Epilogue〜夜明け前に〜

教会からオスカルの部屋に戻った二人は、秘蔵のシャトー・ラフルールの栓を抜き、オスカルが前もってケータリングサービスに注文しておいた料理を冷蔵庫から出して来て、二人だけのレヴェイヨンを楽しんでいた。フォワグラやキャビア、トリュフなどが、アーティチョークのカヌレや新鮮な野菜などと共に盛りつけられている。
オスカルがスティックに刺さった黒オリーブの酢づけを口に運び、紫紅色のワインを口に含んだ。舌の上で転がし、プラムのような風味や、葡萄の育った土の薫りまでしっかりと味わう。幾度か杯を交わすと、ほどよくアルコールが回ってくる。オスカルはアンドレの厚い胸板に自然と体を預けていった。
料理の皿が並べられているテーブルの上に、一通の古びた手紙が置かれている。その封筒は茶色く変色してはいたが、宛名はオスカル自身の筆跡であり、確かに自分がさきほど、いや200年ほど前に書いたものにまちがいなかった。
オスカルが手紙を指して聞いた。
「手紙はいつ届いたのだ?」
「正午ぴったりにね。しかし驚いたよ。あれで状況が少しつかめたからよかったけれど」

朝、ブリュッセルからパリに戻って来るとすぐに、アンドレはオスカルの携帯に電話を入れた。呼び出し音はしているのに、全く出る気配がない。何度目かの留守電の応答メッセージを聞いた後、彼は彼女のアパルトマンに向かった。アンドレからの電話だということはナンバーで確認しているはずだった。すねているだけならいいが、妙な胸騒ぎがする。
面識のあるコンシェルジュに挨拶すると、エレベーターに乗り、オスカルの部屋の前まで行った。ベルを鳴らしたが、一向に応答がない。オスカルから教えてもらった解錠キーをコンソールに打ち込む。ロックが外れた電子音がした。アンドレはドアを開けて部屋に入り、彼女の名を呼んだが返事がない。ベッドルームからリビングを探して、ベッドルームの奥の部屋のドアを開けた。天井のライトが煌々とついている。それに照らされて、白い布に覆われた家具や調度がまるでオブジェのように並んでいた。ひとつだけ、被いが取り去られていているものがあった。それは、年代ものの大きな姿見だった。その傍にシーツを被ってうずくまっている人影があった。
「オスカル?」
声をかけてシーツをはがすと、彼女は彼の胸に飛び込んで来た。

「いつものわたしでないと、おまえはすぐにわかったか?」
自分のことを見抜いていた過去のアンドレのことを思い出して、オスカルは尋ねた。
「それは、全然違うからすぐにわかったよ。キ……じゃなくて、とにかくテレビや冷蔵庫にまでいちいち驚いているのだから。自分がどこに来たのかはわからないようだったけど、素性についてはちゃんと話してくれたしね」
「小説家になるくらいだから、生来、発想に柔軟性があるのかな、おまえは。ん?これはどうしたのだ?」
アンドレのシャツからのぞく肩口に痣を見つけて、指でつつく。
「いてっ。これはその、投げとば……たわけなじゃくて、ぶつけたんだ、そうちょっと転んでね」
「ふう……ん」
状況はだいたい察しがつくけどと、オスカルは人差し指でさっきよりも強く痣を押した。アンドレは慌ててシャツを引き上げると、話題を変えた。
「ところで手紙がどうやって届けられたか聞きたくはないか?」
オスカルが興味ありげな顔をしたので、アンドレは手紙が届いたときの状況を話し始めた。


過去からやって来たというオスカルの話をひととおり聞き終わると、彼女の気持ちが落ち着いたのを見計らって、アンドレはオスカルをベッドで休ませた。彼女が寝入った頃にドア・フォンが鳴った。アンドレがモニターを見ると、若い男が立っている。応答すると、預かっている手紙を渡したいのだと言う。
アンドレが扉を開くと、モニターからは見えなかったのだが、男は車椅子を押していた。それには皺だらけの老人が座っている。髪はほとんど抜け落ち、目も水晶体が白く濁っていて、ほとんど見えないようだった。分厚いウールのひざ掛けに置いた手に、老人は大事そうに封筒を持っている。若い男の方はポロシャツの上にパーカーを羽織り、ジーンズにスニーカーという格好で、パーカーにはどこかの施設の名前が印字されていた。
「こちらはオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェさんのお宅ですよね?」
男が尋ねる。そうだと答えると、
「よかったね!本当にあったよ、ブノワさん!!」
青年が老人の耳元で大声で言う。ブノワと呼ばれた老人は、ゆっくりと二度首を縦に振った。アンドレはわざわざ車椅子で出向いて来た老人を、玄関先で追い返す気にはなれず、中に招き入れた。
リビングに二人を通すと、アンドレは青年にかけるように言ってからキッチンに行き、紅茶を二人分運んで来た。
青年は紅茶を一口すすってから、訪問のわけを話し始めた。
「僕はブノワさんが入居している施設の者で、デュポンと言います。あなたがオスカル・フランソワさんですか」
アンドレは、彼女が体調を崩して休んでいることを説明し、自分は身内のようなものだから信頼してほしいと言うと、老人は少し躊躇しながらも、茶色く変色した封筒を前に差し出した。彼は車椅子に近づき、老人のしわがれた手からそれを優しく引き抜くと、まず差出人を確かめた。差出人名は明記されていなかった。ただ古めかしい紋章入りの封蝋で封印がしてある。裏返して、今度は表書きを見ると、確かに、ここの住所とオスカルのフルネームが羽ペンで書かれていた。その筆跡は、アンドレがよく知っているものだった。

「このブノワさんが入所して来たときから、今日この日に手紙を届けなければならないって言いつづけて来たそうでしてね。もうすっかりボケてしまっているんだけど、今でもそれだけは毎日毎日うわごとのように言いつづけていて」
この人の話を信じるならばと前置きしてから、青年は手紙と、老人の、ブノワ・ショヴィレの身の上について語り始めた。
老人の話によれば。
手紙は220年前にブノワの曽祖父の、そのまた曽祖父が預かったもので、彼の一族の継嗣がそれを代々受継いで来たのだという。ショヴィレ家は何百年にも渡って、とある貴族に仕え、情報収集や表立ってできないような日陰の仕事を請け負って来たのだった。世間から蔑まれたり、日の当たらない家業というものは、えてしてそうした傾向がある。ムッシュウ・ド・パリが世襲されたのと同様だ。
その後、革命で王制が崩壊すると、ショヴィレ一族も散り散りとなって、それぞれ革命政府の手先になったり、外国に活躍の場を移したりしたが、この手紙だけは、まだ完遂していない任務として親から子へと伝えられて行ったのだという。
ブノワ自身も若い頃は、フランスの諜報員として華々しい活躍をしたが、第2次世界大戦で片足を失って引退してからは、傷痍軍人の恩給でひっそりと暮らしてきた。
「自分はド・ゴールのこともよく知っていたとか、ノルマンディー上陸作戦を成功に導いた情報は自分が掴んだんだとか、よた話ばっかりするもんだから、施設の誰も、じいさんの話をまともに聞いちゃいなかったんですけどね。話のなりゆきで、手紙のあて先が本当にあるかどうか、仲間と賭けをすることになっちゃって。それでここまで代表で連れて来たってわけです」
デュポンが経緯を話している間、ブノワは黙って聞き耳を立てているようだった。
まるでドラマか映画のような、眉唾ものの話だった。普段だったら、にわかに信じられなかったかもしれない。だが、さきほどのオスカルの話と、この手紙の筆跡と。不思議な事件を解く鍵はこの手紙の中にあるかもしれないとアンドレは思った。
「でも、本当にジャルジェさんがいたってことは、じいさんの話もまんざら嘘ばかりじゃないってことですかね」
青年は頬のにきびをかゆそうに少しひっかいてから、帰りますと言って立ちあがった。
「なにしろブノワさんは今年で108才で、本当ならこんな外出なんてできる体じゃないんですよ。どうしても連れていけとパニックを起こしたものですから連れて来ましたけどね。これだけでも、じいさんにとっちゃ、命がけですよ。さあ、気が済んだでしょ、帰るよ、ブノワさん」
デュポンが車椅子の方向を変えると、ブノワは初めて言葉を発した。
「……終わった……」
その言葉には万感の思いがこもっているように、アンドレには思えた。

「この手紙のおかげで、元に戻れたわけだけど。いや、あの老人と一族のおかげかな」
アンドレがもう一度、手紙の文面に目を落としながら言うと、近いうちにその老人に会いに行こう、とオスカルは言った。

「しかし、よくこんなアイデアを思いついたな。未来に手紙を出そうなんて」
その発想力、パイロットにしておくにはもったいない。おまえも小説でも書いてみたらどうだとアンドレが言うと、柔軟な発想力はパイロットにも必要な資質でねとオスカルが答えた。元ネタはむかし見た映画だけど、と白状して。
「ある意味ばくちだな。映画でうまくいったとしても、現実でうまくいくかどうか」
いい度胸をしているとアンドレが笑う。
「でも勝っただろう」
オスカルは、得意そうに笑い返す。
「人選がよかったのだろう。それを選んだおれに感謝してほしいな」
そうだな、おまえがいてくれなければ、今頃ここに私はいないと、オスカルは素直に認め、彼の手を両手で包み込むと、そっと感謝を込めて一つくちづけた。

二人は、もう一度、例の鏡の前に立つ。
「これからは、夜、決してこの鏡の前に近づかないようにする」
オスカルが宣言すると、アンドレはいっそ手放すか、実家に送り返したらどうだと提案したが、それも何だかさびしいからと彼女は答えた。鏡の中には寄り添う二人の姿だけ。左右反対の世界に映る影。
天井のライトが一度明滅した。オスカルはびくりとして、かたわらのアンドレの手を握る。
鏡に映る二人の姿も、瞬間かげってから、再び現れる。その一瞬だけ、二人の姿が18世紀の装束に変わって見えた。一秒にも満たない間の現象。見間違いかと互いに顔を見合わせる。
「実は、戻る直前にはっぱをかけたんだ」
アンドレが白状する。
「なに?おまえもか」
互いにちょっとだけ後悔したように見せかけながら、共犯者の気分を味わう。
「あの二人、この一件で少しは……近づいたとしたら、いいのにな」
そうだなとアンドレが答える。オスカルには18世紀の二人も、鏡の中で手をつないでいるように見えた。

しばらくそのまま二人でじっと立ち尽くしていると、オスカルが小さなあくびをひとつした。
「昨日からいろいろあって、疲れたな。そろそろ眠るとするか」
「もう…?」
すげなく言われて、アンドレがいつになく残念そうな声を出す。
「いやか?」
アンドレがつないだ手に力をこめる。
「いやでは……ないけど」
オスカルは指をほどかずに、もう一方の手を彼の首の後ろにを巻きつけた。どちらともなく、ゆっくりと唇を合わせる。

200年前の彼らがここにいないように、今から200年後に自分達はここにいない。だから、限りある時間の中で精一杯生き、精一杯愛し合おう。
くちびるを離したアンドレが、オスカルの顔の輪郭をそっと指で辿った。反対の手は彼女の体を強く引き寄せる。
「オスカル、人生は短いけれど、冬の夜はひどく長い……」
ふたりのシルエットは、ひとつになって、そのまま長く長く離れなかった。





(了)



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初出:2009年01月
改訂:2010年01月