Castor and Pollux




何本かの円柱に支えられた、東屋のドーム状の屋根の向こう側で、光の花の名残りが残響を伴いがながら舞い落ちている。
フェルゼンと一緒にいた人物は、アンドレとアランにとっては予想外の人物だった。
彼女の顔はいくつかのライトに照らされて複雑な影を帯びていたが、長い睫毛が縁取る印象的な青い瞳も、意志の強さとプライドの高さを同時に示すかのような、すこしふっくらとした魅惑的な唇も、あの華やかなホールのシャンデリアの下で見たものと瓜二つだった。さきほどのパーティーで、社長の隣に座っていたひと。人々の輪の中心にいて、場を支配していたミストレス、社長夫人。
アランもアンドレもしばらく言葉を失っていた。
ただ、彼女が身にまとっていたのは、豪華な大きく裾のふくらんだドレスではなく、体のラインにぴったりと合ったラベンダー色の現代風のカクテルドレスで、髪型もシンプルなアップに変わっていた。それでも美しさに遜色はなかったが、ずいぶんと与える印象が違う。これでマスクを付けてパーティーの賑やかな人の群れに紛れてしまったら、一見して、それとはわからなかったかもしれない。
「おい、アラン……」
アンドレがアランの腕を引っ張った。
「どういうことだ?」
「おれの方が聞きてえよ。おれは、てっきり……」
お互いに動揺しているのが分かる。二人とも、ここに誰かいるとすれば、あの男と、そしてオスカルだと思っていた。まさか別の女が。――……しかもよりによって。
「さっき調子が悪いって途中で抜け出したのは、まさ……」
また爆発音が轟いた。フィナーレを告げる花火はまだ終わっていないようだった。少し間を置いて、間欠泉のように打ち上げられている。間近で話している相手の声も時折、その音にかき消された。
「おい」
今度はアランがアンドレの腕を小突いた。声を潜めて交わされていた二人のやりとりが止む。立ち止まっていたジョゼフが広場に向かって歩き出していたからだ。
二人ともはっとする。全く想定外の人物に動転して、そこまで気が回らなかったが、そこにいるのがあの女主人ならば、それは社長の妻であり、そして今、自分達の水先案内人を務めた少年の、社長の息子であるジョゼフにとっては、母親にあたる。

最初に一歩を踏み出したのはアンドレだった。アランもそれにつづく。自分達から確認できたのだから、前にいたジョゼフからも、二人の顔はわかったに違いない。夜陰に紛れて二人で会っていることの意味を7歳の少年が理解するか否か。あの子ほど頭のよい子がわからないはずはなかった。
案内など頼むのではなかったと後悔する。まさかこんな場面を見せることになるとは思わなかったからと言い訳してみても、起きてしまったことは元には戻せなかった。
広場に寄り添って座る二人は、背後で花開く鮮やかな大輪の花や、炎のカーテンを見上げている。
少年が二人に接触する前に追いつかなければと思った。こんな場面で対面するのは酷すぎる。このまま腕を引いて引き返すか、それができなくても、せめて誰か大人が、しっかりと抱きしめてやらなくては。
広場に入ったところで、アンドレが追いついた。まだか細い、子供らしくやわらかな腕を掴むと、ジョゼフは驚いて振り返った。アンドレは自分の方に引き寄せようとする。
しかし、彼の動きはそこで止まってしまった。広場の向こう側にある、もう一本の通路から人影が現れたからだ。アンドレの意識は吸い寄せられるように、そちらに向かった。はっきりしているのは輪郭だけだったが、それが誰かなど、彼には手に取るように分かった。
彼女に違いなかった。
彼女は少し息を切らしていた。歩調でいらついているのがわかった。

ようやく広場にたどり着いたオスカルは、まっすぐ広場の中央にある東屋に向かって行った。屋根の下の二人は彼女の到着に気がついて、のん気に手を振っている。
「マリー、フェルゼン!」
荒げられた声が聞こえた。少し怒気を含んでいるようだった。フェルゼンは頭をかき、謝罪しているようだ。オスカルの諌めるような声は、さらにつづいた。
「来週にも調停の結果が出るというのに……!今までの苦労が」
アンドレもアランも完全にそちらに気を取られてしまった。アンドレの手の力も緩む。それをジョゼフは見逃さなかった。「放して」と手を振り払い、束縛から逃れると走り出す。
「待って!ジョゼフ!」
まっすぐに走って行く少年に向かって、アンドレが思わず叫んだ。
その声に驚いて、東屋の下の三人が一斉に振り返る。
万事休す。

三人共、一様に闖入者に驚いたが、その中で、飽くまでもどこか長閑な二人とは対照的に、一番大きく目を開き、息が止まりそうなほど驚いていたのは、オスカルだった。
しかし、彼女の視線は走り寄るジョゼフには向けられていなかった。少年の頭を越えて、その向こうに立っている男の姿を凝視する。
無理もなかった。思ってもいなかった相手がそこに立っていたのだから。今、一番会いたくて、今、一番会いたくないひと。
しかもなぜか、18世紀の扮装をして立っている。
その姿はオスカルの記憶の底の蓋を開き、その奥にふだんは眠っている何かを呼び覚ました。
その姿には、夢の中で何度も会っていた。だが、それ以上に、彼女はその姿をよく知っていた。
歳月を共に歩むうちに、彼の身長は伸びて、肩幅が広くなっていき、髪も背中まで伸びた。後に自分のために軍服を身に着けることが多くなったが、彼には屋敷で普段着ている服の方が似合うと思っていた。そう、ちょうど目の前にいる彼が身に着けているのと、そっくりな服だ。
その服を身に着け、髪が背中まで長かった頃、彼はよく笑った。屈託なく明るく笑った。彼女はずっと長いこと、彼が子供の頃と少しも変わらないと信じていた。それは、彼がそう信じさせたかったからかもしれなかった。しかし、片目を失った後に、彼が胸の内に翳りを封じ込めつづけて来たことを思い知らされることになる。

アンドレは、彼女に見つめられて、まるで射抜かれたように立ち尽くしている。アランもとっさには動けなくて、とうとう少年は、東屋の下にたどりついた。
「やあ、オスカル」と声をかけられて、彼女は我に返る。
「ジョゼフ、どうしてこんな所に?」
「アンドレとムッシュウ・ソワソンがあなたを探しているって言うから、案内して来たんだ」
そうでしたかとオスカルが答え終わるか終わらないかのうちに、皮製の小型ポーチの中で、携帯の呼び出し音が鳴った。彼女が応対しているうちに、ジョゼフは座っている二人にまっすぐ向き合って、にっこりと微笑んで話しかける。
「こんなところで何をしていらっしゃるんですか?伯母様!」
ひときわ大きな花火が打ち上がり、6人6様の影を地面に黒々と描いた。抽選会も終わったのだろう。一等の発表に合わせての演出かもしれない。パーティーの最後の最後を飾り、夜を昼に変えるかのような光源が屋敷の上空に花開き、人工の色彩がまだらに浮かぶ雲を彩った。


それから三十分ほどたった頃、屋敷のプライベート部分の小部屋に、6人の人間が集っていた。小卓を囲み、椅子に腰かけている。
フェルゼンとマリーのカップルの横にアランが座り、その対面にはオスカルと、そしてパーティーでのホスト役を終えた社長が座っていた。テーブルから少し離れた壁際の椅子には、ジョゼフが腰かけている。
「……お話はだいたいわかりました。つまり、この二人の結婚のために奔走していたっていうことですね」
ちらりと隣の二人を窺いながら、アランが言った。
「奔走というほどではないが」
オスカルが謙遜すると、横に座っていた社長が身を乗り出すようにして「彼女はよくやってくれたよ」と労をねぎらった。
フェルゼンも彼女をほめた。
「彼女には世話をかけました。いくら私のフランス留学中からの付き合いと言っても、ときにはスウェーデンまで来てくれたり、ここまでよくしてくれて。本当に感謝しているよ、オスカル」
だが、その言葉はかえって彼女の機嫌を損ねてしまった。
「それならば、もう少しだけ大人しくしていることができなかったのか!?」
オスカルの口調がきつくなる。
「あと少しで全てが丸く収まるところなのに、こんなところに顔を出したりして……!」
フェルゼンをにらみつけると、すかさず隣のマリーが彼をかばった。
「オスカル、彼を叱らないでちょうだい。わたくしが悪いのです。ローズと組んでの初仕事だから、どうしても見てほしいと無理を言ったから……」
目を潤ませながら、そう言われてしまっては、オスカルもそれ以上追求することができない。どうも彼女の涙は苦手だ。
オスカルは目を伏せてあきらめたように溜息をついたが、目を上げたときには、仕方ないなと笑っていた。
双生児。
結婚して母となり、落ち着いた母性を感じさせるジョゼフの母、アントワネットとは対照的に、この双子の姉は結婚後も遊び癖が直らず、いつまでも少女の無邪気さと愛らしさを保ちつつ、気ままに行動するタイプ。自由奔放に振る舞い、時には周囲に多大な迷惑もかけるのだが、なぜだか憎めない。性格は大きく違うのだが、二人とも生来、人を惹きつける何かをもっているという点では同じで、オスカルは不思議とどちらも愛さずにはいられなかった。
「お灸をすえるために、もう少し黙っていようと思いましたが。先ほど、マクシミリアンから連絡があって、あちら側がこちらの妥協案を飲んだそうです」
恋人達の顔が喜びにぱっと華やぐ。社長も安堵の表情を浮かべる。
「書類にサインして代理人が持って来たそうだよ。これであとは手続きさえすれば、離婚が成立だ……おめでとう、マリー、フェルゼン」
オスカルが立ち上がって右手を差し出すと、フェルゼンも立ち上がって、その手を取った。二人はしっかりと握手を交し合う。社長も人のよさそうな顔をさらにほころばせて、にこにことその様子を見守っている。
さきほどオスカルの携帯に連絡して来たのは、このマクシミリアンという男だった。彼はオスカルの友人で、有能な弁護士である。特に離婚や遺産相続などの民事訴訟を多く手がけて多額の報酬を得ていた。その一方で、経済的に困窮している人達には無料で法律相談や支援活動を行っており、性格は紳士的で誠実、自身は非常に質素な人物で、彼女は大きな信頼を置いていた。
ひとり蚊帳の外にいるアランに、社長が補足説明をする。
「オスカルの知り合いに信用できそうで、そういった方面に詳しい有能な弁護士がいると聞いたのでね。紹介をしてもらったついでに、連絡役として動いてもらうことにしたのだ。――これは妻のアイデアなのだが。君も知ってのとおり、昨今の厳しい経済事情もあって、経営は決して順風満帆というわけではないからね。わが社としてはスキャンダルをできるだけ避けたい」
フェルゼンは独身だったが、マリーは既婚者だ。
ヨーロッパの上流階級では、既婚者が愛人をもつことはむしろ普通のこと。パートナーとの関係を壊さずに愛人を持ったり火遊びをするには、それなりの人生経験と、頭の回転の速さやセンスが必要なので、それが上手にできるならば、大人として洗練されていると認められることになる。しかし、逆に、今回の二人のように真剣に恋に落ちてしまうのは野暮だと評判を落とすことにつながる。マリーも彼と愛人として付き合えたならば、全く問題はなかったのだが。
「だって、一目見た時から、フェルゼンが“運命の相手”だとわかったのですもの」
マリーが真剣な眼差しでフェルゼンの顔を見つめる。
「わたしもです」
フェルゼンも彼女の目をまっすぐに見返した。
「はあ……離婚はまずくて、遊びならいいんですか……ちょっと俺ら庶民とは感覚が」
隣の二人にあてられて、アランは鼻の頭をかいた。
「離婚するとしたら、愛人の問題はこちらに不利な材料になるからね」
つづけて社長が解説する。そうなれば、一切の財産分与もなく叩き出される可能性がある。場合によっては損害賠償を請求されかねない上に、身内がそんな風に一文無しで放り出されるような惨めな状況になれば、社長夫人自身の社交界での評判もガタ落ちだ。ゴシップに、他人の不幸ほど社交界で歓迎されるものはない。しかも面白おかしく尾ひれがついて伝わっていく。あっという間に顧客にも知れ渡るだろう。そうなれば、一般客ではなく、個人の資産家を主な顧客としている会社の性格上、ダメージは計り知れない。
「わが社を利用して下さるお得意様は、利便性や安全性と共に、高い代金を払ってステータスも買っているのだからね。おまけに彼女には多大な借金もあることだし」
マリーと夫の結婚は、意に染まぬ親の決めた婚姻関係だった。結婚当初から二人の仲は冷えていたが、それでも形式上、夫婦でありつづけた。しかし、子供にも恵まれなかったからか、いつしか彼女は賭け事や買い物でうさを晴らすことを覚え、それは次第にエスカレートしていき、自身の信託財産をすっかり使い尽くしても止まらず、いきすぎた金遣いの荒さにカウンセリングや更正プログラムを受けたこともあったほどだった。
しかし、今回はそれを逆手に取ることができた。内偵を進めた弁護士が、夫側に結婚前からつづいている愛人がいることを突き止め、彼女のアディクションは、それも原因のひとつだと認めさせて、有利な条件で離婚が成立することとなった。
「借金なんてすぐに返せるわ。会社が軌道にのれば。資金のめどもついたことだし、ローズは優秀なデザイナー兼、プロデューサーですもの!」
彼女は離婚準備として、懇意にしていたデザイナーのローズ・ベルタンを雇い入れて、総合プロデュース会社、“ヴィ・ド・ラ・レーヌ社”を立ち上げのだが、このパーティーがその初仕事だった。マリー自身もいくつかのアイデアを出し、仮装のアイデアも、オスカルの出演した芝居の演出もそうだという。
「あなたもご覧になったでしょう。どう思って?あのお芝居の脚本はわたくしが書いて、ヒロインを守る役はオスカルがぴったりだと思って頼み込んだの。あの盗賊は、18世紀にいた実在の義賊をモチーフにしましたのよ」
どう思うかと訊かれてアランは一瞬返答に困ったが、マリーの賞賛を期待する顔を見ていると、何とか誉めなければと思ってしまう。ユニークだと思うし、オスカルははまり役だったと思うと答えると、マリーは「そうでしょう!」とわが意を得たりと喜びに顔を輝かせた。彼女は初対面の相手にも全く感情を隠そうとしない。
「自社ブランドも立ち上げて、服飾に宝飾品やファブリック、それに陶磁器なども扱いたいわ。ゆくゆくは田園風景の中で、都会の人間が忘れてしまった田舎暮らしを体験できるテーマパークをパリ郊外に作りたいの。ああ、フェルゼン、やりたいことがいっぱい」
いずれ伴侶となるはずの相手の手を両手で包み込んで、マリーは目を輝かせて無邪気に夢を語った。
全く警戒心が感じられないというか、子供の純粋さや無邪気さを温存したまま大人になったような女性だった。それが危ういと同時に、妙に人を惹き付ける魅力になっている。社長夫人の双子の姉だというから年上だが、ここまで素直に感情を露にされると、アランにすらかわいらしいと思えてしまうほどだ。
「そういうわけで、秘密裏にことを進めたかったのだ。あと少し、口外しないでもらえないだろうか」
社長から直々に頼まれて、アランは肯いた。アランが納得してくれたようだったので、オスカルもようやく肩の荷が下りる。彼女が、今後のことを出来るだけ早く相談したいという弁護士からの伝言を伝えると、フェルゼンがマリーに付き添って、早速これから事務所に向かうことになった。二人は椅子から立ち上がる。
「これを機に、わたしも父の仕事を本格的に引き継ごうと思う。……彼女のことは、きっと幸せにするよ。約束する」
留学と称して世界各地を巡っていたフェルゼンだったが、ようやく腰を落ち着ける決心がついたようだった。彼はもう一度、オスカルに握手を求めた。彼女はしっかりと握り返したが、憎まれ口をたたいてみせる。
「言っておくが、今後は道に迷っても呼び出すのは、なしにしてくれよ。今夜の迷路といい、前に弁護士との打ち合わせで待ち合わせた時といい……」
そう言って、ふと思い出してしまった。パリの西方、リヨン駅で落ち合おうと約束していた時のことだった。フェルゼンはいくら待っても現れなかった。どこをどう間違えばそうなるのか、パリ東端のオスカルのアパルトマン近くまで行ってしまった彼に、アパルトマンまでタクシーで行って待つように指示して迎えに行き、地下鉄に乗ってリヨン駅まで戻ろうとしたところをアンドレに目撃されたのだ。
さきほど彼とは会った。だが、まずはアランに事情説明しなければならなくて、部外者の彼とは、迷路の出口で別れてしまった。決着がついた今、本当は、もっと話したかった。
「それもわたくしのせいなのよ、オスカル。だってあの迷路は何度も入ったことがあるから、大丈夫だと思ったのですもの。それに、立ち入り禁止になっていたから、誰も入って来なくて都合がいいと思って」
どうやら誘ったのはマリーの方だったらしい。困った顔でいいわけをしながら、一応は場所を選んで会うつもりだったことを強調する。
「それは何年前の話ですか?ぼくが設計し直して、全面的に改修させたんですよ」
大人の話には割って入らず、分をわきまえて行儀よく座っていたジョゼフが初めて口を開いた。元々あった迷路を、彼がより複雑な構造にしたのは昨年のことだった。
「あら、そうだったの?ちゃんと教えておいてくれなくちゃダメじゃないの」
どうりで様子が違っていると思ったわと、しかし悪びれる様子は全くなく、彼女は「ねえ、小さな天才さん」と甥っ子の額に軽くキスをする。彼女の気分も表情も実にくるくるとよく変わる。
フェルゼンに促された彼女は優雅におじぎをすると、ごきげんようと挨拶して部屋を出て行った。辺りを散々にひっかき回したのに、何事もなかったように涼しい顔をして。本人に全く悪気はないからだろう。彼女は烈しいのに、とらえどころのない風のようだった。風には悪意も善意もない。ただ吹きたいから吹いている。
残された一同は、少しだけ残った余波にたゆたう。
最初に立ち上がったのはアランだった。
「それじゃ、おれも失礼します。そちらはどうしますか」
「うん。マダムを見舞ってから帰ることにするよ。すっかり引き止めてしまって、すまなかったな。また社で」
先にジョゼフと社長が廊下に出て、それからアランとオスカルがつづき、最後に彼女が、ドアを静かに閉めた。



(つづく)





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