フラクタル 〜歯車A〜




「すみません。ドアが開いていたので。出発前に、ご挨拶しておきたくて」
オスカルは声の主に謝りながら恐る恐る振り返ったが、ぎょっとして固まってしまった。怒っているセルジュがいることは予想していたが、彼の首だけが床からぬっと覗いていたからである。
入り口からは仕事机の陰になって見えない、壁際の床にフタ付きの穴が開けられていて、セルジュはそこから出て来たところだった。下は地下室になっていて、今までそこにいたらしい。
セルジュは両手の指の間に何本かの小瓶を挟んでいた。貼ってあるラベルに、ローズウッドやメリッサと書かれている。温度変化が少なく光も届かない小屋の地下が、精油の保管庫になっているのだ。
階段を上がってきたセルジュは、相変わらず無愛想な顔をしていたが、怒ってはいないようだった。
「……帰るのに挨拶もせず、すまなかったな。仕事が立て込んでいたものだから」
彼は、自分の目と同じ濃いアンバーの色をしたガラスの小瓶を机の上に置いた。
「新作の香水ですか?」
オスカルが尋ねると、「まあね」と言って、セルジュは椅子に無造作に腰かけた。オスカルのことは放っておいて、早速、持って来た小瓶から液体を取り出して、混ぜ合わせる作業を始めた。彼女はじっとその手元を見守る。
正確に測った、わずかな量のエッセンシャルオイルを、たまにノートに鉛筆を走らせながら、何度かに分けて加えていく。髪をかきむしったり、額に手を添えて考え込んだり。オスカルの存在など忘れたかのように、作業に没頭している。
仕事の邪魔をしてはと、オスカルはそっと小屋から出て行こうとした。最後に挨拶も出来たし、きっと今頃アンドレが姿の見えない自分を探しているだろうと思った。
「ちょっと待ってくれ!」
その気配に気づいたセルジュが、彼女を呼び止めた。
「この香りを、嗅いでみてもらえないだろうか?」
彼はオスカルの方に腕を突き出した。指先でムエット(香料試験紙)をつまんでいる。それには試験管内の液体が浸してあった。オスカルは近寄って紙片を受け取ると、香りを聞いた。
トップノートがすぐに鼻腔を刺激した。複数のシトラス系が混ざり、オレンジともレモンとも言いがたい複雑な香りの中に、フローラルな香りを微かに感じる。しかし、ただ甘いだけでなく、透明感のあるクールな香りもして、どこか、襟を正したくなる。
「どうだね?」
セルジュが感想を求める。
「そうですね。全体に甘い風でいて、それだけでなく、精神を落ち着かせ、集中力を高めてくれそうなところがいいですね。個人的には、とても好きです。……厄介な仕事に臨む際につけたら、気持ちが引き締まりそうだ」
オスカルの感想を聞くと、セルジュの濃い褐色の瞳がふっと和らぎ、顔に笑みが浮かんだ。
「仕事前に、ね。なかなか面白い表現をする」
セルジュが微笑んだところをオスカルは初めて見た。その瞳のやわらかさは、アンドレが照れて笑う時の目の表情と、よく似ていると思った。
「ミドルノートも感想が聞きたいのだが。少し時間をもらえないだろうか?」
オスカルが承諾すると、セルジュは座っていた椅子を彼女に譲り、自分は机の端に寄りかかった。
椅子に腰かけると、オスカルは指先のムエットをじっと見つめた。白い紙の先端には薄緑色の染みがある。それが今、空気にさらされて拡散し、変化を始めているのだ。
セルジュの視線が注がれているのも感じる。二人とも一言も言葉を発しなかったので、オスカルがどことなく気詰まりを感じ始めたとき、意外なことにセルジュが口を開いた。
「……あの捕り物は見事だったな」
「えっ?」
オスカルが顔を上げると、セルジュは先ほどと同じように、柔らかな表情で彼女のことを見ていた。
「あ、はい。実は、軍人である父に、幼い頃から武道の手ほどきを受けていて……」
「ほお……」
セルジュが関心を抱いている様子だったので、オスカルは父親のことや生家のこと、それから自分の簡単な生い立ちなどを簡潔にまとめ、ゆっくりとした口調で話し始めた。セルジュは時折、肯きながら、彼女の話に聞き入っていた。やがて、仕事のことに話が及び、アンドレとの出会いのきっかけが彼の本であること、それから、彼女の職業上の知識を彼に提供することによって、関係が深まっていったことなども話した。
そこまで言って、彼女は口ごもった。
「どうしたね?」
セルジュが不審に思って尋ねた。
「すみません……」
彼女はうなだれた。突然、謝られて戸惑ったセルジュは、理由を訊いた。
オスカルには、セルジュに一つ聞いてみたかったことと、それから言いたかったことがあった。
「ばあやのことです。小さい頃のお話、伺いました。わが家にお母さんを取られたみたいに感じられたのでは」
ジェルジェ家での思い出話をしている食卓から、セルジュが突然席を立ったときのことを、オスカルは思い出していた。マロンが懐かしそうにジャルジェ家での日々を語っている様子が、きっと彼には不快だったのだと思った。自分の登場で、少年の頃の苦い気持ちを再び思い出させてしまったのでは、とそのことが気にかかっていた。
「いや、そういうわけでは――」
セルジュは少しうろたえて、手を広げた。小指の先が机の上のガラス器具をかすめて、硬質な音を立ててぶつかった。
「恨んでいたわけじゃない…――自分も人の親になってみれば、おふくろの気持ちもよく分かるようになったし。あの頃は――あの頃は、自分が泣くと、おふくろが、やり切れない悲しそうな顔をするものだから、だから、自分も我慢しなければと思っていたんだ。でも母親に笑いかけられたら、きっと別れるときに泣いてしまう。だから、自分も笑わないようにしよう、そして、泣かないようにしようと決めたんだ」
セルジュの言い分は、マロンの解釈とは違っていた。
子供の方は子供なりに考え、母親を苦しめないよう感情を押し殺そうと心に決めた。
母親の方は、他人に預けっぱなしの不憫さと後ろめたさから、彼が無表情になったのは自分のせいだと、自責の念にかられた。
「おれのために一人故郷を離れてパリに出たのに、こっちの都合でまた帰って来てもらって。家族同然に大切にしてもらったとこから引き離すようになっちまったのが申し訳なくて」
思い合っているゆえに、すれ違ったままで来た愛情。
親子だからこそかもしれない。しかも親子であったがために却って、言葉ではっきりと互いの気持ちを確認することはなかったのかもしれない。
小柄で丸顔のマロンと、がっしりとした体格に角ばった顔をしたセルジュと、見た目は全く違うのに、思いやり深くて、少し臆病で、肝心なことを言い出せないところは、そっくりだと、オスカルは思った。二人共、不器用なまでに心優しい。

「オスカル、何だ、ここにいたのか。探したんだぞ」
戸口に、いつの間にかアンドレが立っていた。あちこち探し回って、最後にまさかと思って、ここを覗いてみたのだった。
「あ……すまん。ちょっと話し込んでしまって」
「親父とか?」と、いささか意外な表情を浮かべながら、アンドレは中に入って来た。
オスカルは、手にしていた紙片をアンドレに差し出した。
「何だ、これ?」
「いいから、嗅いでみろ」
アンドレは受け取った紙片を鼻に近づけた。目を閉じ、香りに神経を集中させる。
「聡明で華やかな感じだな。リッチで上品……。洗練された大人の女性の華やかさがある」
アンドレの感想を聞いてから、彼女もムエットを嗅いでみる。
はじめの柑橘系の香りが鳴りを潜め、薔薇の豊かで馥郁とした香りが表に顔を出している。その裏で、樹木のもつ、みずみずしい透明感のある香りが漂い、幸福感を誘う。ローズの香りの他にも何かかすかに他の花の匂いがしているようだが、この時点ではアンドレにも判別できなかった。
「意外だな。今までの親父の香水とは、方向性がかなり違う」
セルジュがこれまで調合して来た香水は、どちらかというとフェミニンさが強調されていて、コリンヌのような愛らしい女性を思い起こさせた。かつては、その、日の降りそそぐ花畑で寝転んでいる時に香るような、わが家で花瓶に飾られた花に鼻を近づけた時に感じるような、優しい甘さのある香りが好評を博していたのだが、時代が都会的なセンスを求めるようになると、古めかしいと敬遠され、手に取る人が少なくなってしまった。
コリンヌはそれでも、「あの人の香水が好き」と言っていたが、ついに引退の話が出るまでに至った。
ところが今回の作品は、持ち味であるフェミニンさは残しつつも、そこに、エレガンスやクールさまで兼ね備えたものに仕上がっている。アンドレが「ニーズは高いかも」と言うと、セルジュは照れくさそうに鼻の頭をかいた。
「実は、あんたからインスピレーションを受けてね」
彼はオスカルの顔を見た。
「わたしの……?」
「それで、あんたがここにいる間に何とか形にしておきたくて、ずっとここに篭っていたんだよ」
オスカルとアンドレは顔を見合わせた。アンドレはつづいて父親の顔を見た。父親の方は、そっぽを向いて、息子と目を合わせようとしなかった。
「オスカルがミューズか……。それなら一言いわせてもらうと、まだちょっと甘い気がしないでもないな」
アンドレが愉快そうに腕を組み、少し横柄な口調で香水の感想を補足し始めた。
「もっと――天真爛漫でわがままなところがあるし、次に何をしでかすか予想がつかないことがあるし。ほら、この間の立ち回りみたいに大胆で男らしいところも……」
調子に乗って喋っているアンドレの足を、オスカルが思いっきり踏んだ。
「っつぅ―……!」
アンドレは顔をしかめて、踏まれた足の甲をさすった。オスカルはアンドレを横目で睨みつけている。
二人のやりとりを見ていたセルジュが噴き出した。
「ははは……!なかなか息がぴったりだな!ははは……」
大笑いされて、オスカルは顔を赤らめたが、アンドレはまだ、痛む足をさすりつづけていた。


イメージが逃げないうちに、もう少し仕上げておきたいというので、二人はセルジュを残して仕事場を後にすることにした。
先にアンドレが出て行って、それからオスカルが出て行こうとすると、セルジュに名を呼ばれ、呼び止められた。オスカル一人が小屋の中に一、二歩戻ると、セルジュは机に向かっていて、彼女に背を向けたまま言った。
「アンドレが、ここを出てったとき、もっと広い世界で自分を試してみたくなったのかと思っていたんだが……」
いかつい背中の向こうで、忙しく手が動いている。その手の動きがふっと止まり、セルジュは上を見上げた。
「…………案外、あんたのことを探しに行ったのかもしれないなぁ」
「えっ?」
立ち尽くしているオスカルに、セルジュはそれ以上何も言わなかった。作業を再開して、黙々と手を動かし続ける。
アンドレの呼ぶ声がして、オスカルはそっと戸口の横木を跨いで外に出た。

数メートルほど先に行っていたアンドレに追いつくと、二人は離れに向かって歩き始めた。アンドレの目は前ではなく、自分のつま先が踏み出される辺りの地面に落とされていた。
「おれが……おれがもし、跡を継いでいたら、親父もすんなり引退する気持ちになったのかな……」
彼は、ぽつりと独り言のように言い、地面に転がっていた小石を軽く蹴った。
ああ、ここもこんがらがっているなとオスカルは思った。こっちの親子も不器用に互いを思い合っている。
彼女がアンドレの前に回りこんで来たので、彼は顔を上げた。
「おまえ、仕事場のクローゼットの奥を見たことがあるか?」
「え?……いや。ないけど?」
唐突にオスカルにそう言われて、アンドレは怪訝そうな顔をした。
「今度、こっそり入って、覗いてみろ」
そう言ったオスカルの目は、いたずらっぽい光をたたえている。
「何だよ、もったいぶらずに教えてくれ」
「いいから、自分で確かめろ!」
彼の抗議を取り合わずに彼女は足を速めた。これは他人の口から聞くものではない。彼自身で確かめなくては。
ちょっと待てと、アンドレが追いかける。オスカルは笑いながら走り出した。
今度、グラースに戻って来たとき、彼は目にするだろう。あの納戸の中に隠されている、ある作家の著作に関する書評や広告記事が、びっしりと貼り付けられたスクラップブックを。そして、その下に、同じタイトルの本が何冊も、積み木のように積まれているのを。その本も同じ作家の作品ばかりだ。
そして、意外な理解者とファンの存在を知って、言葉を失うかもしれない。


オスカルの荷物もつめてしまうと、アンドレはトランクリッドを力強く閉めた。
すっかり準備が整い、出発するばかりとなった車のところまで、マロンとコリンヌが見送りに来た。
「お世話になりました。おかげで、とても楽しく過ごすことができました」
オスカルが別れの挨拶をする。ここに到着してから、目まぐるしくたくさんのことがあって、わずか数日の滞在だったとは思えないほどだった。楽しいことばかりではなかったが、終ってみれば、全てが自分とアンドレにとって必要なことだったように思う。ここに来てよかったと今なら心から思えた。
「本当にお会いできて、よかった。…………実はね、あんまりに女っ気がなくて、男友達にばかり囲まれているから、うちの子は、女性に興味がないんじゃないかって心配してて。でも、これで安心しましたわ!」
「おふくろ!もう、最後の最後までやめてくれよ」
ころころと笑うコリンヌに、アンドレが本気で困惑して抗議する。アンドレの母の屈託のない明るさが、この家の核になっていて、ともするとバラバラになりかねない家族をしっかりとまとめているのだとオスカルは思った。
コリンヌを見て、マロンを見、それからセルジュの顔を思い浮かべた。この家庭で育ったから、今のアンドレがあるのだとオスカルは思う。家族一人一人の中に、アンドレのかけらがあるのを、確かに感じた。

軽く母と祖母を抱きしめて頬にキスしてから、元気でと挨拶を交わし、アンドレが運転席のドアを開けると、オスカルがさっさと先に乗り込んだ。
「オスカル?」
「お客様扱いで、少々、体がなまってしまったから、今日はわたしが運転する」
そう言われて、アンドレは素直に助手席に回る。
キイを差し込むとオスカルが言った。
「ニースに向かう前に鷹巣村に寄らないか、アンドレ。……そうだ、エズはどうかな?できれば、海を見下ろすシャトー・エザのテラスでゆっくりしたい。おまえと、二人で」
出し抜けに言われて、アンドレは、また彼女の気まぐれが始まったと思ったが、エズならば、ニースを通り過ぎてしまうものの、高速を飛ばせば、それほど遠くもないと思い直す。
それに、今回の提案には彼も大賛成だった。
「それでは、御意のままに。オスカルさま」
いつも、女王のような彼女の気まぐれに振り回される。しかし、当惑はするものの、決して嫌なことではない。
わざとらしく最大級の敬語を使い、“さま”を強調したアンドレに苦笑しながらも、オスカルはキーを回してエンジンをかけた。
ギアをローに入れると、踏み込んでいたクラッチを解放する。車の中の歯車がかみ合い、動力が各装置に伝わって、車は動き始める。

海を目指して。


(つづく)





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