルはちらりと隣のアンドレを見た。
「この子は昔っから女の子にはやられっ放しで、手をあげたことがなくて。ミレイユは気が強い子だったから、あなた、よくいじめられていたわよね」
「おふくろ、よしてくれよ、そんな話」
アンドレは神経質そうにフォークで菓子を細かく切り刻んでいる。細かなくずが勢いで飛び、皿の上からテーブルの上にこぼれ落ちた。
「あなたのところにパーティーの招待状が来ていなかったかしら?部屋に置いてあったと思うけど」
そう言われて、アンドレは「そういえば、そんな手紙もあったな」と言って、郵送物はちゃんと昨夜のうちに片づけたよと報告する。オスカルが彼の手元を見る。菓子は既に粉々になっているにも関わらず、アンドレはまだザクザクと残骸をフォークでつついていた。

昨夜と同じように、食事の後でしばらく談笑してから、アンドレがオスカルを離れまで送り届けた。
芝生の上を歩いていると、納屋の一つの前に人影が見えた。シルエットからアンドレの父親ということが分かったので、オスカルが声をかけると、じっと彼女を見つめた後で、何も言わずに納屋の中に入って行ってしまった。
「……本当に、わたしのことが気に障っているわけではないのだろうか?」
オスカルが不安そうに尋ねる。
「たぶん……大丈夫だと思うけど。今回はいつにも増して、少し変だ」
アンドレの返答も歯切れが悪い。
離れの入り口まで、二人とも無言になる。ドアまでのステップを上がると、先を歩いていたオスカルが振り向いて、まだ階段の途中のアンドレに「おやすみ」と言った。
彼が一日の終わりに、せめてキスしてから帰ろうとして、彼女のいるポーチまで上がって抱き寄せようとすると、オスカルが軽く抵抗してみせた。顔を下に向けて、両手で彼の胸を押し返す。
「どうした?」
彼女の嫌がる理由がわからなくて、アンドレは一歩後ろに下がったものの、少しかがみこむようにして、彼女の俯いた顔をのぞきこみ、右手でそっと、おとがいに触れた。
「………ミレイユ」
オスカルがぼそりと呟く。アンドレの右手が引っ込められた。
「今日、店で会った二人。幼馴染だったな。ブロンドの勝気そうな方が……ミレイユ?」
オスカルが顔を上げると、少し狼狽したアンドレの顔があった。
「図星か。どうしてさっき話が出たときに、街で会ったと言わなかった?」
オスカルが問い詰める。「別に」とアンドレが答えになっていない返事を返す。
「ただの幼馴染……じゃないから?」
オスカルの勘は鋭い。詰問は検察官ばりに厳しくなって、恋人をじりじりと追い詰めていく。
「いや、それは……。おまえに会うずっと以前の話だから」
それに、彼女はもうすぐ結婚するんだしと、とうとうアンドレが彼女との過去を白状する。オスカルの眦がきっと上がった。
「なら、隠さなくたってよいではないか?」
「だから、別に隠してなんていないよ。言わなかっただけだ。もう終ったことを敢えて話す必要なんてないから……」
オスカルが聞いても意味がないと、アンドレは必死に抗弁するものの、語調はあくまでも弱々しい。
コリンヌが「今まで彼女を連れて来たことがない」と行ったとき、オスカルは違和感を覚えた。この男が全くもてないはずはない。
連れて来なかっただけだ。
「――言い訳するだけなら、もう話したくない」
オスカルはドアを開けた。彼女の手を掴もうとするアンドレの手もはねのけてしまう。ドアがアンドレの鼻先で乱暴に閉まった。ドアを叩いて声をかけようと思ったが、アンドレは扉の前で少し迷った後、母屋の方に戻って行った。
人の気配が消えたので、そっと少しだけ扉を開けて、オスカルがすき間から外を見ると、少し猫背になった彼の背中が小さくなって行く。草と土を蹴散らすような、ザッザという苛立たしげな足音がオスカルの耳に届く。
彼女はドアをそっと閉めると、そこにもたれかかった。手を額に当ててため息をひとつ。
「勘弁してくれ」
それがアンドレに対するものなのか、自分自身に対するものなのか、オスカル自身にも分からなかった。



(つづく)





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