C'est un plaisir !




「来客があるから、帰るようには言ったんだけど……」
アンドレはアラン達に出したお茶の片付けをしながら、リビングに向かって話しかけた。
オスカルは足を組み、ソファの肘かけに頬杖をついて座っている。ブラウスの上にはおっている布地をたっぷりと使ったチュニックの袖が、手首から脇にかけて、きれいなドレープを形作っていた。彼女はあごをしゃくり気味にすると、首だけ動かして部屋を見回し、アンドレの姿を黙って目で追う。
彼がてきぱきと片づけをする様子を観察しながら、先ほどロザリー宅で想像したことを、オスカルは何度も反芻していた。自分がここに住んだとしたらどうなるか、頭の中でいくつかのパターンをシミュレーションしてみる。部屋には自分とアンドレのものが共存していて、ここから出かけて、ここに戻ってくる生活。それは、いったいどんな感じがするのだろう。
「……そんなに、すねるなよ」
黙り込んでいるオスカルの様子は、アンドレには少し不機嫌そうに見えたらしい。
「べつに、すねてなどいない」
ロザリーとベルナールの、いかにも二人らしい生活を見てきたばかりだったからだろうか。予想していなかったアランとジョゼフの登場に、つい、自分の領域を勝手に踏み荒らされたように感じて、確かに少々苛立ってしまった。だが、もう本当に怒ってはいなかった。さきほどだって、本気で帰るつもりはなかったし、それに今日は、彼に相談したいこともあって来たのだ。
片づけを済ませたアンドレが、彼女の横に腰を下ろした。密着しているわけではないが、彼の体温を感じる距離だった。オスカルはアンドレの存在を意識しながらも、彼の方を見ようともせずに、まだ頬杖をついていた。
アンドレが何か声をかけてくるものと思い待っていたのだが、彼の方は彼で、彼女がまだ怒っていると思って、声をかけあぐねていた。しばしの沈黙。
先に口を開いたのはオスカルだった。彼女がようやく口をきいてくれたので、アンドレはほっとする。
「さっきは追い返してしまったが」
彼女が彼の方に向き直って言った。「ジョゼフは変わった」とつづける。
「どんな風に?」
「うん。どこか他人を寄せ付けないところがあった子だったが、人に心を開けるようになったというか」
アンドレは、おまえが頑張ったおかげだろうと笑う。オスカルは、そうかなと答えたが、内心ではそれだけではないと思った。
「アントワネットさまは順調だし、マリーとフェルゼンもうまくいっているみたいだ」
それを聞いて、アンドレは「よかったな」と言ったものの、何かを思いついたのか、視線をオスカルからふっと外して、目の前の壁の方を見つめた。ジーンズの上で組まれた両手が、どこか物言いたげな表情をしている。オスカルは不思議に思って、どうしたのかと彼の横顔に声をかけた。今までの会話の中で、何かアンドレが気にするようなことがあっただろうか。
「この間から、ずっと思っていたんだけど」
「なんだ?」
アンドレが横に座るオスカルの方を見て、指折り数えながら、名前を羅列した。
「“マリー”に“アントワネット”に“ジョゼフ”、それに“フェルゼン”だぞ。これで、次に生まれた子がマリー・テレーズだったり、シャルルだったりしたら―…」
アンドレの意図するところは、すぐにオスカルに伝わった。それぞれ取り立てて珍しい名前ではなかったが、ここまで揃うと、さすがに偶然とは言い切れないものがある。
彼らの名前は、フランスだけでなく、世界中で有名な悲劇の王妃とその子供達、そして恋した男の名前と、見事なまでに符号しているのだから。
「たぶん」
たぶんとは言ったが、オスカルの口調はきっぱりとしていた。
「おれたちのように、生まれ変わりだと?」
オスカルはまっすぐにアンドレを見つめた。その表情は、肯定を意味している。
彼らには過去の記憶がないから、偶然だと思っているかもしれないが、はっきりとした自覚のある二人からすれば、彼らもまた、現代に生まれ変わったのだと、そう考えるのが自然だった。
「今回のことは、それならば、贖罪のつもりか?」
彼の言葉に、彼女の表情がほんの少しだけ翳った。アンドレは、それを見逃さなかった。彼女の心の奥にずっと巣食う、後悔と悲しみをアンドレはずっと見てきたから。
彼女は過去の記憶を思いだす度に、自分が貴族として生まれ、生きた時代のことを何度も悔いてきた。彼自身とのことも、自分が引き金の一端を引いたともいえる革命の顛末についても。
革命の行き着いた先を歴史上の事実として知ったのは、生まれ変わった後だったろう。しかし、王妃や国王一家を裏切るような真似をしたことについては、あの当時から、もしかしたら、心のどこかで、一点の後ろめたさを感じていたのかもしれない。その気持ちを抱えたまま、今生に生まれ変わった彼女。
彼女が過去の記憶を一部、鮮明に抱えたまま生まれて来たのは、そうした後悔のせいでないかとアンドレは近頃、思うようになっていた。神に背いて楽園を追放されたアダムとイブの原罪を、人類が延々と抱えて生きることになったのと同じように、それは、彼女にとって、きっと生まれ変わったくらいでは忘れることのできない重さをもっているのだろう。
自分とのことも、吹き荒れた革命の嵐も、全てが彼女だけの責任ではないというのに、全て自分の身に引き受けようとしているかのように、アンドレには見えた。オスカルは、驚くほどに生真面目で純粋で。
――苦しんだのは、おまえも同じだったろうに。
彼女は一言も自己弁護するようなことを言ったことはないが、彼には分かる。従僕であった男に気持ちを打ち明けるまで、国民の側に立って王家に弓を引く決心するまで、彼女の中で、どれほどの葛藤があったことだろう。貴族である彼女の心は、現実と彼女の真実との間で振り子のように振れて、自己の真実に従う決心をするまでには、窺い知れないほどの苦悩があったに違いない。信念を貫くために、彼女は多くを犠牲にして、そして彼女を育んだ大切なものすら手放さなければならなかった。自分がこれから歩もうとする道がどんな結果をもたらすか、聡明な彼女には分かっていたはずだった。

それでも、なお、彼女は。
そんな彼女を、彼は痛々しく思う。そして同時に、心の底から愛しく思う。

オスカルはしばらく答えなかった。アンドレは彼女が自分の心に向き合っている間、じっと静かに待つ。
やっとオスカルが口を開く。
「その気持ちも、あると思う。だが、わたしは心から、あの方達が好きだから――」
彼女は、思いを馳せるように目を閉じた。ひとつひとつの言葉には、嘘がなかった。
「……ただ、幸せになってほしい」
迷いのない言い方。彼の好きな口調だ。
アンドレは、彼女に何か言葉をかけようと思った。しかし、自分が思っていることを全て言葉で相手に伝えようとすれば、あまりに饒舌になりすぎると思った。
彼はそのかわりに顔を寄せると、彼女の閉じたまぶたにそっと口づけた。頬からあごへと触れるか触れないかのキスを落としていく。彼女が目を開くと、あごに手を添え、唇を彼の口元に導いた。今度は彼女の方から、ふわりと彼の唇に触れた。彼はそれを受け入れ、答える。
触れた部分から、互いに理解といたわりを伝え、相手から受け取っていく。
「……フェルゼンとは」
少し長めのキスの後、互いの顔が離れると、アンドレは遠慮がちにそう言った。それまで落ち着いていた彼の声のトーンが、わずかに揺れた。
「おれに会う前から旧知の仲のようだが……」
「あいつとは大学時代に知り合って以来の付き合いだが、なかなかいい奴だぞ。今度、ちゃんと紹介しよう」
親友と言ってもいいかもしれないと彼女が言うと、彼はため息をついた。
「何だ?ため息なんて……」
「なんでもない」
彼の返事に納得のいかない彼女が、わずかに口を開いた刹那、アンドレが彼女の体に腕を回した。口を塞がれたわけでもないのに、彼女は言おうとしていた言葉を失った。
行き場を失った言葉が、わずかな吐息へと変わって、もれる。もう何度も肌を合わせてきたというのに、こういうタイミングには未だに、どうも慣れない。
彼の指先がかすかに首筋に触れた。その部分が熱をもって、そこから全身に甘い痺れた感覚が広がる。
部屋の中は、しんと静まり返って物音ひとつしなくなった。外から、子供達の元気な歓声にも似た声が、かすかに聞こえて来る。どこかの母親が叱っていたようだったが、何と言っているのかはわからなかった。彼に抱き取られながら、男の子の叫ぶ声は、いつも鬨の声に似ているなとオスカルは思った。
やがて、ふわりと包み込むようなアンドレの抱擁が、少しずつ力強くなる。
オスカルは、自分の左耳より少し上にあるアンドレの頭に手で触れた。彼は、抱きしめる腕の力を少し緩めて、彼女の顔をのぞきこんだ。窓から差し込む自然光で、彼女の鼻筋ははっきりとした陰影を作り、見上げる瞳は、風に揺れる葉陰を映して、蝋燭の焔のように揺れていた。彼女が意図していなかったとしても、そんな姿は、彼に火をつけるのに十分だった。
アンドレは、ふたたび腕に力を込めると、彼女の耳から首筋に唇をすべらせた。それは熱っぽいのに、柔らかなベルベットの布が素肌に触れたときの感触に似ていて、ひどく心地よい。飲み込まれてしまいそうになる。
「ちょっと待て。まだ話したいことが……」
オスカルは慌てて彼の手を解こうとした。しかし、彼は力を緩めようとしなかった。
「後でいいだろう?パーティーの日は、結局あの屋敷に泊まることになって、それからまともに会う時間も無くて……」
彼の体が熱を帯びていくのが、分かる。彼の器用な指先が滑り込み、彼女の肌に直接触れると、オスカルの体も、まるで彼に感染したかのように、気だるい微熱をもち始める。彼は何かを確かめようとしているかのようだった。オスカルはそれ以上、抵抗するのをやめた。
「むかしのおまえは、こんなに強引ではなかったのに……」
彼女が皮肉っぽく言う。でも、口調とは裏腹に、彼を拒もうとはしていなかった。彼の黒い瞳が冷たい熱情に潤む。
「……これでも十分忍耐強い方だと、自負してるんだがな」



春の遅い夕暮れがようやく訪れて、わずかな間、空を茜色に染め、それから藍色の闇がじわりとじわりと侵食を始めた頃、二人はベッドの上でようやく冷めた情熱の余韻に浸っていた。
オスカルは彼の腕の中でわずかにまどろみ、アンドレは彼女の乱された髪を愛しそうに弄んでいた。
「そうだ」
オスカルが夢から突然目覚めたかのように、顔を上げた。
「何?」
アンドレが彼女の顔を不思議そうにのぞき込む。
「今日は、この話をしようと思って来たのだ」
彼女はベッドからするりと下りると、床の上に脱ぎ散らしたままでいた服をつまみ上げ、ぶつぶつと言い訳のようなことを呟いた。例の一件で、社長夫妻からお礼をしたいと言われて、私は固辞したのだが、強引に押し付けられて。彼女はブラウスを探し出すと、それを羽織って、リビングに何かを取りに行ってしまった。彼女の独り言のような話は、アンドレにはさっぱり意味がわからない。
アンドレはわけが分からないまま、体を起こして彼女が戻るのを待った。彼女は寝室に戻ってくるとベッドの縁に座り、バッグから何かを取り出した。
オスカルのきれいに伸びた人差し指と中指の間に、紙片が挟まれている。白地に金色の百合の紋章のような箔押しがしてあり、その上に、4桁の数字が黒字で印刷されている。
「これは、何?」
アンドレが尋ねる。何か意味のある数字なのだろうが、いきなり説明もなく目の前に突き出されても、これだけでは何のことなのか、さっぱり見当がつかなかった。
「おまえはサービスする側にいたし、最後は会場を離れていたから知らないかもしれないが、毎年、あのパーティーでは最後にロトが行われて、それで締めくくられるのだ。これはその抽選番号」
「何か当たったのか?」
彼女はうつむいて、ひとつため息をついた。
「実は、一等が……」
すごいじゃないかとアンドレは単純に喜んだが、彼女は浮かない顔をしている。賞品は困るようなものなのだろうか。それに、それが、さっきの話とどう関係しているのかが、まだ掴めなかった。
「賞品の内容が気に入らないとか?」
「いや……。そういうわけでは―」
オスカルが賞品の解説を始めた。一等は、彼女の会社の社員全員垂涎の的で、社長宅のパーティーのロトでは、他にもなかなか手の届かない景品が並ぶ中、ここ数年、不動の人気ナンバーワンを保っている賞品だった。なかば強制的ともいえる公休一週間つきで、オスカルの勤める会社が所有する高級ホテルへ滞在する権利が与えられるというもの。しかも、往復ファーストクラスで、リムジンの送迎までつく優雅な旅だ。個人でもペアでも家族でもよく、場所も日程も自由に選べる。もちろん料金は会社もちで、予算は上限なし。
彼女に説明されても、まだアンドレには腑に落ちなかった。これに、何の不満があるというのだろう。もし、気に入らない点があるとすれば、仕事を休むことに抵抗があることくらいしか、思いつかない。
「それは、その分、しっかり働いていくつもりだから問題はないのだ」
「なら、何をそんなに?」
オスカルが、カードをアンドレの鼻先に触れそうなところまで、突きつけた。
「これが社長夫妻からの“ご褒美”、だという点だ」
「あ……」
ようやくアンドレにも合点がいった。そういうことか。抽選は公明正大に行われたのではなく、少なくともこの一等に限っては、誰に与えられるべきものか、事前に決まっていたのだ。
あの日、迷路で役者が揃って、もつれた糸が解かれていこうとしていた頃、オスカルが手にしているカードの番号が会場で読み上げられていた。ホールでは、幸運にもそのナンバーを手にしている人間への羨望のため息がもれていたに違いない。
彼女が社長夫妻とその姉妹のために、プライベートな時間を犠牲にして働いたことに対して報いたいというのが社長夫妻の気持ちだった。費やした時間をこの旅行で埋め合わせてもらえたらと考えた。だが、大っぴらに報酬を渡すわけにもいかない。しかし、これならば、彼女に特別な報酬を払ったことを社員の誰にも気づかれずに済み、オスカルも大手を振って休暇を取ることができて、一石二鳥だ。
「皆が楽しみにしていたのに、こんなやり方は気が引ける。いくら、これならば堂々と休めると言われても」
それが彼女の言い分だった。やはり、オスカルは真面目すぎるとアンドレは思った。だが、そこがかわいくもある。
「おまえのおかげで会社の体面は保たれたし、結局は混乱から、会場にいたみんなを救ったことになるじゃないか。ありがたく受け取っておいたらどうだ?」
彼がいかにも彼らしい、暢気な口調でそう言う。
「おまえは単純でいいな」
オスカルは責めてみせたが、彼が肯定してくれて、ようやく社長夫妻の心遣いを全面的に受け入れる気になる。それまでも、半ば受け入れる気ではいたのだが、こうして彼の言葉を聞くと、背中を押してもらったようで、安心出来た。彼の言葉にはときどき魔法がかかっているのではないかと思うことがある。わだかまっていたものが、嘘のように散っていく。迷っている時、、いつもこうやって彼はほしかった答えをくれる。
アンドレはガウンを羽織ると、「ちょっと待っていろ」と言って、寝室を出た。書斎で何やら探し物をしているような音がする。戻って来たときには、一冊の大判の本を手にしていた。地図帳だった。小説を書くときの資料として使っているのだろうか。使い込まれた一冊は、何度もめくられた跡があり、ページの端の方が折れて少し膨らんでいる。
「行き先は、どこがいい?」
アンドレは、ベッドの上に地図を置き、一番最初のページを開いた。そこには、メルカトル図法で描かれた世界地図が印刷されていた。世界の全ての大陸と七つの海が、二人の目の前に広がった。
オスカルはベッドにうつぶせになって、ページをのぞきこんだ。アンドレはベッドの端に腰掛けて、それを見下ろす。
「そうだな。だいたい世界中、行きつくしてしまっているのだが」
あとは南極と北極くらいかなと、彼女は笑った。
「いつ、休めそうなんだ?」
アンドレが訊く。行き先を決めるよりも、まず日程が先だろう。行く季節によって、行きたい場所も変わる。オスカルが頭の中で、これから先のスケジュールを組み立てながら、休めそうな期間に見当をつける。
「年末……かな」
「そこまで休めないのか?」
オスカルは首をかしげた。だが、どう考えても、長期の休みはそこまで無理だ。今年はこれから、これまで仕事をセーブしていた分、スケジュールがタイトになるだろうし、秋には定期訓練や数年に一回課せられている試験などが控えていたからだ。
「わたしは、これからも仕事至上主義かもしれないぞ」
少し申し訳なさそうに、オスカルは言った。さっきのアンドレの声には、少し不満めいたものが含まれているように感じたからだ。この間の誤解だって、アンドレよりも仕事上の機密を優先させてしまったから、あんなことになってしまった。
「それで、いいさ」
アンドレは笑ってみせた。そんなことは何でもないと、オスカルの不安をまた一言で吹き飛ばす。
「あの時だって、ちゃんと説明できなくて、すまなかった……」
彼がいいというから、まだきちんと謝っていなかった。オスカルはシーツの上に組んだ手に頭を乗せた。斜め上を見上げると、彼女の髪が惜しげもなく広がって、白いシーツの上で金色の海になる。
「あの時、もし打ち明けてくれていたら、ややこしいことにはならなかったかもしれないけど――」
アンドレは、金の海にそっと手を浸すように、シーツの上に指を滑らせた。
「言わないオスカルがおれは好きだから……だから、あれで結局はよかったんだよ」
今、こうして二人でいられるのだからいいと、彼は、彼女の頭を大きな手のひらで軽く二度たたいた。
ほら、またこの男は。オスカルは彼女を見下ろす彼の顔をじっと見つめる。不思議な男だと彼女は思う。ぐいぐいと引っ張って行くタイプでは決してないのに、彼がそばにいてくれると安心して、どこまでも行けそうな気さえする。
決して教え諭したりするわけではない。それなのに、いつの間にか、彼がそばにいると何かが変わっている。
――ジョゼフが変わったのだって、彼のせいもあると思う。絶対に。
自分も、彼の魔法にかかって変えられてしまっているかもしれない。いや、たぶん、きっと。

「ところで」
最も重要なことなんだけどと、彼は前置きしてから言った。旅行は誰と行くの、まさか一人で、と尋ねる口調は少しおどけている。オスカルがクスリと笑う。ベッドの上に置かれた彼の手を見つめた。答えは一つだと分かっているくせに。
「仕方ないな。おまえには迷惑をかけたらか、連れて行ってやることにしよう」
そう答えて、大げさにわざとらしいため息をついた彼女に、彼はうやうやしく礼を言ってみせた。
「それなら、ちょっと希望を言わせてくれ――」
彼は、その季節なら、南がいいと言う。オスカルは地図の上に視線を走らせた。
「赤道付近か、それとも南半球のどこか?」
「それでは、移動する時間がもったいないよ。そうだな、もっと近く」
アンドレの人差し指がパリを示すアルファベットの上に落ちて、そこから陸伝いに南に下った。
オスカルが彼の指の動きを追うために頭を起こすと、ブラウスの胸元からふわりと何かが香った。それは、ロザリーの淹れてくれた紅茶の香りだった。昼間、少しこぼしてしまって、ロザリーが急いで拭き取ってくれたので染みにはならなかったのだが、香りは残っていたらしい。サクラならば白か薄いピンクのはずだったが、あのとき彼女の脳裏に浮かんだ花のトンネルは、薄紫色で、花びらは初夏の風に乗って舞っていた。
「ジャカランダの花……」
やっと思い出した。それは、6月の頃、リスボンの通りや広場を彩どる街路樹だ。
あれは確か、アンドレとケンカをして飛び出した後のことだ。リスボンまで飛んで、機体整備の間に、ふと空港のロビーで手に取った雑誌に、その花のことが書かれているのを目にした。
移民として南米に渡った日本人が、キリの花に似ていることから「桐擬き」と呼んで愛し、ハワイの日系人は日本の桜を偲んで,「ハワイ桜」や「紫桜」と呼んでいると、その記事には書いてあった。
それが頭の隅に残っていて、ロザリーの家で紅茶を口に含み、“サクラ”という言葉を聞いて、連想してしまったのだろう。
南米原産の初夏の花は、今頃つぼみになる準備を始めている。冬の頃には、とっくに散ってしまっているだろうが、この間飛んだときは街に出ることができなくて、少し残念な思いもした。
彼女が地図の上のLから始まる都市の名前を指差した。パリからずっと南西の、海沿いの都市の名前を見て、アンドレは満足そうに頷く。それから彼女の白い手の上に自分の手を重ねた。

彼女の誕生日がやって来る頃、パリでは空気が凍てつき、大地は白い雪に覆われる。
しかしその頃、二人は、温暖な海沿いの街にいて。


――どこへでも、そして、きっとどこまでも……。


いったいどんな旅になるのだろう。何が二人を待ち受けているのだろう。
おそらく、二人とも同じようなことを考えながら、きっと違った想像を頭の中で繰り広げていた。
ただ、地図上の方位を示す8つの頂点をもった星形の上で、どちらからともなく指を絡ませ、しっかりと握り合いながら。


(了)








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