Winter Solstice 2 



フランスの誇るルーブル美術館の収蔵品は膨大だが、ロンドンのナショナル・ギャラリーの展示品も、じっくり見ようとすれば、とても一日で見切れる量ではない。館内には、13世紀から20世紀までの名画が所狭しと並べられている。
トラファルガー広場に面するメイン・エントランスを入り、ドーム型のガラス天井から光が降りそそぐ階段を昇る。二人共それぞれ、何度か来たことがあったから、一つ一つの絵まで覚えていなくても、だいたいの館内構造と配置は分かっていた。セントラル・ホールからつづくルネッサンスの画家たちの名画には失礼だが、その前は一瞥しただけで通り過ぎ、今日はセインズベリ・ウィングに展示されている15世紀以前の絵画を見に行くことにした。この時代の絵画は、圧倒的に宗教画が多い。ノエル間近の今は、そんな空間に包まれてみたくなった。
キリスト教を主題とした作品群は、同じような場面が並んでいる上、デッサンが狂っていたり、平面的で写実性には難ありの絵も多いが、描いた者の祈りが今でも聞こえて来るようだ。
聖母子や聖人、天使。衣の赤と青。ふんだんに使われた金の色。神を感じ、悲しみも喜びもないまぜになった恍惚とした微笑を浮かべる人々。真摯なまなざしで聖書に見入る顔。
大天使ミカエルが悪魔を踏みつけている1枚があった。全身を黒い毛で覆われた悪魔は、黄色いギョロ目をカッと見開き、尖った歯をむき出しにして、天使の足下から逃れようと喚き暴れている。キーキーという耳障りな声が聞こえてきそうだ。反して大天使は、涼しげな顔をして悪魔を見下ろし、今まさに剣を振り下ろそうとしていた。その圧倒的な力の差を思うと、少し悪魔が哀れにも思えてくる。
二人の後ろを通りがかった人のよさそうな老女が、「この大天使様、あなたに似ていますね」と、悪びれることなく、にこにこ笑いながら離れて行った。
オスカルは「わたしは……こんなにおっかないか?」と、不本意な顔をする。
そういう意味で言ったのではないと思うが、アンドレが苦笑すると、オスカルの矛先は彼へと向かい、とばっちりで必死に彼女を宥めなければならなくなった。
「いや、その……面差しとかかな。それから、職務に忠実なところとかが、ほら、この絵には表れているようで――」
その日は、ギャラリーの他のエリアまで回る暇はなかったから、中世の絵画に囲まれて、約束の時間まで、ゆっくりと過ごせばいいと思っていたつもりだったが、中途半端に時間が余ってしまった。
あと2時間。

トラファルガー広場に向かって階段を下りると、何かのフライヤーを配っている男性がふと目に入り、声をかけてみる。男性はセント・マーティン・イン・ザ・フィールズのコンサートの呼び込みをしていた。広場のすぐ横、一本通りを隔てたところに建つ教会だ。
まもなく開演とのことだった。今日の目的にも少し関連があって、興味を引かれる。オスカルがアンドレの顔を見ると、彼は軽く頷いたので、二人は車の流れが途絶えたところで通りを渡り、教会の入り口をくぐった。
内部は教会らしからぬ、どこか貴族の館のサロンを思わせる内装で、白い壁や天井には金で繊細な装飾が施されており、シャンデリアの光を受けてまばゆく輝いている。教会自体は13世紀からそこにあったというが、18世紀初めに改築されたというから、当時の流行りを取り入れたためかもしれない。祭壇の後ろ、普通ならばキリストや聖人のステンドグラスがあると予想される場所には、一風変わったモダンなデザインの窓があった。イラン出身のデザイナーの手によるものだというその窓は、白い格子状の模様が立体的に奇妙に歪み、歪みの中心が光を集めて卵型に光っている。ふと見上げると、天井には、イギリス王家の紋章がくっきりと浮かび上がっていた。現在の宗派は英国国教会なのだから、不思議ではないのだが、どうもフランスから来た身には、少し違和感がある。
聖堂内は、ミサに参列する信者の代わりに、今はコンサートを聞きに集まった聴衆でおおよそ満員で、地下鉄の時と同様、家族連れが多かった。それもそのはず、この時間はファミリー向けのコンサートが催されるからで、教会付きの楽隊の伴奏でコーラス隊がキャロルを歌う構成になっていた。教会内部は、そこかしこにキャンドルが灯され、クリスマスの弾けた明るさとはまた異なった、アドベント期間の厳かな雰囲気をかもしだしている。最も暗い時期を光の訪れを信じて、ひたすら待つ日々。
祭壇の前に楽団が並ぶと、ゆらゆらと揺らぐ明りの中で、まもなく演奏が始まった。指揮者がタクトを振り上げる。
コンサートは、ヘンデル作曲「メサイア」、第一部の冒頭“シンフォニー”の演奏から始まった。ヘンデルは故国ドイツよりもイギリスでの活動期間の方が長く、イギリスでは自国の作曲家として親しまれている。オスカルは弦楽器の奏でる音色と、奏者の手元を熱心に見入った。アンドレは彼女の横顔をちらりと見る。
つづいて、打楽器奏者がおもむろに取り出した鈴の音から始まる“ジングル・ベル”でコーラスが入ると、ヨーロッパではよく知られたキャロルが次々に歌われた。独唱や合唱のほか、時には観客も一緒に歌うよう促されて、子供も大人も伴奏に合わせて歌う。二人の口からも知らず知らずのうちに、メロディがこぼれ出る。
ミニ・コンサートは約1時間ほどで終わり、再び「メサイア」より選ばれた楽曲で締めくくられた。“ハレルヤ”の大合唱で幕を下ろす。第2部最終曲である。

「少し、喉が渇いたな」
終演後、残りは約1時間。もうホテルに戻ってもよかったが、アンドレも小腹がすいたと言うので、辺りを見回す。教会地下にカフェテリアがあることを思い出し、立ち寄ることにした。名前は、カフェ・クリプトという。いよいよ結果を聞く段になると、多少緊張もして来る。その前に気分を落ち着かせて、腹ごしらえだ。
カフェテリアのある階には、教会で催されるコンサートのチケットを売るブースや、キリスト教関連のグッズほか、観光客向けのイギリス土産を扱う売店も併設されていた。
カフェテリアを訪れた二人は、それぞれに飲み物と温かいスープとパンのセットを注文すると、受け取った料理をトレイに載せて、積み重なったレンガが形作るアーチの間を席を探して歩く。床は不揃いな形の石が組まれて作られており、成形された大きな石版もたくさんあった。それには墓碑銘が刻んである。簡素なテーブルと椅子が置かれ、そこそこ流行っているその食堂は、 “クリプト”という店名が示すとおり、かつての墓地兼、地下礼拝堂を改装して作ったものだった。足下で眠っている人々は、教会の下で静かに眠れると信じて疑わずに墓に入っただろうに、遠い未来で、自分たちの墓石の上で食事を楽しむ人がいるだろうなどとは夢にも思わないまま、最後の審判が下るその日まで、安らかに眠りつづけるのだろう。
席につくと、二人は向かい合って、まずは無言のままスープを口に運び、パンを流し込んだ。
「味は、まあまあだな」
「ああ」
他愛ない会話を交わしたが、いつもより二人共、言葉少なだった。
遠くパレスチナでの物語が、ドイツ生まれの作曲家によって音楽として紡がれ、現代のイギリスで奏でられた。
13世紀にはカソリックだったこの教会の宗派が英国国教会へと変わり、地下墓地はカフェテリアに変わった。教会を建てた人々はもうこの世にはいないが、今なお、教会には多くの人が訪れる。時代の移ろいを受け入れて様変わりしながら、生きつづけるもの。
では、”あれ”は。
あれは、どんな歴史を背負っているのか。それともいないのか。
そろそろ約束の時間だ。
席を立つ。

教会を出て裏側の路地に一歩入ると、あの奇妙に歪んだ窓からもれる明りが、ようやく届くか届かないかの場所で、数人のホームレスがたむろしていた。小さな飲食店脇の排気口付近に集まり、暖を取っている。生気のない顔で、何かを呟く人の傍で、大声で陽気に喚きあっている者が数人いる。別の一人は寝袋にくるまって、通りに背を向けて横たわっている。アンモニア臭に、すえたアルコール臭が混ざったものが鼻を突く。歩みを思わず止めたオスカルが思う。どこかで、こんな貧しさを目の当たりにし、愕然とした自分がいなかったか。あれは、野菜くずの浮いた一杯のスープと、売り払われた軍の支給品。問い詰められた兵士達の叫び。
外はさらに寒さが増していた。思わず身震いし、体を縮めたオスカルの首筋にふわりと温かな感触が訪れる。見上げるとアンドレが微笑みながら、自分のマフラーを彼女の首にそっとかけてくれていた。
「武者震いか?」
彼女の心情など百も承知で、アンドレがからかう。
「そんなわけがあるか。結果はわたしが言った通りに決まっている。行くぞ!」
おかげですっかり調子を取り戻したオスカルが大股で足早に歩き出す。アンドレは彼女を追う。
大通りに出ると、変わらず、華やかな賑わいが、そこにあった。
天と地の差のその光景は、大都会では表裏一体だ。今も昔も。
ふたたび、リッツへと足を向けた。

今日3度目の回転ドアを通った。4階部分まで吹き抜けのホールには、大きなクリスマス・ツリーが飾られて、金のリボンやクリスマスのプレゼントを模したオーナメントで煌びやかに彩られている。ホテル内のレストランで演奏されているピアノの音がかすかに聞こえる中、二人はまっすぐ先ほどの部屋へと向かう。
エレベーターを降り、数時間前に訪れたドアをノックすると、すぐに扉は開いて二人は招き入れられた。先ほどと同じ、淡い落ち着いたグリーンのソファにかけるよう言われて腰かける。何もかも最初の訪問と同じだったが、違っていたのは、相手の態度が多少興奮気味だったことだ。
50がらみの男性は、18世紀風の肘掛け椅子に一度座りかけて、立ち上がって座り直した。上質なカシミアのセーターに、仕立てのよいツイードのパンツをはいた彼は、19世紀後半から20世紀初頭を舞台とした映画から抜け出て来たかのような、いかにもイギリス紳士然とした雰囲気をもっている。それもそのはず、彼の経歴が、いかに彼が形作られたのかを物語っている。ウェストミンスター・スクールに通う10代の頃から音楽に深い関心を寄せていた彼は、オックスフォード大学で音楽学や作曲、音楽心理学、演奏研究、音楽美学などを修め、博士号取得後、やがて批評や楽器鑑定で名を成すようになった。
時には、自ら美しい楽の音を求め、時には請われて世界中を旅する彼は、オスカルの勤務する航空会社の常連であり、彼女が機長を務めるフライトも何度となく利用している。機内には、一流の演奏家の手によるクラシック音楽を流すのが常だ。
数時間前、紳士らしく、突然の彼女の来訪も歓迎した彼は、しかしその理由を知ると、顔にちょっとした嘲りの表情を浮かべた。アンドレはそれを見逃さず、胸をざわつかせる。しかし、それはすぐに杞憂だと分かった。ケースから取り出した現物を手に取った瞬間、険しい顔になった彼は、頭頂のスクロールからエンド・ピンまでの全体を何度か眺めた後、眼鏡をかけて、あらためて、女性のゆるやかな曲線美を思わせるボディをなめるように慎重に品定めした。F字孔を丹念に調べて指で触れ、胴を裏返してみる。その時には、ほぼ結論が出ていた。

ソファの二人と鑑定士は、ローテーブルを挟んで差し向かいに座っている。
「ミズ・ジャルジェ、さきほど、貴女がこれを見せて下さったときから、ほぼ間違いないとは感じていましたが――」
鑑定士はオスカルの顔を見ながら、眼鏡の位置を直した。言葉を接ぐ。
「――猶予を願った間、データ・ベースや事務所からファックスしてもらった資料を見て、確信を得ました」
鑑定士は膝の上で組んだ手に力を込めた。大きく深呼吸を一つ。つられてアンドレは息を飲む。
二人の目の前の相手は驚きを隠せない声で、はっきりと告げた。

「ストラディバリウスに、間違いない」
彼は、きれいになでつけられた頭から、前髪が一筋、はらりと落ちたのをかき上げた。

“ほら、言った通りだろう!”
言葉には出さなかったが、オスカルが勝ち誇った顔でアンドレを見やる。アンドレは黙って肩をすくめるしかなかった。完敗だ。
眼前のテーブルに三人の視線が集まる。そこには、バイオリンが一挺。
二人がパリから、正確にはサン=ジェルマン=アン=レーの旧ボレツキイ邸から持って来たものだ。初めて館を訪れ、アンドレが相続を決めた時に、館内をチェックしていたオスカルが見つけたもの。
その折、初めて弾いてみた時、オスカルには心に引っかかるものがあった。自分が出せる以上の音色が出る。かつて、バイオリンのレッスンや演奏会で、プロが所有するレベルの楽器を奏でたことはあったが、その比ではない。何かが違う。
これまでにストラディバリウスを用いた演奏を何度も聴いたことがあったし、間近で見せてもらったこともあった。しかし、何か普通ではないものを感じながらも、しばらくはそれと結びつかなかった。自分の感じているものが何であるのか、ピントが合わずに、ずっとぼやけていた。それが、今朝、サン=ジェルマン=アン=レーのあの屋敷で、アンドレの腕の中、ぬくもりにまどろんでいると、記憶に残っていたバイオリンの音色や形状の断片が組み合わさって。
一つの名前となった。
そうだ、この音色を出せるのは、あのバイオリンに違いないと。
慌てて、それでも彼を起こさないように、そっとベッドを抜け出す。ミュージックホールの造り付けのキャビネットからバイオリンを引っ張り出すと、もう一度、丁寧に音を引き出してみる。間違いない。もし、そうでなかったとしても、少なくとも、かなり古いもので、名人の手による作品に違いない。
彼を叩き起こした。
現在、確認されているストラディバリ製作のバイオリンは、400〜500挺と言われている。
世界にそれだけあるといえば、それほど希少とはいえないかもしれないが、鑑定士によれば、彼の母校、オックスフォードにあるアシュモレアン博物館で展示されているストラディヴァリウスに特徴が非常によく似ているという。その頃の作品だとすれば、作者の絶頂期の作品となる。なのに、現在は知られていない一挺だとしたら……。

しばらくして、二人が暇乞いをして立ち上がると、鑑定士はドアのところまで二人を見送った。
今はこのバイオリンを返すが、ぜひ休暇が終わったら自分に預けて詳しいことを調べさせてもらいたいという。休暇中は、隠居した両親が暮らすマナーハウスでクリスマスを過ごし、それから、南欧から東欧を旅する予定なのだそうだ。一も二もなく彼の願いを了承する。それは、こちらとしても願ってもないことだ。本体を精査するだけでなく、追える限り、残っている、このバイオリンに関する記録も遡りたいという。
18世紀にイタリアで作られたバイオリンが、いったい誰の手を経て、どのようないきさつで白系ロシア人の手に渡り、はるばる現代のパリまでやって来たのか。知りたくなるのは人情だ。何となく、こうなることを見越して、あの老人は旅立って行ったような気がするが、謎かけならば、受けて立とう。見事、解いてみせよう。オスカルの瞳がまた好奇心で不敵に輝く。アンドレは彼女の気配を感じて、また何か企んでいそうで当惑したが、彼女が楽しそうならばいいかと、一つ息をついて苦笑いを浮かべる。


二人が鑑定家の部屋を辞して、静かにドアを閉めようとした時、中から鼻歌が聞こえた。曲は、さきほど聴いた“メサイア”だ。顔を見合わせた二人の耳に、聖堂で聴いたばかりの五弦の調べと奏者のボーイングが鮮やかに蘇る。


アシュモレアン博物館に展示されているストラディバリウスの渾名は、“メサイア”という。



「何だか、とんでもないものを相続してしまったみたいだ」
廊下に出るなり、アンドレがぼやいた。右手に持ったバイオリンが、鑑定後はずっしりと重い。落とさないよう自然と指に力が入る。
館を丸ごとくれると聞いた時も面食らったが、その中に、その館がもう一件買えるくらいの価値があるかもしれない一品が仕込まれていたとは。今後、まだまだ何か出て来そうで、怖くなる。老哲学者は何を思って、こんな仕掛けを残したのだろう。もうこれ以上何もないですよねと天井を見上げた。オスカルが楽しそうなのが救いだが、先が思いやられる。
「今さら何を言っている。覚悟の上だろう」
オスカルがアンドレの背中をバンと叩いた。いてっとわざと声を出して大げさに痛がってみて、弾みでバイオリン・ケースを取り落しそうになった。アンドレは慌てて胸に抱え直す。
とりあえず、この件に関しては悩まないことに決めた。なるようになるさ。それよりも。
「さて、これからどうする?」
アンドレがオスカルに尋ねた。時刻はまもなく19時。帰りの切符は買っていないが、まだまだ今日のうちにパリに帰れる時間だ。
「……さあ……どうしようかな……」
オスカルが数歩後ずさって、壁に背を預けた。
廊下はたまたま人気がなく、二人きりだった。アンドレの気持ちを探るように、いたずらな目をしている彼女だが、彼女自身も、どうしたものか決めかねている。帰るのか、帰らないのか。
誘うような彼女の青い瞳に吸い寄せられて、アンドレが彼女に近づく。空いてる左手を壁につき、首をかしげて彼女を見下ろす。視線を合わせたままで顔を近づける。
すると、ふいにするりと彼女は身をかわして彼の腕の中から逃げ出した。なぜか、少し顔をしかめている。
「おまえは、どうしたいのだ、アンドレ?」
アンドレは、彼を交わした動きの滑らかさと鮮やかさに毒気を抜かれ、拍子抜けして彼女を見つめた。
「おれは別に。おまえがしたいようにしてくれれば」
アンドレはため息をつく。彼女は誰も捕まえられない自由な蝶のようだ。ふたたび手を伸ばしてみたが、するりとかわされる。アンドレは魅せられた者の常で、彼女から目を離せない。少しの間の後、彼女はこう言ったが、その顔は少し哀しそうにも見えた。
「――もう一度、賭けをしてみようか、アンドレ」
部屋があれば泊まる、なければ帰る。
二人共、何度もロンドンを訪れたことはあったが、二人で来たのは初めてだった。
アンドレは微笑んで目を伏せた。一も二もなく、エントランスホールにいるコンシェルジュに相談に行く。その背中をオスカルは見送った。
「オスカル、あったぞ」
アンドレが息を弾ませて戻って来た。早速、チェックインを済ませて指定された部屋に入った。鑑定士の宿泊している部屋より小ぶりで、内装の趣が異なっていたが、豪華ななかに統一感があって趣味のよいところは変わりなく、上質なリネンや、キングサイズのベッドのほか、文机や椅子に小テーブル、クローゼットなど一通りのものが揃っていた。マントルピースの上には、季節がらポインセチアの鉢植えが置かれている。陶器のその白い鉢にはホテルの頭文字の青いロゴタイプ。
全体の印象として、どこかフランスのロココ調を感じる。バンケット・ルームにかの王妃の名を冠するものがあるくらいだから、あながちその感覚は間違いではないだろう。
やがて、アンドレがチェックインの際にあらかじめ頼んでおいたシャンパンが運ばれて来た。彼女の大勝利を祝わなければ。すぐに栓を抜いて、切子のワイングラスにそそいだ。
「今日の賭けの結果はどちらも上々だったな。この勢いでカジノにでも繰り出すか!」
アンドレが軽口を叩きながら、彼女にグラスを差し出すと、小花が織り込まれたベッドカバーの上に腰かけていたオスカルは、ついと顔をそらし、グラスを無視して、そのまま後ろに倒れ込んだ。
「行きたいのなら、一人で行けばよい」
「どうした、疲れたのか……?」
アンドレはグラスを置き、彼女のそばに横たわると、彼女の横顔を眺める。額に触れたが熱はないようだ。今日は冷えたし、朝からの小旅行だ。一件落着して部屋に落ち着いて、今まで感じなかった疲労感が一気に押し寄せたのかもしれない。彼女の閉じられた目蓋を縁どる夜の色をした長い睫毛がわずかに神経質に震えていた。額から鼻筋、そして唇へと連なる類まれにバランスの取れた隆起。そっと手を伸ばすと、オスカルは急に目を開けて、アンドレは触れる寸前で手を止める。
「すまなかったな」
「え?」
いきなり謝られて、アンドレは何のことやら分からなかった。オスカルは天井を見据えたまま言った。
「今日は振り回してしまって」
「どうした、急に?」
彼女はアンドレに背を向けた。
「いいんだぞ、無理につき合ってくれなくても」
「おれは別に」
彼女がアンドレの方に向き直る。
「だっておまえ、今日はため息ばかりだ。わたしが数えただけでも3回。ロンドンくらい一人で来られるし、帰りたければ帰ったっていい。最初からあまり乗り気ではなかったのは感じていた。嫌なことははっきり言ってくれ。おまえが自分の意見を言って、それを押し通したくらいで、嫌いになるほどわたしは狭量ではないぞ」
彼女の目は真剣だった。アンドレは当惑した目でそれを見返していたが、ふっと目を伏せる。
「…………あきれてるだけさ――」
アンドレにそう言われ、オスカルの顔に動揺が浮かんだ。思ってもみなかったことで親に叱られた子供のように、不安と幾分かの不満が入り混じっている。
アンドレがまた、もう一つため息をついてみせた。
「――自分自身にだよ。おまえが幸せならば、おれも幸せだっていう自分に」
オスカルが目を見開く。
「それに……」
彼は彼女の上に覆いかぶさった。反射的にもがいたオスカルの両手首をしっかりと押さえつけ、抵抗できなくしてしまう。男の力でベッドに押し付けられて、オスカルは身動きが取れない。もちろん、逃げることもできない。もっとも彼女の方も、本気で抵抗する気はないのだが。
「おまえが一人で行くと言った方が、おれは首を縦に振れなかった」
彼は彼女をベッドに押さえつけたまま、くちづけた。
強引で少し乱暴なくせに、あたたかい。唇からは彼の優しさが沁み込んで来る。
わがまま勝手も、いつも彼を待たせてばかりいることも、全て受け入られて――。何もかも委ねてしまいたくなる……。
彼女は彼を受け入れて、静かに目を閉じ、ただ彼を感じた。
いつも、こうやって。
あやされて、うやむやになって。

彼のひとしきりの熱く激しい口づけを受けた後で、オスカルは自分を見下ろしている彼に向かって、呟いた。
「いつも、いつもいつも……そうやってわたしを甘やかすから、増長するんだぞ」
言葉は横柄だが、彼女の声は小さく覇気がなかった。
ベッドの上に豊かな金の髪が広がっている。彼は濡れた黒い瞳で、彼女の青い瞳を射ぬく。
「いいさ、おまえが自由であればあるほど、傍にいるおれは、幸せになれるのだから」
彼は彼女の耳元に顔を寄せると囁いた。
上を見据えた青い瞳が潤んでゆらめいた。

彼女がこの自分の腕の中にいることを選んで、ここにいること。それ以外に、望みは何もないと。



重なった二人の影。レースのカーテンの向こうで街灯が揺れる。くちづけのあと、彼の求めは首筋から胸元へと下りていった。
「ん……っ、あっ……」
かすかに聞えていたはずの街の喧騒が、次第に聞こえなくなっていく。聞こえるのは、衣擦れの音と互いの息遣いだけ。

ソファの上には、黒皮のケースに収められたバイオリンが一挺、無造作に置かれている。


「アンドレ、バイオリン……」
「いいさ、誰も来やしない。今は放っておけ」





くちづけから始まる、一年で一番長い夜。



(了)



← 前編