Old Roses |
秋の午後のやわらかな日差しが、宮殿の窓から斜めに差し込み、室内を取り囲むように嵌め込まれた、何枚もの鏡に反射していた。 ソナタの最後の一音が余韻を残す中、白と黒の鍵盤の上で、踊るように舞っていた少年の指が離れた。 一斉に拍手があがる。絹張りの豪華な椅子に腰を下ろした国王一家も、親しい貴族達も、わずか6歳にして、難易度の高い曲の数々を見事に弾きこなした小さな楽士に、この時ばかりは賞賛を惜しまなかった。 得意顔をして立ち上がった少年は、父親から教え込まれた作法どおりに、居並ぶ聴衆に向かって恭しくおじぎをして見せる。それは、正確であればあるほど、どこかおかしみがあって愛らしかった。 少年は怖気る様子も見せずに、堂々としている。こうして王侯貴族を前にして演奏を披露するのは、これが初めてではなかった。おじぎが終ると、一度両足を揃えてから、2、3歩前に進み出た。 あつらえたばかりの靴は、実は少し足に合わなかった。彼は磨きぬかれた寄木細工の床の上で、派手に転んだ。 床に尻もちをついたまま、少年はなかなか立ち上がることができなかった。演奏が完璧すぎて得意になっていた反動で、この失態は少年の心を大いにかき乱した。助けを求めるように見回すと、部屋を取り囲む鏡に、いくつもの無様な自分が映って見えて、少年は益々どうしてよいのかわからなくなった。 神童の誉れ高い少年は、演奏中のアクシデントであったなら、観客に気づかせさえしない巧みさで凌いでみせたことだろう。たとえ楽器の一音が出なくなったとしても、まるで水溜りを飛び越えるように軽々と。しかし、ただ立ち上がるという、そのことが、今の彼には、それよりもずっとずっと難しいことに思えた。 同行していた父親よりも、母よりも姉よりも早く、彼の元に駆けつけたのは、王家の末の娘だった。床に跪くと、今にも泣き出しそうな男の子の手を取って、立ち上がらせる。 彼女は、困っている人を目の前にして黙ってはいられない性格だった。 自分が王女だとか、その場がどういう場であるか、そういうことはあまり考えない。 まだ7歳のこの少女は、考える前に感じて、心のままに行動する性質だった。そして、それは生涯変わることがなかった。破滅的なほどに心優しくて、そのために、1人を幸福にすることで、100人を不幸にして敵に回すこともあるのだと、それが終生わからなかった。周囲の思惑よりも、自分が美しいと思うこと、自分が正しいと思うこと、自分が楽しいと思うことが正義だった。 助けられた少年は、美しい同年代の少女に言った。 「君はとても優しい女の子だね。大きくなったら、ボクのお嫁さんにしてあげるよ」 ようやく少年のもとにやって来た父親が慌てる。王族に対して何という不遜な言葉を息子は吐くのだろう。たしなめても、少年は何が悪いのか一向にわからない様子で、きょとんとしている。 幸い、あまりに無邪気で天真爛漫な二人の姿を咎める者は一人もいなかった。 この年頃の少年少女が口にするならば、ひどく可愛らしい童話のようにしか聞こえなかったし、誰もがその言葉が、夢でしかないことを知っていたから。 少年は、確かに音楽の才能に恵まれていたが、所詮、平民だった。 王女は、姉達がそうであったように、遅かれ早かれ国益のために結婚しなければならない。顔も知らない王子のもとに嫁ぐのだ。そういう運命(さだめ)の下に生まれついていた。……今くらい、こうしていてもよいではないか。 「お母様、私、この子と遊びたいわ。ねえ、少しならいいでしょう?」 少年と手をつないだまま、王女は母に許しを求めた。懇願する灰色がかった水色の瞳は、好奇心一杯に、いたずらっぽい光をたたえている。 母である女帝は鷹揚にうなずいた。家族と過ごすための、この離宮では、礼儀作法をあまりうるさく言うことはなかったし、何より女帝はじめ、周囲の大人たちは、末の王女に甘いところがあった。 二人は回廊を走りぬけ、大理石の柱の周りで鬼ごっこをする。甲高い笑い声が高い天井にこだました。 太い柱の右側に少女のドレスの裾が見えたと思えば、もう隣の柱の向こうで、白い顔が笑っている。少年が慌てて追いかけると、あと少しというところで、するりと身をかわす。 やがて、それにも飽きて外に出ると、王女は少年の手を引いて庭園を案内した。少女が歩くにつれて、彼女の銀に近い金髪と、一日の名残の光がたわむれた。 クリーム色に近い上品な薄黄色に塗られた宮殿の外壁を巡る。庭園の向こうには、ゆるやかに傾斜を描く丘があった。かすんだ丘の上には白亜の建築物が見える。線対称にアーチ型の柱を並べたその建物は、戦勝を記念すると共に戦没者を慰霊するため、王女の母が建てさせたものだった。その中心には、王家の紋章である双頭の鷲が刻まれている。 庭園は広大だったが、よく手入れが行き届いていた。少女は一番のお気に入りだと言って、日当たりのよい中庭に少年を連れていった。 そこには、たくさんのバラの木が植えられていた。ちょうど秋咲きの花が満開で、けむるように甘い香りをただよわせている。赤、白、黄色、色とりどりの、びろうどの花弁。 「きれいでしょう?私は、花の中でバラが一番好き」 高貴で、ときに人を圧倒するような美しさを誇るバラの花に、少女は自分を重ねていたのかもしれなかった。美しく咲かせるために、人々は愛情をそそぎ、惜しみなく手をかけて世話をする。人々の愛情と奉仕を当然として、凛と頭を上げている、その花。 「でも、君の方がずっときれいだな」 少年は少女のために花を摘もうと手を伸ばしたが、棘の先に人差し指が当たって、慌ててすぐに引っ込めた。 「まぁ……」 少女はほほえんだ。 しかし、はにかんではいなかった。それは当然の賞賛にすぎなかったからだ。彼女は自分が人々を魅了するだけの美に恵まれていることを、よく知っていた。 王家の特徴である厚めのふっくらとした唇の端が引き上げられる。何の苦労も見て取れない白磁のような手を少年に伸ばす。彼女の流れるような動作の中には、もう嫣然とした女があった。 少年は片膝を立てて跪き、その手の甲にくちづけた。 「大きくなったら、きっときっと迎えに来るからね、ボクのかわいいひと」 少年が大人びた口をきく。少女は、待っていると言うかわりに、ひとつ頷いた。 少年は、天賦の音楽の才に絶大な自信をもっていた。 少女は自らの出自と生まれもった美しさに、ゆるぎない誇りをもっていた。 二人は、それゆえ一生涯、自分は人々に敬われ愛されるに値すると信じて疑わなかった。 お互いが選ばれた人間であるという強烈な自我に、そのときの二人は共鳴していたのかもしれない。 やがて少年は家族と共に、宮殿を後にして旅に出た。 歳月は容赦なく流れる。 約束は果たされることはなく、二人は二度と会うこともなく。 少年は35歳で病死し、少女は37歳で処刑される。 少年の名は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと言った。 少女の名は、マリア・アントニア。嫁ぎ先のフランスで、マリー・アントワネットと呼ばれ王妃の冠をいただいた。 彼が、暗く寒い死の床で震えながら、秋の日のやわらかな光の少女を思い出したのか、彼女が、断頭台を目の前にして、夢のような少女の日々の一コマにいた少年を思い浮かべたのか、それは、誰にもわからない。 二人がひとときを過ごした宮殿は今も残り、そして、庭のバラ達も変わらず、季節が来れば花を咲かせる。時代がうつろい、人々が去り、幾多の戦争が世界を壊しても、花は咲く。 しかし、当時を知る人は、もう誰もいない。 ただ、人々の心に、少年の楽曲は今も鳴り響き、少女の生涯は、その記憶の中にとどめられている。 ただ、それだけは残った。 (了) |
初稿: 2010 Autumn 改訂稿: 2011 Autumn (注) 有名なエピソードを元に膨らましてみましたが、史実と異なる部分もあるかもしれません。 その点は小説であり、創作部分として、どうぞご理解ご容赦いただきますようにお願い申し上げます。 |