彼の手はちょうど、オスカルの着ていた薄手のカーディガンのポケットの上に届いていた。その中に何が入っているか思い出した彼女は、とっさのこととはいえ、勝手にカードを拝借してしまったことを思い出して、慌てて彼の手をポケットの上からはらいのけた。
「何か隠してるのか?」
「別に」
オスカルの態度が先ほどのように頑なになったのを見て、アンドレはここにその原因が隠されているに違いないと思った。
「見せて」
「だめだ」
さすがに業をにやした彼は、オスカルの抵抗を片手で器用にあしらい、少々強引にポケットから紙片を取り出した。アンドレはカードを見て言う。
「これ……?」
とうとう不機嫌の原因がばれてしまい、オスカルは抵抗をやめた。アンドレは文面を読み上げる。
「" Je t'aime……"。あのチョコレートに添えられていたカードだよな。もしかして、さっきじっと睨みつけていたのは、これなのか?」
オスカルは返事をしない。
「あれは例の本を読んだ日本のファンからのプレゼントだよ。編集者が原稿を取りに来たときに届けてくれたんだ。深い意味はないよ」
やはりオスカルは黙ったままだ。彼女の後ろ姿からは、俯いていることだけしかわからない。だが、怒っているのとも微妙に違うようだ。
「もしかして……、やいてくれた?」
アンドレの声が嬉しそうに弾む。
「ば、ばかもの!そんなわけがないだろう」
ばつが悪くて、オスカルはむきになって否定する。深い意味がないことはわかっている。それでも気にかかるものは気にかかるのだ。だが、そんなことで気を揉んでいるなどと彼に知られたくない。
膝から立ちあがろうとしたが、アンドレは腕に力をこめて逃がすまいとする。じたばたとあがいてみたが、彼の力は手加減をしてさえ逃れられないほどに強く、オスカルはすぐにあきらめて静かになった。それに本気で彼から逃れたいと思ったわけではない。アンドレは大人しく抱かれている彼女の金の髪に、満足そうに鼻を埋ずめている。
しばらくして、オスカルが消え入りそうな声で尋ねた。
「わたしなんかでよいのか?」
「え?」
全く予想していなかった質問をされて、アンドレは一瞬意味がわからなかった。
「わたしは……わたしは、仕事第一な上に家事だってまともにしたことがないし、おまえに尽くしてやれない女だぞ」
彼女の声からは、いつもの凛とした張りが消えていた。アンドレは彼女がそんなことを考えているとは夢にも思わなかったので、しばし、どう返答してよいものやら分からなかった。しかし、一度抱きしめていた腕を緩め、彼女を自分の方に向き直らせると言った。
「オスカル、不安なのはおれの方だよ。おれには何もない。地位も身分も財産も。だけどおまえはおれを選んでくれた」
そんなことは関係ないとオスカルは言いかけたが、黙ってきけと言われてアンドレの言葉のつづきを待った。
「おまえにわかるか?おまえに愛していると言われるたびに……。どれだけおれが幸福を感じ、どれほど自信に溢れるか」
そんな風に思う必要はないのにとオスカルは思った。いつも迷惑をかけるのは自分の方で、わがままを優しく受けとめて包み込んでくれるのは彼の方だ。
真面目すぎるほどの言葉が胸に突き刺さるようだ。下唇をかむ。彼はどうしてこんなにも簡単に、まっすぐな気持ちを口にすることができるのだろう。
彼女はアンドレの首にしなやかな腕を回し、その黒い瞳をのぞき込んだ。
「おまえは心やさしくて、限りなくあたたかくて。真に男らしい頼るにたる男性だ。わたしが保証するのだから間違いないぞ。わたしが世界でたった一人、愛する男だ」
普段は人懐っこい穏やかな光をたたえている彼の瞳の色が、オスカルの口からこぼれる言葉の旋律に浮かされて、次第に濡れて熱をはらんだように変わっていく。
アンドレは彼女の頬にかかった髪をはらい、手の平で包み込んだ。オスカルは想いの丈をぶつけるかのように、言葉を継いだ。
「これから何度でも言ってやるぞ………。愛している。愛している、わたしのアンドレ。……愛している」
オスカルがのけぞるようにしてアンドレの顔を見上げ、無言のままにくちづけをねだると、彼は彼女の頭を大きな手で支え、引き寄せ、自分の唇を重ねた。いつもより深く長くつづく口づけにオスカルは息苦しくなる。弾力のある唇が挑発するように彼女のくちびるを啄ばんだ。やがてしっかりと合わせると、もっと深く彼女を知りたいと忍びこんでいく。オスカルもどんなに彼を求めているか知って欲しくて、絡みつくように応えた。
互いの気持ちが昂ぶっていくのが伝わっていく。
ようやく彼が彼女を解放すると、オスカルはほうっとため息をついた。キスの余韻の中でたゆたう。柔らかな肌触りのネルシャツに頭を預けると、彼の呼吸は浅く乱れていた。
ミネラルウォーターの入った水差しの氷が溶けて、からんと音を立てた。アンドレの精悍な顔が再び近づいてくると、オスカルは顔を背けた。
「アンドレ、まだデザートが……」
彼は彼女の言葉など耳に入らなかったように、唇を奪うのをやめなかった。左手は髪に差し入れられ、右手で彼女の腰を強く引き寄せた。愛撫はさきほどよりも激しくなる。彼女が何も考えられなくなるほどに。
オスカルは自分の中が満たされていくのを感じた。それでも、もっともっとと彼を求める。
出会えるまでずっと待ち望んでいた、たったひとつのものが、今彼女に触れて、彼女だけに愛を注いでいる。それを確かめるために。

やがてアンドレはオスカルを抱き上げると、ゆっくりと寝室に運んだ。


夜空の軌道を粛々と横切る冴えた月が中天に差しかかった頃、二人は白いシーツの上で、互いの呼吸が穏やかになって熱がゆるりと冷めていくのを、触れ合う肌で感じながら寄り添っていた。清かな月の光が、やさしく癒すようにアンドレのアパルトマンを照らしている。。
彼の心臓の力強い鼓動を聞いているうちに、うとうとし始めていたオスカルは、首筋に冷たい感触を覚えて目を開けた。しゃらりと鎖が伸びる音がして、胸元に胡桃大の塊が下りてくる。半身を起こして塊に手を伸ばしすと、ステンドグラスのシェードをすかして届いた、柔らかな明かりを反射して、それはきらりと光った。
アンドレが彼女の首にかけたのは蒔絵のペンダントヘッドだった。ほとんど黒に近い、深い焦茶色の琥珀に、水晶かローズクウォーツだろうか、淡くピンクがかった貴石が薔薇の文様にはめこまれ、精緻な蒔絵技法で黄金の蔓や葉が表現されている。突然天から舞い降りてきたようなそれを、じっと見つめて動かないオスカルの耳元でアンドレがささやいた。
「ヴァレンタインのプレゼントだよ」
日本では女性が好きな男性にチョコレートをプレゼントする日であるが、フランスでも愛しい人にプレゼントを贈る習慣がある。ただし、それはチョコレートに限ってはおらず、日本とは逆に男性の方から、女性へ花などの贈り物をすることになっている。
「漆器のことを調べているうちに、蒔絵だとか、果ては焼き物まで興味が湧いてね。すごくおもしろいよ。職人の家に生まれ育ったからか、技の妙を感じさせるものに、ひどく惹かれる。……これはネットでオーダー・アクセサリーを受注している日本のショップに注文した。おまえのイメージを伝えてデザインしてもらったんだ……とてもよく似合うよ」
彼はそう言ってうっとりと見惚れた。
「ありがとう、アンドレ」
オスカルは、それを指で弄ぶと、遠い記憶を呼び覚まされたような表情で、見事な細工をしげしげと見つめて言った。
「素晴らしい腕だな。こんな風に現代風ではなかったが、アントワネットさまの蒐集された蒔絵や陶磁器の数々を思い出すよ。極上の品ばかりだった。……母君のマリア・テレジアさまのコレクションも」
黒漆に菊と唐草文様の描かれた香入れや、東洋らしい風景の描かれた水差し、目の覚めるような青い釉薬の鸚鵡の置物。そんなものが、今、目の前にあるかのように、ありありと浮かんだ。
独り言のようにそう呟いてから、はっと我にかえる。自分が18世紀の人物と知り合いのように話す癖を、これまで何度もアンドレに笑われてきた。
だが彼は何も言わなかった。恐る恐る見上げると、逆に『何か?』と訝しがられた。最初は奇妙に思った彼女の癖も、そういうものだと慣れてしまって、今は全く気にならないようだった。
特別な出来事だけでなく、こうしてありふれた日常を重ねていくことで、二人の間に当たり前が増えていくのだろうか……。
――遠い遠いむかしにも、じゃれ合ってぶつかり合って、下らないことでケンカして。
別々の種子から生まれた木が、互いに絡み合いながら成長して、どちらがどちらか分からなくなるほどに融合して、ふたつの魂は絡み合ってひとつになった。離れては生きていけないほどに。

「ルーブルに収蔵されていたっけ?今度、いっしょに見に行こう」
アンドレが提案すると、オスカルは彼の胸にもたれかかったままで素直にうなずいた。
「そういえば、おばあちゃんがおまえの顔が見たいってうるさいんだよ。また一度帰ってみようかと思っているんだけど」
"ついて来てくれる?"その部分は言葉に出さなかったが、オスカルは再び首を縦に振る。
「二人でいろんな所に行こうな。アメリカ大陸にも、アフリカにも、アジアにも。いつか日本にも……」
アンドレは答えを待たずに、オスカルの指に自分の指を絡めて強く握り締めた。オスカルは何も言わずにアンドレの手を握り返した。

この手が離れない限り、どこまででも行ける。

二人は互いを抱きかかえるようにして、ベッドに横たわった。オスカルは彼の胸の隆起した筋肉をなぜた。
「……次は、ハッピーエンドの恋愛物を書け」
「そうだな。そろそろ書けそうな気がするよ」
オスカルの指がくすぐったいのか、アンドレは彼女の手をやさしく胸の上からどけてから笑った。
「いっそSFなんて、どうだ?」
彼女は目を閉じて、思いつくままを口にする。
「新境地か、それもいいかもな」
二人してくすくすと笑い合う。


その夜、オスカルはアンドレの腕の中でまどろみながら、長い長い夢を見た。
チョコレートの流星が降りそそぐ中、彼女が操縦する宇宙船で、月に住むという伝説の男を捜すために、アンドレといっしょに宇宙へと旅に出る。
月の世界はおかしなことだらけで、二人で力を合わせて次々と襲いかかる窮地を乗り越えたが、月に住む男を見つける前に目が覚めた。
ばかばかしい夢だ。荒唐無稽で、ありえない夢だった。

だけどひょっとしたら、ありそうな夢だった。

夢の中で、二人はいつもと同じように、泣いたり笑ったりケンカしたりしていたから。
アンドレはやっぱり自分の隣でしっかりと手を握っていてくれたから。





(了)









Fly me to the moon
Let me sing among those stars
Let me see what spring is like
On Jupiter and Mars

In other words, hold my hand
In other words, baby kiss me

Fill my heart with song
Let me sing for ever more
You are all I long for
All I worship and adore

In other words, please be true
In other words, I love you


(Words by Bart Howard  1954)








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