Sa Vie ... La premiere moitie |
白々とした曙光が、窓を覆った厚地のカーテンの隙間をぬい、寝台の天蓋布さえすり抜けて彼女に届いた。 夏の夜は短く、儚く、そして、はがゆい。 長く豊かな睫毛が震えて、ゆっくりと目蓋が開く。かすかな光でも、オスカルの浅い眠りを妨げるには十分だった。現れた青い瞳は揺れていた。 目覚めるまで、彼女は夢を見ていた。 心地よくて、とても幸せな風景だった。目覚めを合図に、それは一瞬のうちに雲散霧消し、どんな展開で、どこに行ったのか全て忘れてしまったのだが、幸福な感覚だけは残された。それから、たった一つだけ覚えていたことがあった。誰が自分の傍にいたのか。 しばし、見慣れた寝台の天井と天蓋布の精緻な刺繍をぼんやりと見つめていた彼女の目から、涙がひとしずく頬を伝った。 彼女自身が驚いて、白い指で慌ててそれを拭った。 なぜ、泣くことがあると自問したが、はっきりとした答えは見つからない。理由はいくつか、思い当たることは思い当たる。日々の過酷な任務で疲れ切った体、日に日に切迫していくパリの情勢。今日は明日の出動のため、二個中隊を選ばなければならない……。 だが、弱音くらいは吐いたとしても、そんなことで、こんな風に涙を流したりはしない。 多分、そうした現実と引き比べて、今まで見ていた夢が鮮やかで幸せすぎたせいだ。明け方の薄暗い中のせいか、目覚めた後の現実の方が、ずっと寒々しく色のない世界に見えた。 じっと寝台に身を横たえていると、屋敷の一日が始まり出した気配がした。主一家が目覚める前に、万全の支度を整えておかなければならない使用人たちの朝は早い。だが、彼女がいつも起床する時間までにはずいぶんあった。毎朝、自分を起こしてくれる侍女が来るのはしばらく先だ。昨夜は突然の命令を受けて、今日の準備を整えなければならず、就寝したのはずいぶん遅い刻限だった。だから、もう少しだけ――。 そう心の中で自分に言い訳すると、彼女は再び目を閉じてみた。 だが、もう眠りも、幸せだった夢も、二度とは戻って来なかった。目を閉じても頭は冴えるばかりだ。 オスカルは覚悟を決めて身を起こした。体が熱っぽく重たい。倦怠感の中に頭痛と軽い吐き気を覚えて、またベッドに倒れ込みそうになった。気力を振り絞り何とか持ちこたえると、額を指の腹で押さえつける。 「しっかりしろ……!オスカル」 今日はいつも以上にしなければならないことがたくさんある。 7月12日。夜は明けてしまった。 軽いノックの後で、湯の入った水差しを手にした侍女が、オスカルの部屋に入って来た。オスカルがほぼ身支度を整え終わって、ドレッサーの前に立っているのを目にすると、少し驚いた顔をしたが、一度水差しを置き、半分開いていたカーテンを全開にして黄色い絹糸で編まれたタッセルで留めると、いつものように、陶器のボウルに湯を注いだ。 「何か、お手伝いすることはございますか」 「いや、今日はいい」 そう、きっぱりと断りながら、鏡の中の彼女は手首のボタンを留めるのに難儀しているようだった。 侍女は彼女の後姿をもの問いたげに、しばらく見つめた後で、声を絞り出した。 「あの……オスカルさま」 「ん?」 鏡越しに目が合った。しばし見つめ合った後で、侍女の方が先に目を逸らした。この侍女がオスカル付きになって何年がたつか。彼女がジャルジェ家にやって来たのは、そろそろ30に手が届くという頃だった。オスカルより何歳か年上で、前の奉公先で面倒を起こして解雇されたと噂されていたが、仕事ぶりは堅実かつ誠実で、主の気持ちを汲み取って言われなくても身の回りを整えるような気働きもできたから、オスカルは彼女のことがとても気に入っていたし、前歴も問題にしていなかった。落ち着いた印象を与える濃いブルネットの髪の下の瞳は、どこか憂いを帯びた灰褐色をしている。 「……不躾ながら申し上げます。どうぞ、今日は早めにお帰りになって下さいまし。お疲れが溜まっていらっしゃるようにお見受けされますし、明日は――」 鏡の中のオスカルの目が見開かれた。昨夜、父と母には自分の口から報告したが、もう、彼女が指揮を執るフランス衛兵隊に出動命令が下されたことは、屋敷中に知れ渡っているらしい。オスカルは軽くため息をついた。それでは、既にばあやの耳にも入っていることだろう。 彼女は侍女の気持ちを和らげようと、「ああ、約束するよ」と穏やかに答えて、小さく微笑んだ。 オスカルが衛兵隊連隊本部に到着した時には、全ての将校が会議室に集合していた。普段なら、召集をかけても遅刻しがちな第一中隊長も、この日ばかりは遅れるわけにいかないと感じたのか、しかめ面して着席している。会議室の大テーブルを囲んでいる面々を見渡して、彼女は昨夜、出した指示通りにアンドレが速やかに連絡を取ってくれたことに心の中で感謝した。オスカルが切り出す。 「概要はもう耳に入っていることと思うが―…」 ベルサイユに駐屯していた衛兵隊にも出動命令が下され、これから選ぶ2個中隊は明日の朝、パリに向けて出発することになると、あらためて彼女の口から部下たちに伝える。 「ですが隊長、パリには十分すぎるほどの軍隊が既に」 それまで押し黙っていた将校達の中から、第一中隊長がはじかれたように立ち上って発言した。肥満した体から出る声は、年の割にしゃがれていた。 確かに、パリは王家の軍隊で溢れかえっている。ロワイヤル・クラバート連隊、サリス・サマード連隊、ロワイヤル・アルマン連隊、ドイツ人竜騎兵隊……。名前を挙げるだけで、その夥しい数が想像できるほどだ。 「……念には念を入れて――ということだろう」抑止力としては、圧倒的な数が物をいうのは間違いなかった。「それとも命令を撤回していただくよう、国王陛下に上奏してみるかね、大尉?」彼女は口の端に皮肉っぽい笑みを浮かべた。 中隊長は意気阻喪して、無言で着席する。勢いよく腰を下ろしたでっぷりとした体の重みに、木製の椅子は悲鳴を上げる。自らそのような行動に出る度胸は、この男にはなかった。 オスカルにも、「衛兵隊まで出動する必要があるのか」という疑念が湧かないわけではなかった。圧倒的な軍勢があっても、統制が取れていなければ、かえって数の多さゆえに足並みを乱し、相手に勝機を与えかねない危険性をはらむ。だが、国王や大臣が決定を下したものに対し、さしたる理由もなく反意を示すことは軍人として到底できるものではない。上命下服、本来、軍人とはそういうものであるし、軍隊とはそういう所だ。オスカルが武力で平民議員を議場から排除せよという命令に背いて処分を免れたのは異例中の異例で、いくら王妃の恩寵が厚い身とはいえ、次はないだろう。 それ以上、命令に対する議論は起こらず、会議の本題である2個中隊選びは、わりあいとすんなり終わった。訓練の具合や全体の戦闘力から判断して、第一・第二中隊を派遣することに異論を唱える者はいなかったからだ。 二人の中隊長に明日の朝に備えての指示を出してから解散を告げて、オスカルは会議室を出た。大理石の床と柱に規則正しい軍靴の音が響く。それを乱すように慌てた足音が二つ。二人の将校が彼女の後を慌てて追いかけて来ていた。第一・第二中隊長だ。 オスカルが振り返ると、男達の顔は青ざめていた。小男の第二中隊長が口を切る。 「すみません、隊長。こんなことをいちいち訊くのはどうかとは思われますが、兵士達に出動を告げて、もし……もしも……ですよ、叛乱でも起きたら――」 どうしたらいいのでしょうと、すがるように尋ねる声は上ずっていた。 第一中隊長は相変わらず憮然とした顔をしていたが、同じ不安を抱いている様子だった。 衛兵隊士の大半は平民だ。しかし、今のところ様子見している者が大半で、大規模な反乱や謀反は起きていないが、自分の家族を含めた平民に銃を向けるとなれば、離反する者が大勢出て来てもおかしくはない。特に第二中隊は、ブイエ将軍に歯向かったアラン達の班も所属しており、その懸念はいわれがないものでもなかった。 オスカルは冷めた目で二人を見つめたが、ふいに可笑しくなった。ずっと感じていた貴族の堕落と脆弱さ。それを、このタイミングで目の当たりにするとは。 この二人を筆頭に、衛兵隊の将校達の大半が、国を王家を守護するという使命も意気込みも、軍人としての矜持も持ち合わせていないのは、ここに転任して来てすぐに分かった。オスカルが隊長に就任した頃、軍紀の乱れに唖然としたのを覚えているが、性根が腐敗しきった将校達の下、それまで、まともな訓練すら行われず、軍人としての心得も説かれて来なかったことを思えば無理からぬことと思え、兵士達が気の毒にすら思えたものだ。 目の前にいる第一中隊長なぞは、貴族の次男か三男坊で、もともとは聖職者になろうとしていたが、素行が悪くて神学校を追い出され、金とコネで何とか軍籍を得て体裁を整えている男だ。当初は近衛隊に配属を希望していたが叶わず、渋々、衛兵隊に籍を置いている。ローアン家くらい財力があれば、高位の聖職でも軍隊での地位でも買えたのだろうが、そこまで力のない中堅貴族の出だ。この男は、ただでさえ女の上司など気にくわないところに加え、わざわざ自分が熱望して叶わなかった近衛隊から転属して来たオスカルを腹の底から面白く思っていなかった。第二中隊長も似たようなもので、紆余曲折あって衛兵隊に行きついた口で、年はダグー大佐と同じくらいだが、未だに大尉止まりの男だ。 普段は権力の上に胡坐をかいて偉そうにふんぞり返り、自分は貴族だと兵士達を見下しているくせに、いざとなったら、この体たらく。 パリで、ばらまかれていた風刺画を見たことがある。疲れ切って老けた平民の背に、着飾った貴族と聖職者が馬乗りになって重くのしかかっていた。あの構図、そのままだ。 ――それに比べて、民衆が願い求めている自由や平等の理想は、なんと崇高で熱いことか。 黒い騎士と呼ばれ、貴族から金品を奪っていたベルナール・シャトレを捕らえて匿ったことをきっかけに、彼女の前に開けた世界。モンテスキュー、ヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソーらが説いた、今はまだこの世に顕現していない、その世界。 オスカルは目を伏せ口を歪ませて笑った。 自分は、その貴族に属しているではないかと思うと、自嘲するしかない。 彼女が何も言わないので、男たちの顔に焦りの色が浮かび始める。やはり、当然のこととはいえ、自分達で何とかしなければならないのかと狼狽し始めた時、彼女がようやく口を開いた。 「兵士達にはわたしから話をしよう。それに――明日の指揮も、わたし自ら直接、執る」 兵士達に絶大な人気のある彼女から、何かアドバイスか助力でも引き出されば御の字と目論んでいた二人は、想定を超えた返事にきょとんとして顔を見合わせた。連隊長である彼女が二個中隊風情を率いる義務はない。わざわざ戦闘が起こってもおかしくない場所へ、いつ離反してもおかしくない部下たちを統率する困難な役目を買って出て赴く。こんな厄介事を自ら引き受けるとは、この女は頭がどうかしてしまったのだろうか。 彼女がそう決めたのは、今になってではなかった。命令を聞いた瞬間からだった。無能な統率者に率いられた軍隊ほど惨めな戦果に終わるものはない。こんな奴らに大事な兵士達を任せるには忍びないし、兵士達を危険なパリに送り出して自分はベルサイユで安穏としていられるわけがない。ただ一点、迷いはあったが……。 二人はもちろん、彼女の提案を即座に受け入れた。これほど自分達に都合のよい話はない。面倒に巻き込まれずに済む上、いざとなったら、女隊長に全ての責任を負わせてしまえる――。いつもなら彼女に横柄な態度を取る第一中隊長さえ、顔に愛想笑いを浮かべていたが、さすがにバツが悪いのか、そそくさと立ち去っていく。 「済んだのか?」 二人の大尉がいなくなったのとほぼ同時に、柱の影から声がした。アンドレだった。会議の行方を案じながら、ずっと控えていたのだろう。 「ああ、意外にすんなり結論が出たよ」 彼女は辺りを見回す。誰もいないようだと確認すると、するりと柱の影に身を滑りこませた。その辺りはちょうど壁に窪みが出来ていて近くに窓もなく、柱を廻り込んで覗き込みでもしなければ、誰かいても分からない場所だった。 彼の胸に迷わず飛び込んだ。彼は、いつにない彼女の行動に少し戸惑いつつも、しっかりと彼女を受け止めた。想いが通じ合った後も、オスカルは少なくとも勤務中は以前と変わらぬ主従の関係を崩さず、こんな風に甘えて来ることはなかった。触れた彼女の頬が少し熱っぽい気がして心配するが、彼女ははっきりとした声で「問題ない」と言い切り、彼の胸元から顔を見上げて、会議の結果を報告した。 「そうか、第一・第二中隊」それはアンドレにも、おおよそ予測がついていたことだった。「確かに、おまえでなければ叛乱を起こしかねない荒っぽい連中の集まりだな」彼は幽かに笑って言った。 「なんだ、盗み聞きしていたのか」 「人聞きが悪いな!あっちから、たまたま耳に入って来ただけだ」 冗談を言い合って、彼女はアンドレの胸に再び顔を埋めた。呼吸に合わせてわずかにゆっくりと上下する彼の胸の心地よさに目を閉じる。 こうしていると、昨夜の彼とのやり取りが思い出される。 出動命令が出たと告げた時、彼は、彼女が兵士達と共にパリへ向かうだろうことを微塵も疑ってはいなかった。彼女が行くつもりかどうか尋ねることすらせずに、ただ一言、「馬をくれ」と言った。自分は何があろうと彼女の側にあり、付いていくのみだと言う。 緊迫したパリに彼を連れて行くことを一度は拒んでみたものの、アンドレの意志の強固さと熱さに圧倒されて、オスカルは弱々しく彼の言い分を受け入れるしかなかった。 自分が出動すれば、彼もきっと付いて来る。 それは、オスカル自身もどこかで確信していたことだった。だが、自分の信念に彼を巻き込んでもよいものか。その一点だけは、昨日からずっと自問自答している。馬を与えると約束した後も、彼をパリに伴うべきではないのではと、迷いは残る。彼は生え抜きの軍人ではないのだし。 でも、言葉では拒絶しても、彼がそばにいてくれるからこそ、自分が何とか持ちこたえていられるのだということは知っている。もう、一人で生きていくことができないのは、よく分かってしまっている。 「行かないと……」 彼女が彼から体を離そうとした。 「わかった……」 会議の終わりに際し、直ちに選ばれた二個中隊を練兵場へ集合させるよう指令を出しておいたから、そろそろ整列が始まっていることだろう。出動命令は、騎乗して隊長らしく毅然とした態度で伝えなければならない。兵士達との間に築いてきた信頼感には自信をもっていたが、どこまで彼らが従ってくれるのか、一抹の不安は残る。それだけに。 理性は頭を切り替えなければならないと急き立てているが、アンドレの腕の中のあたたかさが名残惜しい。オスカルは彼の背に腕を回し、そのぬくもりをもう一度、確かめる。 物言わぬ二人の姿が、磨き上げられた大理石の床に映り込んでいた。 出動命令が出たと知らせると、案の定、練兵場に整然と並んでいた兵士達に動揺が走った。すぐさまアランたちから抗議の声が上がる。ダグー大佐はじめ将校たちの顔に緊張の色が浮かび、例の二人の中隊長は彼女の顔を不安げに見守った。しかし、オスカル自らが指揮を執ると高らかに宣言すると、事態はたちまちのうちに収束した。兵士たちは彼女ならば、黙って従うと言う。培ってきた兵士達との絆を信じてはいたものの、反発がこれほどまでに鮮やかに収まる確信はなかったので、兵士達が彼女の決意を汲んで気持ちを切り替えてくれたことに感謝した。将校たちも安堵を隠さなかった。 「明日の準備を早々に済ませ、今夜は充分に休息を取るように」 引き続き、彼女が訓示を垂れたのち、副官であるダグー大佐が解散を告げた。オスカルは兵士達が散って行くのを見ると、馬の手綱を引いて向きを変えさせた。馬は常足で練兵場の石畳をゆっくりと進んでいく。背中で兵士達のざわめきを感じながら、彼らが寄せてくれている信頼感が厚い分だけ、一触即発のパリへ連れていくことの重責をひしひしと感じていた。王家の軍隊として出動するのであれば、平民達を武力でねじ伏せる必要があるかもしれない。その時、自分は――。 練兵場の隅まで来て、石畳の間から生えた雑草が、花を咲かせているのが目に留まり、馬を止めた。今まで気がつかなかったが、敷石の間のわずかな隙間から這い出るように生えた緑の茎と葉は、太陽に向かってまっすぐに伸びていた。天を指す緑のゆるやかな曲線の周囲で黄色い花が開き、いくつかの蕾も付いている。温室で育てられている花のように、肥料も十分な水も与えられないにも関わらず、その姿は力強く生命力に満ちあふれていた。 彼女はその花の名前すら知らなかったし、そもそも名前などついていないのかもしれなかった。気にも止められず見過ごされてきた花には、衆目を集める華やかさもない。一陣の風が花を揺らした。しかし、彼女はその花を美しいと思った。 愛馬がブルルと鼻を鳴らした。オスカルが軽く馬の横腹を蹴ると、呼応した白馬は走り始めた。オスカルは厩舎に真っ直ぐ向かわず、宮殿の庭園を目指して手綱を操った。 |
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