C'est un plaisir !




C'est un plaisir !

その日、オスカルはアンドレの部屋に向かう途中、ロザリー宅に立ち寄った。
彼女の家はパリ北東部ベルヴィルにあった。こぢんまりとした4階建てアパルトマンの3階の一角が、彼女と夫であるベルナールの住まいだ。地下鉄の駅から近かったことと、どことなく下町の風情があるたたずまいが気に入って、結婚するにあたり、二人はここに新居を構えることに決めたのだった。ベルヴィルは古くから移民が住みついた町である。

通りの時間制パーキング・スペースに車を止めると、後部座席から大型の箱を取り出し、抱えてアパルトマンの階段を昇る。チャイムを鳴らすと、訪問をあらかじめ知らせてあったからか、すぐにドアの向こうからロザリーの嬉しそうな声が聞こえ、ぱたぱたという足音につづいて、ドアが開いた。
「やあ、ロザリー」
「オスカルさま、ようこそいらっしゃいました」
ロザリーは満面の笑みで訪問者を迎えた。どうぞ、狭いところですがとリビングのドアを開けて、夫であるベルナールに声をかける。
リビングには大きな窓があり、一面、白い壁の室内は明るかった。何十年にも渡って丁寧にワックスがけを繰り返されて飴色になった床には、細かい傷と共に建物の歴史と生活の息遣いが刻まれている。
リビングの壁際に、ダイニングテーブルと椅子がふたつ。ダイニングテーブルと反対の壁際には、彼女の仕事関係で使うのだろうか、古びたトルソーが鎮座している。少し離れて低めの黒いテーブルを挟んで黄土色のソファがあった。そこにかけるようにオスカルを促すと、ロザリーはお茶の用意をしに対面式のキッチンカウンターの向こうに消えた。
室内を見回すと、全体的に白を基調とした部屋のあちこちに、差し色とでもいうのだろうか、ロザリーらしい品物が置かれていて、部屋に彩りを加えている。それは、幸せそうな子供の頃の写真を縁取るフォトフレームのサーモン・ピンクであったり、雑誌や本の並べてある棚に、寄りかかるようにして座っているチェックのうさぎのマスコットであったりするのだが、結婚してからも少女の雰囲気を失わない彼女らしい部屋だとオスカルは思った。まるで陽だまりのような風景。
窓際に目を移すと、ガラスの空き瓶にペールオレンジのガーベラが一輪差してあった。陽光をいっぱいに集めて、きらきらと光っているガラス瓶の中の輝きを見つめているところへ、隣室からベルナールが現れた。オスカルは立ち上がって挨拶を交わす。
「邪魔してすまない。仕事中だったかな」
ベルナールは、ちょっと調べ物をしていただけだと言ってオスカルの対面に腰を下ろした。ロザリーがトレイにお茶の準備をして運んできて、卓上にソーサーとティーカップを並べると、ポットから濃い黄金色の液体をそそいだ。湯気と共に、ふわりと花の香りが広がる。
「これは何の花の香りだろう」
オスカルが訊くと、ロザリーは“サクラ”の花ですよと答えた。春らしいお茶をと、紅茶専門店で試飲して気に入ったのが、このフレーバーだったらしい。
こんな香りだったかなとオスカルは思いながら、カップを口に運ぶ。華やかな甘みの中に、少しだけすっぱさの感じられる香りは部屋の雰囲気にもマッチして、彼女の気持ちを一層おだやかにした。
彼女の脳裏に花のイメージが自然と浮かぶ。それは、なぜか紫色の花が咲き乱れている光景だった。日本を訪れた際に満開の桜の花を見たことがある。桜の花は白から淡いピンクのはずだったが、彼女の頭にその時浮かんだのは、もっと濃い色の紫色に近い花が樹上で無数に花開いている様子だった。
「これを」
カップをテーブルに戻すと、オスカルは先ほど抱えて来た大型の紙箱をロザリーに手渡した。彼女はありがとうございますと言って、それを大事そうに受け取った。箱の中身は、先日のパーティーで着たレプリカの軍服だった。
「おかげでイベントは大成功だった。短期間で仕上げてもらったとは思えないほど、動きやすかったし」
マリーの思いつきでオスカルが寸劇に出演することが決まったのは、パーティーまでそう日にちがない時だった。衣装はどうするかということになって、無理を承知で馴染みのブティックの店員であるロザリーに相談すると、知り合いに腕のいいパタンナーがいると言って紹介してくれた。彼はロザリーの勤める店からリフォームや修理の仕事を請け負っている若者だった。
昔の軍服をモチーフにしたデザインなど、珍しいオーダーだ。彼の職人魂に火がつくには十分だった。18世紀から19世紀頃の資料からデザインを決め、ロザリーが採寸したデータを元に型紙を起こした。縫製まで全部一人で行ったため、最後は二日ほど徹夜を強いられたという。ロザリーによれば、真っ赤な目をして寝不足だと明らかに分かる彼は、それでも生き生きとして楽しげに出来上がった衣装を届けに来たそうだ。
彼は、用が済んだら、会心の出来栄えのこの衣装を引き取りたいと言って来た。そのため、こうして今日、オスカル自身が届けに来たのだった。
「この仕事がきっと将来につながりますわ。今でも修理やリフォームだけじゃ、もったいないほどの腕前なんですもの」
ロザリーが箱を隣室に運んで行きながら話しつづける。
将来の名匠はまだ年若くて実績がなかったが、この衣装をプレゼンテーション用に使って大きなメゾンに潜り込もうという腹づもりらしい。うまくいくかどうかはわからないが、この間の社長宅でのパーティーのことは、いくつかのマスコミでも取り上げられていたから、その点も交えてプレゼンすれば、効果は十二分に期待できた。
「あのイベントは確か、うちの新聞も取材に行っていたよな。あの時の記事は……」
ベルナールが立ち上がり、さきほど出て来た部屋のドアを開けようとすると、戻って来たロザリーが慌てて止めた。
「ベルナール!そっちの部屋は開けないでちょうだい。ひどい有様なんですもの」
ちらりとオスカルの方を伺う。奥の部屋はベルナールの仕事部屋になっているようで、資料や本で足の踏み場もないらしい。
「掃除もさせてくれないんですよ」ロザリーが小さく頬をふくらましてみせると、ベルナールが「おまえが片付けると、どこに何があるかわからなくなる」と反論する。あれでもちゃんと置き場所を決めて整理してあるのだと。
「リビングにも、仕事道具を持ち込んでるんですよ」
ここぞとばかりに、ロザリーの攻撃はやまない。トルソーの脇にある小さなデスクの上にはノートパソコンがあり、その上には吊り棚があって、国際政治だの経済動向だの、硬い内容の本が並べられている。明らかにベルナールの興味の範囲だ。
オスカルは想像してみた。料理を作ったり洗濯物を片付けたりして、忙しく立ち働いているロザリーの脇で、ベルナールが背中を丸めて小さなデスクに向かっている姿を。頬が自然に緩む。
「心配しなくても、ロザリー。アンドレの資料部屋だって相当なものだぞ」
本棚に収まりきらずに、床に積まれた本の山。たまに掃除はしているようだったが、彼からは、汚れているし、危ないからできるだけ入るなと言われている。
「一緒に暮らしてみると、けんかも増えますわ。オスカルさまとアンドレがうらやましい」
「おい、ロザリー!」と困り顔のベルナールを尻目に、彼女はオスカルのカップに新しい紅茶をそそいだ。二人のやりとりがあまりにも自然だったので、小さな諍いがあっても、一緒にいることが、どれほど二人の幸せを大きくしているのかが、傍目から見ても十分すぎるくらい分かる。
ふと、オスカルは考えてみる。
もし、アンドレと二人で暮らすことになったら、どうなるのだろうか。
しかし、16区のアパルトマンでアンドレが仕事をしている姿も、オスカルがカルチェ・ラタンのあの部屋に生活の全てを持ち込むことも、なんだかしっくり来なくて、実感が湧かない。
お互いに自分の空間を持っていて、会いたい時に会う。近いようで近すぎない、今の自分とアンドレの距離は、とても居心地がいい。
だが、永遠に留まる物はどこにもない。いつか、きっと、二人の関係も変わっていく―…。時を共に重ねていくのならば。
その変化の時はもしかしたら、唐突で強引で、明日やって来るかもしれない。
だが、まだ少し、あと少し、今のままがいいと思ってしまう。
「そういえば、先日のパーティーでは一等が当たったんですってね。おめでとうございます!狙っていたのにって、ジャンヌが悔しがっておりました」
声をかけられて、現実に引き戻される。ロザリーが言っているのは、パーティーのラストに行われた抽選会のことだった。
「ああ……。あれは、まあ……」
ロザリーのはしゃいだ声に比べて、言われた方のオスカルの返事は、どこか歯切れが悪かった。
どちらに行かれるか決めましたのと尋ねられて、オスカルは「まだ」と短く答えただけだったので、その話題はそこで打ち切りになり、ジャンヌのことや、今夏のファッション・トレンドの話、ベルナールの仕事の話などに移って、それから小一時間、話し込んだ。

まだまだ名残おしい顔をしているロザリーに、「また近いうちに、店に寄るよ」と約束して、オスカルは二人の家を後にした。二人の家は、いつまでも座って話していたくなるような、そんな居心地のよい場所だったのだが、もう一人、約束した人間が彼女を待ってくれているはずだ。
建物の外に出ると、彼女の首筋を風が吹きすぎ、耳元の金の髪を揺らした。今日のパリは穏やかな青い空が広がっている。初夏の訪れを予感させるような、そんな肌触りの空気だ。オスカルは運転席のウィンドウを開け放した。このままこの風を感じながら、彼の待つアパルトマンまで走ろう。

アンドレのアパルトマン近くの、いつもの場所に車を止めると、オスカルはくぐり戸を抜け、敷地に入り込んだ。花壇の愛らしい花々がかわいらしい顔でオスカルを出迎えてくれる。草花の世話をほぼ毎日欠かさずつづけてくれているという老婆は、今年の冬の寒さが神経痛にこたえたとアンドレにぼやいていたそうだが、まだまだ元気なのだろう。
建物の中に入ると、いつものように雑多な匂いと雑多な音がした。防音がしっかりとしていて、住民同士めったに顔をあわせることもないオスカルのアパルトマンとは対照的だったが、彼女はここの雰囲気も気に入っていた。最初は、親の叱り声につづいて子供が泣き出すのが聞こえて来るのにすら驚いていたことが懐かしい。今ではそれも人間の営みの印だと、受け入れられる自分がいる。
アンドレの部屋の前まで来ると、中から複数の声が聞こえた。
彼女が来ることは知らせてあるはずだ。いったい誰だろうと訝しむ。聞き耳を立てる。アンドレより少し低い声と、ボーイ・ソプラノ。
ノックをしてみると、慌てたような足音がして、アンドレがドアを開けた。少し困惑したような顔をしている。
「オスカル、意外に早かったな」
「早く来ては……悪かったのか」
確かに知らせておいた時間よりは、30分ほど早めに着いた。咎められている口調ではないのだが、アンドレの第一声に、オスカルは軽い不満を覚えた。
中に入ると、ダイニング・テーブルに見覚えのある顔がふたつ。声から誰かは予想がついていた。
「やあ、オスカル!」
「どうも、お邪魔しています」
ジョゼフとアランが向かい合わせに座っていて、オスカルの顔を見るなり声をかけて来た。予想してはいたのだが、一瞬、絶句する。
「ピエール達の所に来たから、ついでに寄ったの」
「おれは、本を借りに」
オスカルのわずかに気色ばんだ様子を察したのか、それとも彼女の登場は織り込みずみで、用意していた言い訳なのか、二人は先を争うかのように訪問の理由を説明した。
「そうか、先約があるとは知らなかった」
彼女の口調は棒読みのセリフのようで、冷ややかだった。
「……帰る」
静かにそう言って踵を返したオスカルを、アンドレが慌てて追いかけた。回り込んで、廊下の壁に右手をつく。進路を塞がれたオスカルは、鼻先の彼のシャツをじっと見つめている。それ以上、抗う気はなかった。彼女の登場を待ちわびていた彼が笑顔で彼女を迎える。そんな風に勝手に期待していた展開が裏切られたから、少し腹が立っただけだ。
「ちょっと、大人げないぞ」
小声で言われて、ようやくアンドレの顔を見上げる。
「だって……」
背後から声がした。
「あのー、おれ達、そろそろ失礼するところでしたから」
オスカルの様子に、これ以上は、しゃれでは済まされないと感じたのだろう。気づけば、二人は帰り支度をしてドアの所まで出てきていた。
「それじゃあ、またね、オスカル」
「王子様はちゃんとおれが送りますから、ごゆっくり」
そそくさと帰ろうとするアランに、アンドレが「本は?」と尋ねたが、振り向きざまに「今度な」と片手を軽く上げた彼は、足を止めもしない。ジョゼフが最後に振り返ってオスカルに向かって手を振った。それから二人の姿は、廊下の突き当たりを曲がってすぐに見えなくなった。
二人の後ろ姿を見送った後、アンドレは腕組みをして、あいつら、いったい何しに来たんだと、口をへの字に曲げながら、ぼやいた。



(つづく)









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