ショコラな夜、ショコラの朝






――夜明けまでには、ずいぶんと時間があった。

ベッドに横になってはいたものの、アンドレはまんじりともできないでいた。サイドボードに飾ってある花をぼんやりと見つめる。アパルトマンの中庭に咲いたローズ・ド・ノエル(クリスマスローズ)を「彼女さんに」と、切り花にしてプレゼントしてくれたのは、よくその庭の手入れをしている、花と同じ名前をもつ老婦人だった。
当の「彼女さん」は、隣で静かに規則的な寝息をたてている。起こさないように、アンドレはそっと床にすべり降りた。
彼はできるだけ音を立てないようにしてキッチンに向かった。床からの冷気が踝のあたりまで這い上って来る。窓の外はまだ暗い。時計をみると、短針は4を差していた。まだ眠っていてもよい時刻だったが、暖かいベッドへと戻る気にはなれなかった。
深夜、予定より遅く着いた彼女はシャワーを浴びると、食事がなかなか進まないほど疲れ切っていた。「大丈夫だ」と駄々をこねる彼女を強制的にベッドに引き込んで添い寝すると、気づいた時には、とうに彼女は深い眠りに落ちていた。
呼吸する度に上下する肩、その度はらりと落ちる金の髪、毛先の落ちた先の、白い胸元――…。
何度、手を伸ばしかけたかわからない。ときおりやわらかく開かれる赤い唇もアンドレを苦しめる。
彼女を休ませてやりたいという気持ちと、触れてしまって彼女の中に深く沈み込みたいという欲望がせめぎあう。
ついに懊悩に耐えきれなくなって、逃げ出してしまった。

夜明けまでは、長い――。

このまま起きてしまうのがいいと、アンドレはいつもの朝の習慣を始めた。
シンクの上の戸棚からコーヒーミルを取り出し、コーヒー豆を好みの細かさまで挽く。ドリッパーから滴り落ちる琥珀色の液体をぼんやりと見ていると、彼女の白い顔ややわらかな肌の感触が思い出されて来た――彼女は魅力的すぎる……。
頭を振ったアンドレはテーブルの上にあるノートパソコンを開くと電源を入れた。こんな時はモードを仕事に切り替えてしまうに限る。
まずはメールをチェックすると、仕事関係の他に、サン=ジュストからのメールがあるのに気づいた。サン=ジェルマン=アン=レーにある屋敷を引き受ける際、前の持主から法務を委任された弁護士だ。現在も財務管理や地所の維持・管理などで相談役となっている。アンドレはまずそのメールに目を通すことに決めた。有能ゆえに少し短気なところのある若き弁護士殿は、返事が遅いと嫌味ったらしい催促のメールを矢継ぎ早に送りつけてくるからだ。


  アンドレ・グランディエ殿
  先日、ご依頼のあった庭師の件につき、適任者が見つかりましたので、お知らせいたします。
  パリ植物園で実践的に学んだ後、イギリスのキュー・ガーデンやオックスフォード植物園、ベルリンなどで研鑽を積んだ者です。
  当方で面接を行いましたところ、少々頑固な性格が感じられましたが、庭園管理に対する知識は豊富で、何より並々ならぬ庭園への情熱と植物への愛情が感じられる今後の成長が大いに期待される若者です。
  詳しい経歴につきましては、添付のファイルをご覧ください。
  ご興味があり、採用面接等のご希望がある場合は、至急ご連絡下さい。他にも何件かアプリケーションを出している先があるとのことです。
  なお、当事務所は12月24日より休暇に入り、年始は1月11日より営業再開いたしますため、その間はご対応することができません。悪しからず。
 R.F. サン=ジュスト



長年屋敷の庭を任せていた庭師が隠居することになり、その後任を探してもらっていたが、どうやら見つかったとの知らせらしい。
添付ファイルにざっと目を通す。立派な経歴だった。この界隈の生まれだということにも親しみが湧いた。サン=ジュストのお眼鏡に叶ったということは、かなり有能な人物に違いなかったが、これから長く付き合うことになるかもしれないし、先代の主が大切にして来た庭園だから、実際に会ってから最終判断を下したいと思った。事務所が休みに入る前に、会っておこうと返信をクリックする。
――ふと人の気配がして顔を上げる。リビングの方に人影があった。未だ明けぬ夜にもその存在を打ち消されない、長く波打つ金の髪、そしてすらりと伸びた白い足……。
「……オスカル、脅かすなよ」
彼女はアンドレのシャツを寝巻がわりに一枚羽織っただけの姿で、そこに立っていた。アンドレは椅子から立ち上がる。
「そんな恰好でうろついていたら、風邪をひくぞ」
オスカルはアンドレの忠告など耳に入らなかったかのようにスタスタと近づいて来ると、横からPCの画面をのぞき込んだ。
「これは……?」
「サン=ジュストからのメールだ。庭師候補が見つかったらしくて……」
ふうんと、オスカルが軽くあごを上げた。機嫌が悪そうだ。
「……わたしより、こっちの用件の方が大事なのか……?」
なぜオスカルが拗ねているのか、アンドレは一瞬わからないでいたが、すぐに察した。自分の隣にいたはずの彼が夜中に起き出してPCに向かっているのだから、放置された気分になったのだろう。
「ばかだな」
誤解だ、その反対だよとアンドレは思った。彼女が悩ましすぎて、傍らから逃れたというのに。
少し、憎らしくなる。
アンドレは彼女を引き寄せ、有無をいわせず、その唇を奪った。最初はかすかな抵抗を見せていたオスカルだったが、すぐに大人しくなると彼の愛撫に身をまかせた。いつもよりずっと長く、あやすように彼女に口づけ、首筋までくちびるを滑らせると、彼女がかすかに喘いだ。
「これで、分かった?」
オスカルはアンドレの胸に甘えた子供のように顔をうずめた。
「おまえが、隣にいないのがいけない……」
彼女の体はほんのりと温かかった。
「ごめん、オスカル……」
彼女を抱きしめる。オスカルが彼の背に腕を回し、存在を確かめるようにそっと手を滑らせてきた。
そんな彼女の仕草に、昨夜からくすぶらせていた男の欲情が、抑えきれずにゆっくりと頭をもたげてくる。アンドレは彼女のシャツの裾からするりと手を忍ばせて、その肌に触れた。彼女の額に口づけを落とす。彼にすっかり体を預け、見上げるオスカルの瞳はねだるように潤んでいた。
アンドレはオスカルを横抱きにすると、さっきは戻らないと決めていた寝室へと向かった。
待ちきれないように、彼女の首筋に唇を何度も何度も押し当てながら――。

――夜明けまで、まだ長いから――……。


アンドレがゆっくりと目を開くと、鎧戸のわずかな隙間から光が差していた。光の角度から、もう太陽はだいぶ高く昇っているようだった。隣には、オスカルの白い肩があった。彼女はまだ、夢のつづき。
アンドレは、彼女を起こさないようにそっとベッドから抜け出して身支度を整えた。彼女が起きる前に朝食の準備を整えようとキッチンに向かおうとしたところ、外から子供たちが騒いでいる声が聞こえてきた。
「なんだよ、おまえ! 見慣れない奴!」
「さては、泥棒だな! あちこち庭を調べて、おかしいぞ」
その声でオスカルも目覚めて、眠い目をこすりながら、何があったかと尋ねてくる。
中庭の方からだ。何人かいるようだ。中庭が見える窓から見ると、同じアパルトマンに住んでいる子供たちが、背の高いアフリカ系と思しき男と対峙していた。青年は黒い髪をコーンロウに編み込み、ジーンズに紺色のダウンジャケットを羽織っている。屈強とまではいえないが、均整のとれた体つきをしている。
「やっちゃえ、アダム!」
子供たちがリーダー格の男の子を煽った。アダムは一歩前に出るとファイティング・ポーズを取り、自分よりずっと背の高い男を上目遣いで睨みつけた。

”――何かあってからでは遅い”
アンドレが思ったとほぼ同時に、オスカルもそう思ったのだろう。彼女は咄嗟に窓を開け、声をかけようとしたのだが、その白くまばゆいばかりの裸身は――なにしろ、昨夜の余韻のまま眠っていたのだから――……。
慌ててアンドレが押しとどめると、ようやく自身の姿に気がついたのか、オスカルは顔を赤らめた。
「気持ちはわかるが、服を着てからにしてくれ……おれの心臓が止まる」
アンドレは急いで身づくろいする彼女に先んじて、中庭につづく通路に出られる扉に向かった。二重の鍵を開けて飛び出し、走る。
中庭に出ると、同じように騒ぎを聞きつけた大人が数人駆け付けていた。アダムが男に向かってパンチを繰り出した。男は拳をかわすと、大きな掌をアダムの頭に押し付けた。勇敢にもパンチを繰り出しつづけるアダムだったが、小さな拳は空を切るばかりで、相手には一発も当たらない。
褐色の顔から白い歯がのぞく。男はうまくアダムをあしらいながら笑っている。人懐っこそうな笑顔だ。ジャケットの下から、とぼけた顔のサンタクロースが編み込まれた白いセーターがちらりと見えた。何か悪意をもってここにやって来たわけではなさそうだった。
「あらあら、まあ、ちょっと買い物に出ていた間に、大変なことになってしまって―…」
声のした方を見ると、通りから中庭への扉をくぐったところに、白髪の老女がいた。よくこの庭の手入れをしている女性で、アンドレが越してくる遥か前からいる住人だ。
「紹介してからにしなさいって言っておいたのに」老女が優しく諭すように言う。「いくら前の住人だったからって、いったいここを出てから何年たっていると思うの、ラウル」
「だって、超久しぶりの、この庭なんだ。待ちきれなくてさ、ローズおばあちゃん」
ラウルという名前を聞いて、集まって来た大人たちの何人かからざわめきが起こった。
「ラウルって、もしかして、あのラウル?」
長らく住んでいる住人たちの中にはピンと来た者がいたようだ。
「出ていった時は、アダムくらいのチビだったのに、まあ立派に大きくなったもんだよ」
ラウルの方も覚えていた顔があったらしい。
「やあ、マルタンさん、アデルおばさん、元気にしてた?」握手を交わし、互いの頬と頬をくっつけて挨拶をする。
今はどうしているのと尋ねられ、ラウルは「庭師をしてる」と答えた。「修行から戻って求職活動中さ。決まりそうなのもいくつか出てきてる、たとえばサン=ジェルマン=アン=レーのお屋敷とかさ」
「そういえば、引っ越す前は、よくローズさんを手伝ってたわね」アダムの母親であるアデルがそう言うと、ローズは自慢の孫を見るように目を細めた。
「ここが、おれの原点だからな!たくさん師匠についたけど、一番の師匠は誰が何と言おうと、ローズおばあちゃんさ」

「ラウル、ラウルって……、あれか?」
遅れて駆け付けたオスカルが後ろに立っていた。
夜明け前の液晶画面が脳裏に浮かぶ。
サン=ジュストから届いたファイルにあった名前は、ラウル・コルベールと云った。
サン=ジェルマン=アン=レー屋敷に求職していること、そして、この界隈の出身だということ――。
「合格……」オスカルが呟く。
「……だな」アンドレが頷いた。
二人は顔を見合わせて笑った。オスカルが一つ、くしゃみをする。急いで身支度を整えた彼女は軽装だった。羽織った薄いベージュのカーディカンの二の腕を抱き寒そうにしている。吐く息はかすかに白い。
「ショコラでも淹れよう」
オスカルの肩をアンドレは抱いた。
カップの中で冷めきってしまっているであろうカフェはシンクに流してしまって、新しく湯を沸かし、ショコラを淹れよう。いつもより少し甘めにして。
朝食を済ませたら、一旦消えた液晶画面を呼び戻し、早速、サン=ジュストに返信して、早急に合格通知を出してもらおう。他に取られてしまう前に。
”面接は無用、君のお眼鏡にかなったのだったら、会う必要もないだろう”とでも書いておけば、気をよくするに違いない。


彼女にショコラを淹れて差し出したとき、また、窓外から子供たちの大きな声が聞こえてきた。今度ははしゃいだ声だ。ラウルの声も聞こえる。
庭に咲いたクリスマスローズは、きっと、控えめにうつむきながら、彼らをそっと見守っていることだろう。



(了)