フラクタル 〜LE CHATEAU〜




囚われ人を救い出すなら、夜陰にまぎれ、できるだけ速やかに、かつ密やかに――。

派手な奪還作戦を繰り広げる場合もあるが、たった二人で挑むのだから、当然、そうなるのだろうと、アンドレは、そんな想像をしていたのだが。


エオンが訪ねて来てから、数時間後、アンドレは黒塗りの高級セダンに乗り、ニースの市内を走っていた。どこからか、ホテルに迎えに来た車で、運転手は、目的地には真っ直ぐに向かわず、後部座席の客の方向感覚を麻痺させるように、やたらとあちこち曲がりながら走りつづける。
タキシードに身を包んだ彼の横には、“彼女”が座っている。二人共、乗車してすぐに渡されたアイマスクをして、会話することもなく、息を潜めていた。

「今まで縁がなかったのに、まさか、二日連続で、タキシードをプレゼントされることになるとはな」
ホテルの部屋で、エオンから渡された衣装に着替えると、アンドレは、鏡の前でタイを締めながら、そう言った。
いくら黒が基調とはいえ、どこかに忍び込むのに、ふさわしい格好だとは到底思えない。この服を渡されたとき、あまりに想像と違っていたので、相手が何を考えているのか、正直、量りかねたものの、ひとまずは言われた通りにした。
「着替え終わったか?」
後ろから、そう声が聞こえて、鏡に、やはり、着替えを済ませたエオンが映り込んだ。サテンとシフォンを使った、スレンダーなアラゴン・オレンジ色のドレスは、胸元に、たっぷりとドレープを垂らしているが、背中は大胆に開き、正面のドレープからつづく布が、足元に向かって、何層かの襞を作りながら流れていく。
この姿からは、先ほどの男の姿は、想像もできなかった。胸元が隠されてはいるが、どこからどう見ても、女性としか見えない。
アンドレに近づくと、慣れた手つきで、彼のタイを整え直す。
「……これから、どこへ行くんだ?」
たまらず、アンドレが尋ねると、エオンは首をかしげた。
「さあ?わたしにも分からないの」
さっきまでは男性の声で話していたのだが、答えた声は、役者が役に入るかのように、既に女性のものに変わっている。それが、あまりに自然すぎて、もう一つの顔を知っている者としては、逆に強い違和感を感ぜずにはいられなかった。
「分からないって……」
エオンの曖昧な答えは、少々、癇に障った。彼は、“布石は打った”と、先ほどはっきり告げたはずだった。行き先が分からないとは、どういうことなのだろう。
「分かっていることは、これから迎えの車が来て、それが黙っていても連れて行ってくれるということ。昨日のパーティーの主催者の、もう一つのパーティーにね」
エオンは、鏡の前に立つと、顔の角度を変えたり、背中を映し出してみたりしながら、全身を入念にチェックし始めた。
昨日の主催者といえば、オスカルの勤務する会社の社長の従兄だという、ルイ・フィリップ・ド・オルレアンだ。何かと黒い噂のある人物だと言われていたが、“もう一つのパーティー”と言う言い方が、ひどく胡散臭く、アンドレの耳に響く。
「……そこに、オスカルがいるのか?」
胸騒ぎを覚えたアンドレの声は、ワントーン低くなった。
「……悪いけど、絶対とは言えないわ。可能性があるとしか」
エオンは、アンドレの方を振り返りもせずに、結い上げた髪に手をあてて、髪飾りの位置を直している。アンドレが、その手を掴む。
「ちゃんと、答えてくれ!人の命がかかっているんだぞ!!」
頭に血が上っているアンドレとは対照的に、エオンは冷たい目で、アンドレをじろりと睨め上げた。威嚇するように、男性の声に戻る。
「黒い騎士の軌跡を辿ると、将軍と令嬢の名前といっしょに、“オルレアン氏”が浮かび上がったんだ。将軍も令嬢も、ここにいて、オルレアンまで、ここにいる。そして、誘拐事件まで起きた。疑うには充分だと思うけど。潜り込むために、苦労したんだから――」
つべこべ言うなら、残ればいい。警察の報告でも座して待つがいいと冷たく言い放たれて、アンドレは押し黙るしかなかった。掴んだ手を放す。エオンは大げさに手首をさすってから、セカンドバッグに手を伸ばし、ルージュを取り出した。
「いいこと?この部屋を出たら、わたしは“リア”よ……」
彼女は、鏡を見ながら、真っ赤なルージュを唇に差した。

車は、30分以上も走り続けて、やがて止まった。ドアが外側から開かれる。目隠しはそのままでと指示され、二人は誘導されながら、車を下り、舗道を歩いた。海の匂いがする。風もあった。視覚は遮断されているが、他の感覚器官が、自分がどこにいるのかを認識しようと働く。
すぐに、何か、建物かトンネルのような所に入った。空気の流れが止まったので分かる。足音が、かすかに反響した。中に入ると、「止まれ」と言われて、目隠しを外すように促された。
二人を誘導して来たのは、屈強な男達だった。タキシード姿に身を包んではいたが、顔つきや体躯から、ボディガードとしてでも雇われているに違いないと確信する。
「招待状を」
アンドレに向かって、一人がそう求めたが、そんなものは、もちろん持っていない。エオンが、セカンドバッグからクレジットカードのようなものを取り出し、男に渡す。男が、ワイヤレスの磁気カード読み取り機にそれを通すと、目の前のエレベーターの扉が開いた。中に乗り込み、扉が閉まるまでのわずかな時間に、自分達が来た方を見ると、狭い入り口の向こうに、アーチ橋の橋脚のような細い柱が見えた。その向こうにも目を凝らしたが、暗くてよく見えなかった。
動き出したエレベーターの中で、アンドレは思った。この風景は、どこかで見たことがあるような気がする。ガイドブックにでも載っていただろうか。訪れたことがあるような気もしたのだが、記憶を手繰る暇も与えず、エレべーターはすぐに停止して、再び扉が開いた。
一歩進み出ると、両側には、やはり先ほどと似たような雰囲気の男が立っていた。片側の男が、慇懃に礼をすると、二人に廊下を進むように身振りで示す。もう一人が何かを差し出したので見ると、それは目の部分を覆う、仮面だった。エオンがさっさと顔に当てるのを見て、アンドレもそれに倣う。
エレベーターの出口からまっすぐに伸びる一本道の廊下は狭く、薄暗かったが、敷きつめられたカーペットは毛足の長い上等な品物で、踏み出す度に深く沈みこんでいく。壁には、いくつかドアがあり、一枚の肖像画が飾ってあった。アンドレは、その肖像画に目を止めた。衣装から18世紀のものと思われた。白いかつらを被った初老の男性は、精緻な刺繍が施されたマントを身につけ、片手に手袋を片手に帽子を持ち、威風堂々と立っている。それを横目に廊下をまっすぐ進むと、突き当りには、やはりドアがあった。ちらりとエオンの表情を伺ってから、アンドレがドアを思いきって開ける。一瞬、目が眩んだ。
廊下と違って、室内はまばゆいばかりの光にあふれ、アンドレやエオンのように着飾った男女が、ある者はグラスを片手に、ある者は大理石のコンソールによりかかり、談笑している。思った以上に部屋は広く、中央にダンスフロアのような広々とした場所があって、何のためなのか、隅には衝立やカーテンで仕切られた場所が何箇所か設けられていた。中二階ほどの高さのところに、部屋を一周してホールを見下ろせる廊下があり、ドアがいくつか確認できる。そこにも何人か人がいるようだ。
「ここは……!」
呆然と立ち尽くしているアンドレの腕を取り、エオンが耳元で囁いた。
「限られた者だけが入れる、社交場。地上では隠されている享楽と悪徳の許された、地下の楽園――」
目を凝らすと、衝立の向こうから、白い足がのぞいていたり、頭上の回廊にいる男女のシルエットが、一つに重なっているのが見える。
「ルイ・フィリップ・ド・オルレアンが支配する治外法権の……パレ・ロワイヤル」



オスカルは、ベッドの端に腰かけ、考え込んでいた。アフメッドが出て行ってから、ずっと、これまで知る限りの情報を整理・分析して、あれこれ考えを巡らせていたのだが、ここから脱出する方法は思い浮かばず、彼らが何を要求しているのかも、はっきりとは見当がつかなかった。
彼女は立ち上がると、床を見つめたり、壁に目をやったりしながら、部屋の中を歩き回り始めた。しかし、そうやっても思考は堂々巡りを繰り返すだけだった。
ふと、壁に一匹の蜘蛛がいるのに気づいた。こんな時でもなければ、見過ごしてしまいそうな、小さな蜘蛛だった。蜘蛛は、天井近くの通風孔から、細い頼りなげな糸を垂らして、降りて来ていた。
「“夜の蜘蛛”か……本当に助かるのかな」
オスカルは自嘲気味に笑ったが、ふと、人の話し声、ざわめきのようなものがかすかに聞こえ、辺りを見回した。それはすぐに止まってしまったので、いよいよ幻聴でも聞こえて来たかと、首を振る。
しかし、また同じような音声が耳に入り、よくよく耳をそばだてると、それは低い機械音と共に、通風孔から流れ込んで来ているのが分かった。
彼女は、すぐさまドアに向かい、拳で何度か叩いた。ややあってドアが開かれ、アフメッドが顔をのぞかせた。
「何だよ」
「喉が渇いた。水をもらえないだろうか」
アフメッドは返事もせずにドアを閉めた。鍵をかける音と共に、人の気配が遠ざかっていくのが感じられる。しばらくして、彼は水差しとコップを持って戻って来た。
「ほらよ」
無造作にテーブルに置く。オスカルは椅子を引いて座り、コップに水を注いだ。彼女が喉を潤す様を、アフメッドはじっと立って、見つめている。
「何だ?」
「別に」
相変わらず愛想がなかったが、何となく、このまま彼女の側を離れがたいような素振りだ。
しばらく交わす言葉もなく、互いに黙っていると、また、先ほどのざわめきが耳に届いた。
「誰か、大勢の人が集まっているような声が聞こえて来るんだが……」
彼女は探りを入れてみた。
「ああ、また例の“仮面舞踏会”とやらが始まったんだろ。いけすかねえ取り澄ました奴らを集めて、週に何回かやってるらしい。俺は興味ねえけど、エベールは、たまに潜り込んでるみたいだ。根っからのスケベで、偉そうなくせに、大して役にも立たねえ奴さ。黒い騎士のアカウントを使って、やばいサイトにアクセスしたり、碌なことをしやしねえ。黒い騎士はその度に火消しに大変なんだってさ」
アフメッドは、大した情報でもないからか、警戒することもなく答える。そこには、オスカルに対して、かなり気を許してきたことも伺えた。
「そんな奴を、よく仲間にしているな」
オスカルがあきれると、アフメッドは肩をすくめた。
「口がうまいのさ。だから、一部には人気があるし、おれも最初はいい人だって思ったくらいだから。すぐにやな奴だって分かっちまったけど。それに、組織にはああいう人間も必要だって、黒い騎士が」
「そうか……」
そこで、会話がふっつりと途切れたが、アフメッドがまだ立ち去ろうとしないので、オスカルは、彼に関する質問を始めた。彼女の方も、心を開き始めたアフメッドに、少々興味を持ち始めていた。
「家族は?」
「両親に兄貴と弟に妹。あと、叔父さんが一緒に住んでる。あんたは?」
「今は一人暮らしだが、母と父と、5人の姉がいる」
女6人はすげえなと、アフメッドは素直に感心した。
「もう、全員、嫁いで、子供もいる」
オスカルが補足すると、アフメッドは自嘲気味に笑った。
「あんたみたいな人の家は、みんないい家に嫁に行って、いい学校に行って、何の心配もなく楽しく暮らしているんだろうな。世の中、金だ。金がありゃ、たいていのことはできるし、蔑んで見る奴らを見返してやれる。せめて、弟達には教育をつけさせてやりてえ」
オスカルは、青年が興奮気味にそう捲し立てるのを黙って聞いていた。それに気づいたアフメッドが、ふいに口をつぐむ。
「……あんた、変わってるな」
「ふふっ、よく言われる」
オスカルが楽しそうに笑うと、アフメッドは少し怒ったような顔をして、部屋を出て行こうとしたが、数歩、歩いて、振り返り、後ずさりしながら、言った。
「おやじさん、いい返事をくれるといいな。大丈夫だよ、黒い騎士が、絶対にばれないようなことだって、言ってたし。今日か明日には、返事が来て、あんた、無事に帰れる、さ。その後じゃ、決行の後だし、な。たぶんね。だから、心配すんなって」
オスカルが「ありがとう」と微笑むのを見届けると、彼は両手の人差し指を突き出して見せ、それから、ドアの向こうに消えた。

扉が完全に閉じられてから、オスカルは、ため息をつくと、両手を組んで、その上に頭を乗せた。
今のアフメッドの話と、これまでに知りえた情報を合わせると、いくつか分かったことがあった。
この建物のどこかに大勢の人が集まっていること。アフメッドの口ぶりからして、昨日、自分がオルレアン氏のパーティーで会ったような、上流のゲストを集めたパーティーが開かれていているのだろう。そこにも、通風孔があり、ここに繋がっていて、送風の具合によって、そこから音が漏れて来る。すると、ここのオーナーは、そうした人々を集めることができる人間、つまり、社交界でもかなり顔が広い人物だと推測できる。
父親を動かして、軍を足止めしようと企んでいるのだろうこと。アフメッドは、”決行”という言葉を使った。父親は、その”決行”を阻止するために動いている。そこで、父親を脅す材料として、自分が誘拐された。そう考えれば、ターゲットが自分でなければならなかった説明がつく

加えて、一つ、引っかかったこともあった。アフメッドもエベールも、ベルナールを本名で呼ばず、ずっと“黒い騎士”という、あだ名で呼んでいた。そこには何か、理由があるように感じる。

少し、思考が横道に逸れたので、彼女は頭を振った。余計な情報は削いで、必要な情報にだけ意識を傾けねば。

父の任務、この近くで、軍の出動が必要そうな場所。ベルナールは、予定が狂ったとも言っていた。現在、発火しそうな火種を抱えている所。それは――。

やっと糸口がつかめてきたような気がしたところで、扉が開く音がした。オスカルは顔を上げる。
戸口に、ベルナールが立っていた。その背後には、アフメッドとエベールの顔がのぞいている。ベルナールは一人だけ中に入ると、扉を閉め、オスカルの方につかつかと近づいて来た。
「将軍から回答があった」



(つづく)





<<Prev. Next >>