Castor and Pollux |
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アランが駐車していた車のところに戻ると、アンドレが立っていた。かつらは外していたが、まだパーティーのときに着ていた衣装のままだ。 「まだ着替えてないのかよ」 「残った仕事を片付けて、途中で放り出したことを謝って回っていたから」 今日の給料は支払わないということで、お咎めなしに落ち着いたらしい。それに、途中抜け出しはしたが、その時間以外、彼は給料分以上によく働いていた。 「全くおまえはあの人のことになると、見境がなくなるんだな」 アンドレがすまなそうに頭をかいた。 「アラン、おまえにも迷惑をかけて、すまなかった。せっかく心配してバイトを紹介してくれたのに。その、まさか、おまえとオスカルが……」 場合によっては、紹介してくれたアランの信用まで傷つけることになったろう。頭を下げるアンドレに、謝らなくていいと面倒くさそうに手を振って、アランは「悪いと思ってるなら、ひとつ頼まれてくれよ」と言った。 「なんだ?」 今なら何でも聞いてしまいそうな勢いでアンドレが顔を上げる。 「あの迷路の中に、会社のIDカードを落として来ちまって。おまえなら、あの坊やと通った道を覚えてるんじゃないかと思ってよ。取って来ちゃもらえないか?おれはどうも、ああいうパズルや迷路みたいな奴は苦手で」 プラスチックのありふれたカードで、名前と顔写真がプリントされているから、すぐわかると説明して、たぶん、落としたのは広場だと思うと告げると、アンドレは二つ返事で引き受けた。それくらいで罪滅ぼしができるというのならば、お安い御用だ。 頼むぜとアランは手を振ってアンドレを見送る。アンドレは小走りで迷路に向かいながら、そこで少し待っていてくれと手を振り返した。 アンドレがいなくなると、辺りはしんと静まりかえった。駐車場に所狭しと止められていた車も、ほとんど消えている。 誰に聞かせるわけでもなく、アランはつぶやいた。 「別に、おまえらがどうなろうと知ったこっちゃないけどな。おれは誤解したりくっついたり離れたりってな、恋愛映画みたいなのを見せられると、イライラする性質なんだ」 本当は些細な行き違いなど問題ではないくらい、二人は強く結びついていて、互いに呼び合っているくせに。アランにも、それが分かる。 分かっていないのは、たぶん本人達くらいのものだろう。 「さっさと元の鞘に収まっちまえ!」 アランは頭の後ろで手を組むと、わざとガニ股気味になり、思いつくままにめちゃくちゃなメロディーを口ずさみながら、ふたたび屋敷の方に歩いて行った。 アランの頭上はるかでは、下弦に向かって欠けていく月齢19.2の月が煌々と輝いて、彼のおどけた姿を、さらに不恰好に引き伸ばした影を地面に描いた。 庭園も迷路も、まだ灯りが消されていなかったので、アンドレは記憶違いがなければ容易に中央広場までたどり着けると思った。 迷うといけないので、ジョゼフと通ったときと同じ道をたどる。隠し通路を抜けるとき、ヒバの葉と枝が体をかすめて、また細かいすり傷を作った。血は出なかったが、白い痕が皮膚のあちこちにつく。上空では強い風が吹き始めたようだった。オーバルの宝石のような月が、雲に隠されては現れる。 正規の通路に出ると、アンドレは服についた葉を払い落としながら先に進んだ。手にニオイヒバの独特の匂いがうつる。広場が見えて来ると、念のため手前から地面を確かめつつ進んだ。だが、IDカードらしきものは見当たらなかった。東屋までの直線をゆっくりと、さらに注意深く探しながら歩く。ここに落ちていないとなると、出口までのルートか、場合によっては、入って来た時のルートの途中で落とした可能性がある。そうだとすれば、かなり面倒なことになるなと思った。万が一、あの隠し通路の中だったとしたら、いくら電灯も月明かりも助けてくれるとはいえ、夜のうちに探し出すのは無理かもしれない。 円屋根の手前まで来てしまったが、見つからなかった。ベンチの周囲を探そうとして近づくと、その後ろから人影がむっくりと立ち上がったので、驚いて立ち止まる。誰かが屈み込んで、何かを探していたらしい。 「おかしいな。アランの奴、いったいどこに落としたのだ。本当にここなのか?」 よく知っている声がした。 今日、ここで会うのは二度目だ。 さっきは、言葉を交わす暇もないままに別れた。今度こそ何か言わなければと気が急いた。だが、焦れば焦るほど、言葉が出なかった。 彼女とこうして二人っきりになれたのは、あの日以来だった。あと何歩か近づいて、手を伸ばせば届くところに、今、彼女がいる。 アンドレの視線に気がついたのだろう。オスカルもこちらを見た。 「ア……っ!」 それ以上、オスカルも言葉が出なかった。二人とも広場の彫像のひとつになったかのように動けない。 「オスカ……」「ア……」 同時に互いの名前を呼び合ったが、また口をつぐむ。辺りは静まり返り、葉擦れの音しか聞こえない。陽気な祭りのあとの静けさは寂しく感じるほどで、二人以外は、夜空の高みで白い光を投げかけている月以外、誰もいない。 「あ…バイクが……ずっと置いたままだから、早く取りに来るといい」 オスカルが視線を逸らした。 「そうだな。ずっと置きっぱなしで、ごめん」 アンドレも目を伏せる。 「べつに、邪魔になってはいないが、おまえも不便だろうから―…」 ちがう……。こんな話をしたいのではない……。もっと他に言うべきことがあるはずなのに。出てくるのは核心を避けた言葉ばかりだ。 「オスカルは、どうして、こんな所に?」 彼女は、ベンチの下にできた影の辺りに視線を走らせながら言う。 「アランにIDカードを落としたから、探して来てくれと言われて」 おれもだとアンドレが言うと、二人はやっと、アランの意図に気がついた。まさか、アランが二人の仲を取りもとうとするとは思ってもみないことだった。彼女にとっては、信頼はしているが、ただの同僚で、彼にとっては、まだ日の浅い友人にすぎない。 「おまえがアランと知り合いだったなんて、知らなかったぞ」 「おれも、おまえがアランの上司だと知らないで、ここまで来てしまったんだ。それに、話す機会が、ずっとなかったし……おまえと」 ずっと話していなかった。あの日から。 一週間だったか二週間だったか。それとも数ヶ月だったのか、もうよくわからない。とにかく二人にとっては長い長い時間だった。 出会う前は、こんな風ではなかった。誰かと会えないことが、話せないことが、こんなにも辛いと感じたことはなかったのに。 ヒバの壁の向こうから、鳥が羽音を立てて飛び立った。人工の明かりに幻惑されて、まだねぐらに帰らずに何かを探しているのだろうか。 鳥が飛び立った辺りに彫像があった。ここには12基の彫像が置いてあり、ちょうど広場を取り囲むように、中心角を30度で刻んで並べられていた。その彫刻は、母親が二人の男の子を両腕に抱いている像だった。男の子はふたご座のカストルとポルックスだ。 オスカルは、ジョゼフから、ここには12星座をモチーフにした彫像を置かせたと聞いた時、ふたご座が成人した二人ではなく、母と子の像だったところに、少年の中の母親への執着のようなものを感じたのを思い出す。 子供の頃、ギリシャ神話の本を読んだ。姉の本棚にあって、ふと手に取ってみた。その中に、ふたご座の物語もあった。 双子でありながら、兄は人間の子で、弟は神の子であるという奇妙な兄弟だった。兄のカストルが死んだとき、弟のポルックスは不死身の身を解いて、自分も死なせてほしいと神に祈ったという。 「せっかく不死身なのに、いっしょに死にたいなどと願うなんて、おかしいし、もったいないですよね。一生懸命生きるべきではありませんか」 近くで刺繍をしていた長姉のマリー・アンヌに言った。彼女は刺繍の手を休めることなく、笑いながら言った。 「そのうち、わかる日が来るかもしれなくてよ」 もっとも、きょうだいに対してではないでしょうけれどね、と。 今は、ポルックスを笑う気にはなれないし、不死身の体などでなくてよかったと思う。 目の前に立っている男を見る。彼も何かを訴えるような目でこちらを見ている。 もし、彼を失って自分ひとりで生きていかなければならないとしたら、どれほど苦しいことだろう。 アンドレが口を開いた。 「勘繰ったりして、悪かった。本当に。おまえが信じろと言うのなら、おれは信じるべきだったと、今は思う」 謝られて、彼女は戸惑った。状況が状況とはいえ、悪いのは彼にきちんと説明ができなかった自分の方なのに。 「ばか、謝るな!」 どうして、彼はいつも、こう。 「なぜ、フェルゼンに会っていたかを説明させてくれ。今なら全部話せるから」 しかし、アンドレは静かに首を横に振った。 正直、彼女の全部を知ることができたらと思う。自分と彼女が重なって、一つになれたらいいのにと思うほど、彼女に惚れている。 だが、そうなった時のことを想像すると、今はぞっとする。 今夜見た風景の中で、彼女は、自分が知らない顔をして、自分が奥まで踏み込んでは行けない世界に属していた。だが、その重なり合わない領域も確かに彼女の一部で、彼の愛する彼女の命は、そこから力を得て、輝いている。 もし、それを失ったら――彼女はもはやオスカルではなくなってしまう。彼女の精神はやわらかく死んでしまうにちがいない。 「いつか話して。それより、今は」 なんだと返事をした彼女に、彼は黙って近づいた。肌が触れる一歩手前で止まる。 「おまえに触れたい。……触れてもいい?」 「……ばか、そんなこと改めて……きくな」 オスカルが小声で呟いた。 アンドレは彼女の肩口を掴んで引き寄せ、そっと口づけた。あたたかくて、柔らかい。オスカルも彼の胸に手をはわせて、彼の存在を確かめた。 彼の求めがだんだんと深くなる。彼女の中にそっと忍び込み、漏れる吐息さえ逃すまいとするかのように、唇全体を愛撫する。腕はしっかりとオスカルの背中にまわされる。 オスカルの手は、抱きしめている彼の首に回されて、せがむように、指が黒髪に差し入れられた。 二人の間に開いた隙間を、時間を埋めるかのように、互いに求め合う。まだこの国に国王がいた頃の赤い軍服と暗緑色のアビが、21世紀の現代で重なった。 ひとしきり口づけが交わされた後で、アンドレの腕の力が弱まり、互いの乱れた息が整うと、オスカルは決まり悪そうにして笑った。 「どうしてだか分からないが、こんな格好のおまえとこうしていると、倒錯した気分になる」 「倒錯……って。おれは、ずっと欲しかったものを手に入れた気がしているけど」 こんな風にお互いの想いを体で伝え合った後のオスカルは、あどけないほどに無防備で、そして男の欲情をかきたてる。 だからいいんだと、アンドレは思った。 自分の知らないオスカルがいたとしても、自分は、誰も知らないオスカルを知っている。 どこかで独特の短い節回しで鳥がさえずり始めた。 「ナイチンゲールだ」 アンドレが言ったとき、広場をほの明るく照らしていたライトが、突然消えた。庭全体が暗くなっていた。残っていた客たちのために点けたままになっていた灯火が一斉に消されてしまったらしい。 いきなり訪れた暗闇に目が慣れるまで、ふたりで黙って寄り添った。しばらくすると、近くのものなら十分に判別できるくらいには見えるようになった。 「うまく脱出できるかな?アンドレ」 何度か攻略したとはいえ、明るい時に見た風景と、暗がりで見るそれは、ずいぶんと違って見えるものだ。一本曲がり角を間違えれば、それだけで迷ってしまう。頼りは、時折、雲に隠れる月あかりだけだ。オスカルはアンドレの腕の中で夜空を見上げた。 「何なら、ずっと朝までここにいようか」 冗談だろとオスカルは笑い飛ばそうとしたが、アンドレは真面目な顔をしている。 「この姿のまま、もう少しいっしょにいたいんだ」 一人でこんな所にいたら、心細くて仕方がなかったかもしれないが、二人でいると、不思議と不安は襲ってこない。 二人はベンチに腰かけた。森に囲まれ、周囲には他に人家などない広大な敷地の中だ。月明かりはさやかだったが、照明も消されてしまっている今、夜空にはたくさんの星が見えた。 「アンドレ、見ろ。あれが北極星で、あれが、うしかい座のアルクトゥルス。おとめ座のスピカ、それに、しし座のデネボラ」 オスカルがアンドレの肩にもたれかかりながら、夜空の星を指でたどっていく。彼女の指が三つの星をつなげて、ゆるやかに三角形を描いた。 オスカルの指先を追って夜空を仰いでいたアンドレが、突然、笑い出す。 「なにか、おかしいことを言ったか?」 オスカルが不安そうに尋ねると、「ごめん、思い出し笑いのようなものだよ」とアンドレは謝った。 「今回は、何だかいろんなものに振り回されたと思ってさ」 打ち合わせがキャンセルになって、学校を飛び出したジョゼフを見つけて、それからアランに出会って、今はこうしてオスカルと星空の下、迷路の中に取り残されている。 自分の意思とは違うところで動く力に翻弄されたようだったが、その中で、大切なことも知った。 「こうして他に誰もいない所で広大な夜空を見上げたりしているとさ、自分なんてちっぽけに思えるし、神か、少なくとも人知を超えた力が存在しているのじゃないかと、そんな気がしてくるよ」 「うん……」 アンドレがオスカルの肩をしっかりと抱いた。オスカルは頭を彼の肩に預けた。 オスカルのやわらかな体が、アンドレの男らしい体に寄り添う姿は、どこか儚げにも見える。春の宵の肌寒さは、かえって、互いのぬくもりを感じさせた。 銀河系の端っこの小さな惑星に住んでいる、さらにちっぽけな存在にすぎないとしても、二人がいる場所が、彼らにとっては全ての中心に違いなかった。 オスカルは彼の腕の中で、体重をその胸に預けながら、夜空を見上げて再び目で星を追い始めた。 “しし座のレグルスに、そして……” そこから天頂の方に少し行った西の空では、カストルとポルックスの二人が瞬いていた。 “なんだ、そんなところで見ていたのか” オスカルは、覚えている限りのふたご座の星を見えない線でつなぎながら、隣のアンドレに身をすり寄せる。 アンドレは黙って、彼女を固く抱きしめた。 (了) Thank you for reading all !
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