オスカルは晩餐を済ませると、アンドレと示し合わせて再び屋根裏部屋にのぼった。
明り取りの小窓から白い月光が差し込んでいた。鏡がそれを反射する。オスカルは鏡の前に立つと、右上方に、確かに可愛らしい天使が付いていることを確認した。
約束の時刻が迫っていた。まもなく元に戻れるはずだ。
まだこちらに来て、一日もたっていないというのに、もう何日も何ヶ月もこちらで過ごしていたような気がする。
鏡に映るアンドレに気がついた。彼女の後ろで複雑な顔をしている。オスカルは彼の方に向き直った。
「ずいぶんと世話になったな。ありがとう。心から礼を言う。最初は一人で何とかしようと思っていたのだが……。おまえの助けがなければ、元に戻れなかったかもしれない。それに、とても心強かった」
「元に戻ってくれなければ困るけど、なんだか名残惜しいような気もするよ。……元気で」
アンドレが右手を差し出したので、彼女はその手を握り返した。もう一方の手も出して、感謝と親愛を込めてアンドレの手を包み込んだ。
自分よりも少し骨ばった大きな男らしい手。自分が覚えているアンドレの手よりも少しゴツゴツとしていて、固いような気がする。だが、そのぬくもりは同じだ。ここにいる彼は隻眼で、自分のアンドレとは違うとわかっていても、おかしな錯覚を起こしてしまう。
オスカルは自分の愛しい男を見つめるときのように、彼のたった一つしかない目を見つめた。
彼の手に力がこもった。彼の方へと引き寄せられる。ふいをつかれ、バランスを崩したオスカルは彼の胸に倒れ込んだ。アンドレの腕が彼女の背中に回る。そのまま力を込めてオスカルの体を抱きしめた。半ば開いた彼の唇が白い首筋にあてがわれる。
「ア…アンドレ?」
「わかっている。わかっているから、しばらくこのままでいてくれ……」
オスカルは抵抗せずに彼のなすがままにさせた。熱くなっていく体に、喘ぐような息遣いに、彼の想いが伝わって来て、胸がつまった。
やがて首筋に触れていた唇が耳元にゆっくりと移動すると、アンドレは切なげな吐息を吐きながら、消えいりそうな声でささやいた。
「おまえが、おれのオスカルでないことは十分にわかっている。わかっているけど、そんな風に見つめられると……。そんなおれに恋しているような瞳で見つめられると、幸せな錯覚を起こしてしまいそうになる。こうして、おまえが大人しくおれの腕の中にいることなんて、ありえないことなのに」
気持ちが高揚しているためか、彼の声は震えていた。泣いているのだろうかとオスカルは思った。
「頼みがあるんだが……」
アンドレは、ためらいながら言った。
「帰る前に、最後に、そのくちびるから、一言でいい。おれを愛していると言ってくれないだろうか」
おそらく一生、その言葉は聞けるはずがないと思いこんでいるのだろう。彼はそれほどまでに深く絶望し一秒ごとに傷つきながらも、自分の求めてやまない女の側にいる。苦しみを凌駕する愛は、オスカルが想像していた以上に深くて、胸が絞めつけられる。彼の痛いほどの気持ちに、少しでも報いてはやりたいが。
オスカルのほおをひとしずく、涙がつたって落ちた。
「……だめだ。それは代わりに言ってよい言葉ではないよ」

アンドレの腕にこもった力が嘘のように抜けて、オスカルを解放した。アンドレもやはり泣いていた。目を伏せて、そうだな、すまなかったと詫びる。
「女々しいことを言ってしまった。たのむ、忘れてくれ」
オスカルの目からも涙がこぼれつづけていたが、ただ打ちひしがれたようなアンドレをじっと見つめているしかなかった。
「さあ、そろそろ時間だ。行って」
涙をぬぐい、必死に笑顔を浮かべたアンドレがオスカルを促す。オスカルは鏡の正面に立つと、冷たく固い表面に片手を置いた。最後にもう一度、アンドレを振り返る。どうしても聞いておきたいことがあった。
「これから、これからフランスに起こることを知りたいとは思わないか?」
それをこの時代に生きる人間に伝えることが禁断の行為だということは、オスカルにも重々わかっていた。だが、もしそれを伝えておけば、彼らの運命は変わるかもしれない。
アンドレは驚いて、ほんの少しの間だけ迷ったようだったが、大きく首を振ると、きっぱりと言った。
「必要ない。おれは何が起ころうとオスカルのそばで生きる。ただそれだけだから」
何となく予想していた通りの答えが返って来て、オスカルは少し悲しそうに微笑んだ。
「では、いく」
「……さようなら」

オスカルは鏡面に両手を置き、目を閉じて額をあてた。強く強く心の底から念じる。
“還りたい。元の場所へ、わたしのアンドレのいるところへ”
掌に熱を感じて目を開けると、鏡はさざなみ立ち、昨日の夜のように、はっきりと映し出されていた自分の像がマーブル模様のように歪んだ。
「アンドレ、ひとつだけ、未来のことを教えてやる。おまえも生まれ変わって、再びわたしの側で生きるのだ。そして、何度生まれ変わろうと、わたしが愛するのは、アンドレ・グランディエ、ただ一人だ!」
「オスカル?えっ?それはどういう意味だ?」
「あとは自分で考えろ!それとル・ルーに、ありがとうと伝えてくれ……!」
言葉の最後まで、アンドレの耳に届いたかどうか。
昨日と同じように白い何かに包まれたと思うと、胸の辺りを、個体でも液体でも気体でもないものが通り抜けた。
“こんにちは、わたし”
“さようなら、わたし”
二人のオスカルはひとつに溶けて、そしてふたたび二つに分かれた。

鏡の中の像がはっきりと元に戻ると、絹のブラウスにキュロットをはいた姿は消え、現代の服装をした自分がそこに立っていた。
「おかえり」
後ろから声がして、オスカルは驚いた。
振り返るとアンドレがいた。
「ど、どうして!?おまえ、まだブリュッセルにいるはずじゃ?明日の午後にならないと戻らないって」
「その話は後だ。オスカル、まずは本当におれのオスカルかどうか、確かめさせてくれ」
アンドレは近づいてくると有無を言わさず、多少強引に彼女の顔を上向かせると、くちびるを奪った。
やわらかな唇の裏で撫でられ、甘噛みされる。体の芯が熱くなってくる。彼はいつもより乱暴に歯列を割ると、舌を忍びこませてきた。オスカルもそれに応えようとするが、彼の激しさの前に受けているのがやっとだった。
「心配した。とても……!」
そう言って、一瞬、彼女のくちびるを解放したと思うと、再び激しくくちづける。彼はまるで彼女の吐息をひとつも逃さないようにしているかのようだった。角度を変えて愛撫は繰り返されて、とろけるような快感に、唇も指先も次第にしびれていく。
ひとしきり口づけをかわすと、アンドレはようやく彼女を解放した。オスカルはアンドレの胸にすっかり体重を預けて潤んだ目で彼を見上げた。
「大丈夫みたいだ」
アンドレがオスカルの頬を撫でた。
「ばか」
睨みつけようとするが、声は弱々しく、体にまったく力が入らない。
二人はそのまま寄り添って、しばらく動かないでいた。お互いの体温を確かめるように。


一時間後、二人は16区にある小さな教会にいた。その教会の外見はロマネスク様式だったが、あちこち修復されるたびにその当時、流行りの様式が取り入れられたようで、内部にはゴシック様式の梁があったり、ファサードはイエズス会風に仕上げられていたりと、全体としての調和に欠けていた。だが建築の歴史をざっとおさらいするには、おあつらえ向きの建物といえた。
教会内では深夜のミサが執り行われている。中は人であふれかえっており、飾らない感じで近隣の人々が集まって来ているようだった。舟をこいでいる老人や、後ろの席が気になってそわそわしている子供を小声でたしなめる母親がいて、厳粛というよりも温かな雰囲気に満ちている。オスカルとアンドレは入り口付近に立ったまま、司祭が朗読する福音書の一節に聞き入った。パンとワインをイエス・キリストの聖体に変え、それを一人一人が拝領して口にする。その後、最後の祈りを捧げると「Ite, missa est」の言葉と共にミサは終了した。
二人はこうして一緒にいられることを神に感謝して、祈りを捧げた。

ふたりは教会の外に出て、セーヌ河岸まで歩いた。ミラボー橋までやって来ると立ち止まって欄干にもたれた。街灯が点々と灯ってる。呼吸のたびに闇が白くかすむ。温暖化が進んでいるという話だが、冬のパリは相変わらず凍えるように寒いと思う。
セーヌの上流に自由の女神像が見えた。フランスがアメリカに自由の女神像を送ったお返しとして、パリに住むアメリカ人たちがフランス革命百周年を記念して寄贈したものである。左腕に抱える銘板には、バスティーユ牢獄襲撃の日、1789年7月14日の日付が刻まれている。冬の空気は澄んでいて、そのずっと向こうにあるライトアップされたエッフェル塔までが見えた。
「時間がなかったし、あまりこちらの世界を見せない方がよいと思ったんだけど、彼女がどうしてもと言うから、少しだけ街に出たんだ」
「どうだった?」
「豊かさに目を見張っていたよ。せがまれてエッフェル塔にも登った。何より、この街に住む人々が基本的には平等で、誰とでも恋愛できるし、結婚できることに驚いていたよ」
「それでおまえ、それ以上のことを教えたのか?」
アンドレは首を振った。
「いや、おまえの手紙で元に戻れることはわかったから、あまりこちらのことは知らせない方がいいと思った」
上出来だ、と言ってオスカルはアンドレの肩にもたれかかる。二人とも黙って、遠くに瞬くエッフェル塔を見つめた。
「今回の事件、いったい何の意味があったのかな」
めまぐるしかった一日に思いをはせて、オスカルが言った。
「さあ……それこそ、神のみぞ知る、だ」
オスカルは、ふたたびアンドレとこうしていられる幸せを噛みしめながら、過去のアンドレの切ない心中を思い出していた。
「アンドレ、二人は今回のことで少しは近づいたのだろうか」
「だと、いいな。だけど、戻って来られてよかったな、本当に」
アンドレの言葉にオスカルはうなづいたが、さきほど、うやむやにされてしまったことを思い出して、尋ねた。
「おまえ、どうして今ここにいるのだ?後で説明すると言っていたな。答えてもらおうか」
「実はな」
アンドレは、コートのポケットからリボンのかかった包みを取り出した。
「誕生日おめでとう、オスカル」
オスカルは包みを受け取ると、開けてもいいか尋ねた。アンドレがうなづくのを確認してリボンをほどく。白い光沢のある包装紙をはがすと、宝飾品をしまっておく赤いベルベットのケースが出てきた。蓋を開ける。
「これは……!」
中味を見たオスカルは息を飲む。見覚えのある品物。
それは、あの懐中時計だった。印章は失われ、剣を象った鍵をつないでいる鎖も真新しいものに取り変えられていたが、まぎれもなく、それは過去にオスカルが見た、あの時計だった。蓋には、白薔薇と蔓の見事な細工が施されている。文字盤にはジョベールの銘もはっきりと刻まれている。
「これを誕生日にプレゼントしたくて、それでブリュッセルまで行っていたんだ」
オスカルが顔を上げる。
「それと、これを見てくれ」
アンドレはポケットから、もう一つ何かを取り出した。それもやはり懐中時計だった。オスカルの持っているものと並べると、蓋の細工がひとつの絵画になる、あの片割れの時計。
「どこでこれを!?」
オスカルが驚いて尋ねた。
「おまえの誕生日に何か贈り物をと思って、だいぶ前から、蚤の市やらアンティーク・ショップを物色していたんだ。ほら、おまえ好きだって言ってたろう?ある日、この時計をショーケースの中に見つけたんだ」
店にあったのは片方だけだったが、店主によれば、この時計は対になるもう一つがどこかにあるらしく、アンドレはその話を聞いて、ぜひ、もう一つも手に入れたいからと、店主に行方を探してもらっていたのだった。
ようやく、もう一つの消息が知れたのが二日前の22日のことで、それはブリュッセルの古美術商が持っていた。その情報を聞いて、アンドレはオスカルには内緒でベルギーまで出かけていたのだった。
「その店が、行ったら閉まっていてね。年末まで休みだというじゃないか。何とか25日に開けてもらうように交渉していたんだけど。おまえがパリに戻って来ていると電話をくれたから、店主の家まで押しかけて頼み込んで、これを昨日のうちに売ってもらって、一番早いTGVで今朝戻って来たんだ」
いつになく強引に物事を進めるアンドレの奮戦ぶりを思うと、オスカルはおかしくなった。
「この時期、休みを取るのは大変だったろう?仕事を詰め込んでいるとは思っていたけど」
気づかなくてすまん、とアンドレが謝る。謝るな、とオスカルは言った。
「そのおかげで、これがわたしの手元に戻って来たのだ。……本当にありがとう、アンドレ」
オスカルは、この時計がなぜ作られたか、誰のために作られたかを話した。アンドレが目を丸くする。
「偶然とはいえ、……すごいな」
「いや、偶然なのだろうか。わたしには、この時計が、あるべき場所に戻りたがっていたような気がするのだが」
数百年の時を超えて、時計は再び二人の手の中に戻ってきた。どちらかが欠けることもなく。
「まだ、動くのかな?」
オスカルが言うと、アンドレは店の主は今でも動くと保証していたがと言って、付属している鍵を差し、回らなくなるまでゆっくりとぜんまいを巻いてみせた。
すると、時計はカチコチとかすかな音を立てて時を刻み始めた。
懐中時計はユイテンヌと呼ばれる種類のもので、一度ぜんまいをしっかり巻けば、8日間動きつづける性能をもっているのだそうだ。
アンドレはオスカルの持っていた方のぜんまいも巻いてみる。こちらも問題なく動いてくれた。アンドレは自分のクロノグラフを見た。
「もうすぐ0時だ。その……女の子のような発想で申し訳ないんだが、こうして対になっている時計をもっていれば、互いの離れている時間も共有できるような気がして。ネジを巻くときには少なくとも、相手を思い出せるだろう?」
「だが、仕事にかまけてねじを巻き忘れるかもしれないぞ、わたしは」
アンドレの気持ちが、オスカルにはくすぐったい。
「そうなったら、もう一度ふたりで時間をあわせよう。そこからまた始めればいい」
オスカルはアンドレを見上げた。アンドレはオスカルを見下ろしていた。彼女が静かに目を閉じると、彼もそっと目を閉じた。唇が触れ合いそうなところまで近づいていく。
オスカルの鼻先に、白いものがひとひら触れて、体温で溶けていった。
「アンドレ、雪だ」
掌で小さな白い欠片を受けとめた。見上げると、空を被った厚い雲から、粉雪が舞い散る羽のようにひらひらとこぼれ落ちてきていた。



――人も物も最後はあるべき場所に帰っていく。

12月25日、午前0時。アンドレのクロノグラフで確かめて、二人は時計の針をぴったり垂直に重なるように合わせてから、少女と少年が初めてくちびるを合わせるときのような、少しだけぎこちないキスをした。
そしてオスカルは、この時間が永遠につづくようにと、こっそり心の中で願いをかけた。





(了)


※注
本文中のアンドレのセリフ、「その店が、行ったら閉まっていてね。〜中略〜一番早いTGVで今朝戻って来たんだ」について。
パリ−ブリュッセル間をつないでいる国際高速列車のことをタリスと呼びますが、フランスが誇るTGVを基本としているため、フランス人であるアンドレのセリフの中では、あえてTGVといたしました。
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初出:2009年01月
改訂:2010年01月