埋み火 1775  -1-



窓外に目をやると、いつの間にかとっぷりと日が暮れていた。宮殿の控えの間から見える庭園では、警備に当たっている衛兵の持つカンテラの灯が、遠くでちらちらと、隠れたりまた現れたりを繰り返している。

そばにいたオスカルが一つ身震いする。赤い軍服の金モールが揺れた。
寒いのかと尋ねると、「心配無用だ、アンドレ」と彼女はポーカーフェイスを崩さずに、そう言った。

「今年は冬の訪れが早いかもしれんな」
新国王の即位から4か月がたとうとしていた。19歳の王妃が最初に、フランス君主となった夫に願い出たのは、彼女がフランスに嫁いで来た時から、ずっと側近くに仕えて来た同い年の男装の近衛隊士の昇進だったという。

オスカルは大佐となり、近衛連隊長に就任して、白い軍服から赤い軍服へと着替えた。


「行くのか?」
そう、声をかけると、オスカルは黙って頷き、外した手袋を寄越して来た。
「両陛下主催の晩餐会だ。近衛連隊長としては欠席するわけにもゆくまい」
軽く首を振ると、黄金の髪がかすかに揺れて、シャンデリアの眩い輝きが毛先で踊った。
前国王の喪中の一年は、不要不急の派手な行事は控えられて来たが、新国王の戴冠式を無事に終えると、祝いのムードと喪中の反動も手伝って、宮殿でも、主だった貴族の館でも、連日連夜、きらびやかに装った貴族たちが集い、演奏会だ、夜会だと浮かれ騒いだ。

その中心でひときわ華やかに着飾り、率先して遊びに興じているのが、他ならぬ王妃その人だった。


オスカルの声は、いつもより不機嫌に聞こえた。緋色の近衛服は、普段なら彼女の白い肌を映えさせるのだが、今はかえって青白さを目立たせてしまっている。あまり体調がよくないようだ。
他の人間ならば気づかないような微妙な差だが、おれには分かる。自分のこと以上に。そんな風になったのは、いつの頃からだろう。
もう一声かけようとしたが、オスカルは既に背を向けて歩き出してしまっていて、それを呑み込む。彼女がこんな風に言葉少なに素っ気なく次の行動に移るのは、無理をしている証拠なのだが、ここから先は付いて行くわけにはいかなかった。
もどかしく思うが、見えない境界線が引かれていて、それを踏み越えることはできない。
彼女の従僕として、ある程度までは宮殿内の自由な出入りを許されていたが、さすがに国王や大貴族達と食卓を共にすることまで許されてはいなかった。力のある貴族にしか許されない特権。自分に出来ることといえば、晩餐の席に招待されなかった者達に交じり、彼女の様子を見守ることくらいだった。

「アンドレ・グランディエ亅
聞き覚えのある声に、背後から名前を呼ばれて振り返る。近衛隊の制服を着たその男に、ゆっくりと頭を下げた。
「連隊長は、もう晩餐会の席に?」
頭をわずかに垂れたまま、答える。
「はい、ジェロ一デル大尉」
ジェロ一デルは、ハシバミ色の目をかすかに伏せると、ため息をついてみせた。
「昨夜も王妃さまのお供をしてオペラ座に行かれたと仰っていた。昼間、軽く咳をしておられて、お疲れのご様子だったから、今夜はお帰りになられてはとお勧めしたのたが、聞き入れてはいただけなかったようだ」
独り言めいていたが、聞こえよがしにも響いた。ジェローデルは目を細め、極上の微笑を浮かベてみせる。
「だが、そんなところがあの方らしいと思わないか、アンドレ・グランディエ」
おれは言葉を発さず、ただできるだけ慇懃に頷いた。

オスカルが連隊長になるのと同時に、その副官となった、この男。
王妃は大切な友人の負担軽減のため、同時に副官の増員も国王に願い出ていた。国王は言われるままに人員配置を図った。その際に拝命を受けた一人が、彼だった。年若くて佐官ではないが裕福な名門貴族の次男坊で、切れ者だという話だ。オスカルも信頼を置いており、彼女の昇進が異例の大抜擢の上に、女性であることから反感を抱いている者が少なからずいる中で、自分の目から見ても、よく彼女を補佐してくれていると思えた。
彼はなぜか今日のように、妙に絡むような口調で、わざわざ向こうから声をかけて来ることが度々あった。他人の従僕など、彼ら大貴族にとっては無視するべき存在か、アクセサリーの一つくらいにしかすぎないはずなのに。
「席は近くに用意されているだろうから、連隊長のことは気をつけているよ」
安心したまえと、手袋をしたままの手を軽く上げ、男は大広間へと優雅な歩調で向かった。控えていた小姓が敬々しく扉を開ける。

「隣にいられなくとも、見守っています、オスカルを、ずっと」

背中に向けたおれの声が届いたのかどうか。ジェローデルの肩章がわずかに揺れたように見えたが、こちらを振り返ることはなく、その姿が室内に消えると、扉は静かに閉ざされた。


晩餐の席が見える位置には、国王の食卓を目にする栄誉に預かろうと、既に多くの人々が集まっていた。酒宴のテーブルでコンデ公が、若き国王と王妃の健康と幸福を祈って、ボヘミア風のグラスを掲げ、宴が始まった。列席した貴族達も唱和して杯を掲げる。オスカルは紅の液体を一気に煽っている。隣には先ほどの男がいた。

王の晩餐ともなれば、テーブルには贅を尽くした料理が並ぶ。
数種のオードブルにスープ、鳥や魚を丸ごと焼いて色とりどりの野菜を盛り付けてソースで飾りつけたもの、塔の形に積み上げられた砂糖菓子や精緻な飴細工など、周囲で見物している者の目も楽しませてくれる数々の餐膳。いかにも美味そうな匂いに生唾を飲み込みながら、次の一品には一体どんな趣向が凝らされているのだろうかと、皆が期待に胸を膨らませる。度数の高いアルコールを利用し、菓子に火がつく演出が行われると、思わず感嘆の声が漏れた。火はめらめらと燃えて、やがて静かに消えた。
「すごいですね、さすがはフランス王室の晩餐だ」
しばらく前から、おれのすぐ横に立っていた男が話しかけて来た。身なりはよかったが洗練されているとまでは言い難く、貴族ではなさそうだった。かと言って、自分と同じ貴族の使用人という風でもなかった。40歳前後だろうか。話し方は落ち着いていて、眼窩の奥の茶色い瞳と口許から、小才が利きそうな感じが伺えた。
「王の晩餐を見るのは初めてですか?」
「かなり前に一度拝見したことがありますが、その時は、今夜ほど派手な演出はありませんでしたね」
そう、ドイツ訛りのフランス語で答えた男は、オーベルカンプと名乗り、ベルサイユ近郊のジュイ=アン=ジョザス村からやって来たと自己紹介した。礼儀として名乗り返すと、「よく存じております、近衛連隊長の従者でいらっしゃる」とにこやかに笑った。男は自分の出自や、染色技術者としてフランスに裸一貫でやって来て、千人近くもの職人を抱える大工場を経営するまでに至ったことなどを、聞いてもいないのに、ペラペラと喋りつづけた。ちらちらとオスカルの様子を気にしながら、おれは半分上の空で相槌を打つ。
「これからも、まだまだ事業を広げるつもりですよ」
思わせぶりな瞬きをすると、男は鞄から布の見本帳を取り出した。そこには、綿織物のカットクロスがずらりと並んでいた。実に多彩な種類のデザインがプリントされている。エキゾチックな果物や花々や鳥たちの図案が色彩豊かに染めつけられているものもあれば、それとは一風変わった、もっと細かいエッチングのような線で描かれた単色のデザインもあった。そちらの方は神話や田園風景、ブランコで遊ぶ貴婦人などが緻密に描かれている。共通するのは、どれも理想の生活や夢を詰め込んだ、女性が好みそうな柄だということだった。
地方から出て来た成り上がり者が、聞く耳をもってくれそうな人間を物色して、自分の事業や業績の素晴らしさを誇張し自慢して語り聞かせることは、ベルサイユでは珍しいことではなかった。あわよくば知己を得て成功への足掛かりをつかもうというのだろうが、いちいちまともに相手をしていては身が持たない。
それよりも、オスカルのことが気になった。談笑してはいたが、食事はあまり進んでいないようだった。
礼を失しない程度に男の話を聞いた後で、おれは男の傍を離れ、もっとよくオスカルの様子が見える場所に移動した。
その時点で既に、その男のことはほとんど意識から消え去っていて、数日後に祖母のロからオーベルカンプの名が出て来るまでは、すっかり忘れていたほどだった。



(つづく)





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