Castor and Pollux



社長の別宅は4階建ての瀟洒な建築で、かといってモダンでもなく、どことなくロココの伝統を引き継ぐような様式で統一されていた。中央棟はパブリックな空間として使われていて、玄関ホールに客間、それに厨房などがあった。左翼棟にはさきほどのホール、そして右翼棟に社長一家のプライベートスペースがある。
社長夫人の寝室は、さきほどオスカル達が話していた右翼棟の一室の、もうひとつ上階の端にあった。長い廊下の突き当たりに位置しており、同じフロアの他の部屋からも隔絶した場所になっていて、とても静かだ。窓の外には小さな池と、その向こうに広がる森が望め、池には昼間、鴨の親子がやって来て、母鳥の後を、親鳥と同じすました格好で泳ぐ愛らしい子鴨の姿が見られることもある。
ノックをすると中から夫人の声がした。起きているようだった。ドアをそっと押し開けると、夫人はベッドに横になっていた。ドレスを脱ぎ、ゆったりとした部屋着に着替えて髪も下ろして楽な格好になっていたが、まだ少し顔色が悪い。パーティーでの華やかな姿とくらべると、痛々しくさえ感じられる。
「アントワネット、気分はどうだね?」
社長はベッドの脇に椅子を引いてくると、どっこいしょとかけ声をかけて座った。自分でも太った体を少々もてあましているようだ。椅子がぎしりと重みで軋む。
「もう大丈夫です。少しくらいならパーティーに顔を出しても平気だと思ったのだけれど。オスカルも来てくれたのですね」
社長が、義姉の離婚がよい条件で成立しそうなことを報告すると、夫人は「本当によかった」と言って胸を撫でおろした。彼女は夫の手を借りて上体を起こし、枕をいくつか重ねてもらって寄りかかってから、オスカルに言葉をかけた。
「今日はお姉さまの頼みで、あんなことまでさせてしまって。ただでさえこのところ、わたくしたちのために時間を割いてもらっているのに。申し訳なく思っています。わたくしがこんな体でなかったら、もう少し何とかなったのだけれど、あなたには負担をかけましたね。何か特別なご褒美でも用意しないといけませんね」
そう言われてオスカルは恐縮する。
オスカルの横には、ジョゼフが立っていた。下を向いて体を硬くしている。少し様子がおかしい。
「ジョゼフ?どうしました」
ジョゼフは答えなかった。オスカルが何か声をかけると、やっと口を開く。
「おかあさまは、おかあさまは……いえ、何でもありません」
言ってはいけないと思うのか、言葉を飲み込んでしまう。おそらく、これまで何度も口にしようとしてできなかった言葉なのではないかと、オスカルは思った。それを言ってしまうには、彼は頭がよすぎたし、生まれつきの性質と、これまで家庭や学校で受けてきた躾によってだろうか、自分を抑制することもできすぎた。
しかし、オスカルは彼の中にわだかまっているものがあることを、少し前から気がついていた。少年は彼女になら、どこか素直になって甘えられると思っているようで、ときどき本音をもらす。パーティー会場でも、そんなことを呟いていたが、学校を飛び出すなど無謀なことをしてみせたのも、それが原因に違いなかった。
オスカルがそっと小さな両肩に手を添える。それに勇気づけられたのだろうか、少年は今まで言いたくて言えなかったことを母親に訴え始めた。興奮して少し声が震えている。彼女がいてくれるおかげで、いつもより素直になれた。
「どうして、何度も流産を繰り返しているのに、そんなに赤ちゃんがほしいのですか?ぼくだけじゃダメなの?おかあさまのお体だって、ずいぶん衰弱されているのに」
つぶらな目の縁からは、今にも涙がこぼれ落ちそうになっている。
「ぼく、足りないところがあるなら、治しますから……!」
アントワネットは長男で第一子であるジョゼフ出産後、何度か子供を宿していたが、原因不明のまま流産を繰り返していた。どんなに高度な医療技術をもってしても防ぐことが出来ないため、まるで子供の方がこの世に生まれて来ることを怖がって拒絶しているようだと、医師たちは一様に首をかしげた。
「赤ちゃんが生まれたら、もっと一緒にいる時間が少なくなってしまう。それにもし、おかあさまが、いなくなったりしたら、ぼく……。それとも、ぼくのことが嫌いだから!?」
「まあ、ジョゼフ。あなたがそんなことを言うなんて」
ベッドの上でアントワネットは目を丸くしている。滅多にわがままなど言わない子だった。聡明で大人並の知能があって、まさか生まれてくる子供にやきもちを焼くはずなどないと今まで思っていた。
少年自身も、こんな幼い感情が自分の中にあることに、ずっと戸惑っていた。頭ではわかっている。言っても仕方のないことだと、表に出すまいとこらえて来た。
だけど。
「赤ちゃんなんて、いらない!」
ついに封じ込めていた感情が、口をついて出てしまう。
「ジョゼフ!!なんということを言うのですか!」
部屋を飛び出そうとした少年をオスカルが引き止めた。それから、アントワネットに言った。諌めるなどというつもりではなかったが、他人の目線が入ることで、二人の関係は変わると思った。たぶん、話しさえすれば、この親子は分かり合えるのだ。そんな確信があった。
「わたしは結婚もしておりませんし、子供もおりませんが」
すぐ下にある、ふわふわとした巻き毛に目をおとす。
「聡明なお子様ですが、まだ、わずか7歳です」
オスカルの言葉に、アントワネットは愕然とする。しかし、その言葉に怒りを感じているようでもなかった。
やがて表情が、穏やかで慈愛に満ちたものに変わっていく。
「そうでしたね、あなたはまだ7つでしたね」
一番近くにいて、息子の気持ちは一番よく理解しているつもりでいたが、しかし近すぎて、かえって見えなかったのかもしれない。
「こちらへいらっしゃい、ジョゼフ」
愛情に満ちた声で呼びかけ、彼女は白い両手を広げた。ジョゼフは上目遣いで母親を見たが動かない。オスカルがそっと背中を押すと、おずおずと母親の方に近づいていく。
アントワネットは毛布をめくると、そばに来た少年の手を取って、自分の腹部に触れさせた。あたたかい。
「まだ動いたりしないけれど、ここに一つの命が宿っているのですよ。でも、生まれて来るのが怖いのですって。あなたにも聞こえるかしら」
導かれるままに、少年はそっと母親の体に耳をあてた。もちろんまだ動くはずもなく、鼓動も聞こえない。
「おかあさまはね、この子をこの世に送り出して、そしてあなたと同じくらい幸せにしてあげたいの。ただ、それだけなのですよ。大好きなおとうさまの子供で、そして大切なあなたの弟か妹ですもの」
自分の体に身を寄せる、やわらかなわが子の巻き毛を指でなでた。指先から、、何かが伝わっていく。
ジョゼフの表情がやわらいで、さらに耳をそばだてるようにして言った。
「いらないなんて言って、ごめんね」
少年は胎内のか弱い存在に呼びかけた。
「生まれて来てごらんよ。怖いことばかりじゃないよ。……今度はぼくが、きっと守ってあげるから」
じっと動かずまるで返事を待つように、母の胎内に向けて耳を傾けつづける。
「……わかったって言ってます……おかあさま。今度はがんばって生まれて来るって」
「まあ」
母子はどちらともなく、くすくすと笑い始めた。
もう大丈夫そうだとオスカルは安心する。彼女にとっても、二人は大切な存在だった。心から幸せな家族でいてほしい。
目には見えないが、確かに二人を隔てていた膜のような壁が取り払われた気がする。
これ以上は自分がいても邪魔になるだけだろうと、彼女はそっと部屋を出た。
社長が咳払いをする。
「その……前から一度、訊こうと思っていたのだが。この際だから」
社長はふたたび、わざとらしく咳払いをして見せた。それからジョゼフの目を気にしつつ、耳打ちする。
「あなたのようなまぶしいくらいに美しい人が、なぜ私のそばにいてくれるのか……。私は太っているし気は弱いし、まじめなだけがとりえのようなもので」
もじもじとして、内気な中年男が、見方によっては、ジョゼフよりも幼い表情をして見える。フランスでも屈指の名門会社の社長とは思えない姿だ。
「まあ、あなたまで」
何を言い出すのかとアントワネットは目を丸くする。
「あなたも、その、義姉上のように、フェルゼンのような……」
アントワネットの方も夫の耳元で囁く。
「では、愛人でも作ってお見せしたら、安心なさるのかしら」
社長が真剣に慌てるのを見て、彼女はおかしそうに笑った。
「嫌いな相手の子供を何人も望んだりいたしませんわ。実家の母は17人も子供を産みましたのよ。母は父のことをこの上なく愛しておりましたもの。わたしもそれくらい欲しいくらい!」
社長は照れくさそうに微笑んだ。
ジョゼフも幸せそうに笑っていた。それは、屈託のない幼い子供の顔だった。

やがて月満ると、アントワネットは長女、マリー=テレーズを無事に出産する。
四年後には次男であるシャルル、さらにその一年後には次女のソフィー=ベアトリクスを出産。
四児の母となる。


“もうジョゼフは大丈夫だろう。新たな命も、今度は無事に生まれて来てくれるような気がする”
そう確信して、オスカルは長い廊下を満ち足りた気持ちで歩いていた。既にパーティーの喧騒は聞こえない。客もほとんど帰ってしまっているのだろう。まだライトアップされたままの庭にも、もう人影は見えない。
階段を軽やかな足取りで下り、先ほどの部屋の前まで来ると、アランがドアにもたれかかり、まだそこに立っているのが見えた。
「どうした?もう帰るのではなかったのか?」
「あの、実は」
言うべきか言わずにおくべきか迷っていることがあった。このまま言わなくても済むことではあったが、言わなければと思って、彼はこうして今まで待っていた。
オスカルの顔を見て、やはり話そうと決心を固めると、アランは内規部に呼び出されてからの顛末を打ち明けた。オスカルを監視するように命じらて、今日もメイズまで尾行していたのだ。
オスカルは彼の話を黙って聞いていたが、アランがなぜそんな命令に従ったのか訳を説明しようとすると、
「わかっている。おまえはいざとなったら、わたしを助けようとして話に乗ったのだろう?」
先に言われてしまって、アランはただ「はい」と言ってうなずいた。
内規部が内偵していることは、既にオスカルも気づいていたことだった。
「ブイエ部長とわたしは折り合いが悪いからな。それだけでなく――」
お前には言っても大丈夫だろうから、と前置きしてオスカルは社内の派閥抗争の現状をアランに語った。

内規部の上部組織である情報対策室のトップであるルイ・フィリップ・ド・オルレアンは社長の従兄弟にあたり、社長の椅子を虎視眈々と狙っている。同族経営の弊害だ。ほんの少しだけ何かが違ったら、自分はもっと高い場所にいたはずと、そんな風に往々にして思ってしまう。これまでも何度かスキャンダルをでっち上げたり、株価を下落させて社長の信頼を失墜させようと仕掛けてきたことがあった。
もし、そんな相手に、まだ離婚が成立していないマリーとフェルゼンの二人のことを知られると、大々的なスキャンダルに仕立て上げられたり、フェルゼンの父親が関わっている大手航空会社との絡みで謀略を企てることも予想されたので、オスカルがわざと疑われる覚悟で、隠れ蓑を兼ねての連絡役になったのだった。
地下鉄で移動してみたり、弁護士との打ち合わせをホテルの一室で行い、堂々とそのロビーでフェルゼンと待ち合わせて見せたり、人目につくようにしていると、案の定、内規部が動き出した。
「さきほどのパーティーでも内規部の者がわたしを尾行していたようだったから、迷路の中でまいてやった。わたしのアパルトマンに盗聴器を仕掛けられたことまであってな。もっとも、すぐにセキュリティに反応があって、取り外したのだが……」
それが発覚したのが、アンドレとケンカした日の数日前だった。あの日は自分でも過剰反応を示してしまったと思う。アンドレの部屋には、まさか仕掛けられていないだろうと思ったが、神経が過敏になっていた。どこでどう漏れるかわからなかったから、落ち着くまでは出来るだけ誰にも話すまいと心に誓っていたこともあって、彼にも事情を話すことができずに、口論になってしまった。日常の業務をこなしながら、細心の注意を要する連絡役を務める毎日にかなり参っていて、何より、どこかおっとりしたところのある、あの二人のお守りをなんとか務めていたこともあって、彼女としてはギリギリのところで頑張っていたという自負もあったのに、彼に疑われたことがとても辛かった。正直、甘えたくて行ったのに、あてが外れたというのも、あったかもしれない。
「盗聴器のことでは、ブイエ部長に揺さぶりをかけたから、内規部も動きにくくなったのだろう。それでおまえにまで声をかけたのだな」
突然の呼び出しに面食らったが、裏ではそんな動きがあったのかとアランは初めて知る。今まではアンドレの方に大いに同情的だったが、少し彼女の行動も理解できるような気がした。
「大変でしたね」
アランは心からそう言った。
「ああ、だが茶番も、もう終わりだ」
これでまた、業務に専念できるぞと笑う。彼女らしい発言ではあったが、まだどこか手放しには喜べていないように、アランの目には映った。瞳の奥に憂いが残っている。
彼女の気がかりと言えば、思い当たるのはひとつしかない。迷路を抜け出るまでの間、二人は離れて歩いていたし、口もきかなかった。まだ仲直りしていないからに違いなかった。
「……あいつには」
オスカルの顔色が変わる。
「おまえには関係のないことだ」
冷静を装っていたが、声のトーンが一段低くなり、感情を押さえているのがわかる。
「そもそも、おまえ達が知り合いだったなんて、わたしは聞いていないぞ!?」
オスカルに詰め寄られて、アランは、お互いそうとは知らずに偶然知り合って、アンドレは彼のつてで、このパーティーに来たことを説明したが、オスカルは「アンドレの奴……」と納得がいかないのか、ぶつぶつ言っている。
アランは彼女の表情を見て、意外に思った。それは、アランが今まで見たこともない彼女だった。コックピットでの引き締まった顔からは想像もできない、少し子供っぽい表情で、少女のように口を少し尖らせている。
またアランの中に苦い感情が沸き起こる。
“おれのことは上から見下ろして、何もかもお見通しみたいに言うくせに”
自分にはスパイのようなことをされていても、冷静に理性が先に立って全く腹をたてる様子がなかったのに、対してアンドレのこととなると感情が先に立つ……。それがなんだか悔しかった。
「あなた達ふたりは、全く対照的なのに、どこか似ているんですね」
「どういう意味だ?」
「わからなければ結構です。それで、実はもう一つ、お願いがありまして―…」
「よし!」
内容を聞く前から、オスカルはアランの頼みを引き受けると即答した。
「今回は、おまえにも嫌な思いをさせてしまったからな。で、何だ?」
信頼されているのか、それとも全く警戒する対象でないのか。
”もし、ここでおれが、とんでもないことを頼んだらどうするんだ……このひとは”
アンドレに恨まれるようなことでも、要求してみようか。
だが、アランには結局できない。
そんな彼を見抜いているのかいないのか、オスカルは「早く言ってみろ」と挑発するように催促する。
「さっきこの部屋を出たときに気がついたんですが―…」


オスカルの姿が見えなくなると、アランは携帯で電話をかけた。呼び出し音が何度かした後、相手が応答した。
「おれだ。おまえ今、どこにいる?」



(つづく)




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