Castor and Pollux





「なんだよ、確かめてもいないのに、こんなとこで一人わびしく呑んでるわけか!?」
アンドレに、アラン・ド・ソワソンだと自己紹介した男は、呆れ顔でそう言った。

声をかけてきた当初、アンドレは正直、かなり警戒心を抱いていた。一人さみしく杯を重ねている男に声をかけて来るのだから、その手の趣味かと思った。
「悪いが……」
個人の趣味嗜好は尊重したいが、自分はそうではないと、初めにきっぱり断っておくことが礼儀だと思った。
「この野郎!!おれのどこが……っ!?」
アランは青くなったり赤くなったりしながら怒り出した。
その様子があまりに素直すぎておかしくて、アンドレは笑い出してしまい、また「何がおかしい!!」と怒鳴られた。
「すまない」と、目尻に浮かんだ涙を指でぬぐいながら答えた頃には、すっかり警戒心はどこかに消えてしまっていた。この男は腹の中と行動が、どこまでも一致していそうな、嘘のつけない奴だと思った。
名乗り合ってから、仕事の話だの、どの辺りに住んでいるのかだの、支障のない程度に互いのことを話した。二人とも、この場で数十分か、あるいは数時間か過ごせるくらいに、相手のことを知っておけばよかった。
アランは、この辺りで運輸関係に就いていると言った。アンドレは、地下鉄やRERの駅が集中し、観光客も多い地区なので、鉄道にでも勤めているか、タクシーの運転手でもしているのかと想像した。
お前は?と尋ねられて、アンドレが「うーん、自由業……かな」と答えると、
「なんだ、その年でフリーターかよ。ちゃんと正社員にならねえと、彼女もできないぜ」
気のいい男だ。軽い口調だったが、アンドレの身の振り方をどこかで真面目に心配しているのが伝わって、彼は思わず苦笑した。
「……いることは、いるんだけどな」
歯切れの悪い口調だったので、
「振られでもして、やけ酒か?」
とアランが突っ込む。
「まだ、そうと決まったわけじゃないが……」
先ほどあおったスピリッツのせいか、ついつい口がすべる。アランのぶっきら棒な口調に潜む、優しさがそうさせるのかもしれなかったし、悶々と一人を貫きながら、どこかで誰かに話してしまいたいという気持ちが、アンドレにはあったのかもしれなかった。自分でも疑惑の領域を出ないことは十分に理解していた。だから、相談するなら、お互いの素性をよく知らない相手の方が都合がよかった。
彼は今日あった出来事をかいつまんで話した。仕事でパリを離れている彼女が、知らない男と一緒にいるのを見かけたこと。いつもなら真っ先に自分に連絡をくれるのに、今回はそれがなかったこと。

話を一通り聞き終わったアランが、「確かめてもいないのに……」と言うのも当然だった。嫉妬深い男が誇大妄想を抱いていると思われても仕方ないくらいだと、自分自身でも思う。
なぜ、こんなにも、その見知らぬ男のことが頭の中にこびりついて離れないのか、自分でもはっきりと説明できなかった。ただ、ジェローデルという男に会った時の感覚に似ていて、それが、理性が及ばない深い淵から立ち上ってまとわりついて来るのだ。
オスカルと出会う前、人並みに女性と付き合ったことはある。しかし、向こうから近づいて来ることが多かったせいか、相手の女性に執着することは全くなく、“冷たい”となじられたことさえあった。自然消滅か、相手が去っていくことで終わったが、アンドレが去っていく相手を追いかけることはなかった。
自分でも、女性を深く愛せない性分なのだろうと、半分あきらめていた。だが、オスカルは違った。彼女に対する強い気持ちは、自分でも驚くくらいだった。彼女だけが特別で、いわば特異点だった。それでも表現としては足りないかもしれない。――狂気の元だ。
ふと、もしかすると、オスカルほどにではないにせよ、前世の記憶が自分にも影響を及ぼしているのかもしれないと思う。だが、それを他人にどう説明すればいいのだろうか。科学全盛の21世紀に、“生まれ変わり”などと。きっと、頭がおかしいと思われるだけだろう。体験した者にだけしかわからないことだ。
アランに、「悩むなら、真相を確かめてからにしろよ」と言われたが、アンドレは何も言い返せずに、困ったように笑うしかなかった。しかし、心に溜まっていた澱を口に出してしまうことで、少しだけ気持ちの整理がついて、だいぶ楽になっていた。
「浮気するような女は、こっちから振っちまえよ。おまえなら、女なんて選り取り見取りだろ」
アランがアンドレの背中を景気よく叩く。
「それができたら、どんなに楽か」
そこまで惚れているのかと言われて、アンドレは迷うことなく肯いた。
「けっ、やってられねぇぜ!結局はのろけを聞かされただけじゃねえか。どれだけいい女なのか、お目にかかりたいもんだぜ」
いかにも女性にもてそうで、男の目から見てもいい奴そうだと思えるこの男が、そこまで惚れこむほどの女は、一体どんな風だろうと想像して、アランの脳裏にオスカルが浮かぶ。慌てて頭を振る。
「おまえは?そっちこそ、なぜ一人で飲んでいたんだ?」
今度はアンドレが尋ねる。
アランはそういう飲み方が好きなタイプには見えなかった。周りにはいつも仲間がいて、始終騒がしくしていそうな、そんな感じに見えた。
「おれか?おれは……」
ちょっと仕事で嫌なことがあってねと答えた後で、アランは、昼間の内規部長の執務室で取り交わされた会話を思い出していた。

“彼女の身辺で困ったことが起きていてね……”とブイエは言った。
アランは固唾を呑んで、次の言葉を待った。しかし、次に出てきたのは彼の期待していた言葉ではなかった。
「君には、学生の妹さんと、病気がちなお母さんがいるのだったね」
ちっ、よく知っていやがるぜと内心では毒づきながらも、「はい」とだけ答える。関心を引いておいて、はぐらかす。さすが長いこと情報対策室の上層に居座っているだけのことはある。いらつかせて人心を撹乱するテクニックには長けていた。
「君も顔に似合わず、大変だね」
顔に似合わずだけ余計だ、と思いつつ、アランはぐっとこらえる。ここで怒っては負けだ。
「……ジャルジェ君も、俗世の欲とは無縁ですと言わんばかりに、聖女のように涼しげな顔をしながら、なかなか大胆で、したたかなようでね」
ブイエはおもむろに立ち上がると、デスクの後ろにある大きく壁を切り取った窓の前に立ち、外を見下ろした。
「最近、ある外国人と頻繁に会っているようでね。男と女だ。社員の恋愛関係にまで立ち入る気はないが」
アランの眉がぴくりと上がった。
“だったら、放っておいてやれよ。なんでおれが、こんな所で、あの女の恋愛話を聞かされなきゃなんねぇんだよ!”
だんだん我慢ならなくなってきて、腹立たしさが顔に出てしまう。ブイエは構わずに話をつづけた。
「――この人物が、さる国の政治家で、父親がナショナル・フラッグキャリアの重役な上に、航空機と軍需品メーカーとも深いつながりがあるという事実がなければね。しかも、その男と会いだしてから、彼女の月当たりのフライト数が激減しているのだよ……。これだけ揃うと、きな臭いと思わんかね?」
内規部が動いているということは、彼女が何らかの情報をリークしていると疑っているのだろうか。ようやくアランに、ここへ呼ばれた主旨が見えて来た。
「調査部でも、引き続き彼女の動向を追うが、身近で様子を探る存在がいてくれると心強いのだよ」
内規部長は、そこで言葉を一旦切った。
「そこでだ、アラン・ド・ソワソン君。君も、彼女とは、あまりうまくいっていないようだし……」
確かに一年ほど前まで、アランは彼女にあからさまに反抗していた。今でも素直になれない自分がいる。それをこの狐のような男は、反対派だと捉えたのだろう。
ああ、そうかとアランはそこで、これまでの持って回った言い方にも合点がいった。わざと焦らすようにして彼の人物を確かめ、さらに、家族の話など持ち出して、断れないように釘を刺していたのだ。
彼は何も言わなかったが、それを承諾と取ったブイエは、さらに詳しい話を始めた。
「相手の男は、フェルゼンというスウェーデン人なのだがね……」

ぼんやりしているアランにアンドレが声をかけた。我に返る。
「かなり取り澄ました嫌な上司がいるんだが、そいつを追い落とす計画に加担しろと、さらに上の人間からもちかけられちまってね。権力争いになんぞ、巻き込まれるのはごめんなんだが」
簡単に説明してから、アランは手にしていたグラスをかなり乱暴に回した。カラカラと氷とガラスがぶつかる音がする。
「それで、引き受けたのか?」
アンドレが尋ねると、アランは頷いた。
「仕方ねえだろ、それが勤め人のつらいところなんだよ」
吐き捨てるように言う。
「意外だな」
アンドレは、氷が溶けて薄くなってしまったアルコールを喉に流し込む。
「……もし、おれが断っても別の誰かに声がかかるに決まってるんだ。だったら、おれが引き受けちまった方が、いざという時……」
ブイエはオスカルのことを心よく思っていない。調査部以外の人間を巻き込んでまでということは、この件で一気に追い落としを謀るつもりなのだろう。それならば、自分が味方であると見せかけて、逆に調査部側の動きを知っていた方が何かと都合がよい。
黙り込んだアランを見て、アンドレはくすりと笑った。
「おまえ、本当はその上司のことが好きなんだな。だから」
「ば、ばか野郎っ!!誰が、あんな奴!ああ、もうこんな話はやめだ、やめ!おい、バーテン、酒!今夜は飲むぞ!」
図星をさされたアランは、慌てて自分のグラスを空にすると、自分とアンドレにお替わりを頼み、腰を落ち着かせて飲むためにテーブル席に移った。
二人はそれから、“La Bonne Table”の文字が点滅する、店の看板の電飾が消えるまで飲み明かした。

共に酔いつぶれて眠ってしまい、「看板ですよ」と従業員に肩を揺さぶられて起こされる。アンドレはかろうじて目を開けたが、アランはいびきをかき、頬を叩いても一向に起きる気配がない。
眠りこけている男のちゃんとした住所は聞いていなかった。店にはこれ以上いられるわけもなくて、アンドレは仕方なく、自分と同じくらいの体格の男を重そうに店から引きずり出すと、タクシーを拾った。後部座席に正体のない男の体を押し込むと、自分も乗り込み、少し呂律の回らない口調で、カルチェ・ラタンにあるアパルトマンの住所を告げた。


それから、どうやって部屋に戻ったのかよく覚えていない。唇にしっとりと湿った何かが触れて、目が覚めた。まだ、視界がぼんやりとしている。唇を覆っていたものが、ゆっくりと離れた。彼は吐息をもらす。
「おまえ、酒臭いぞ」
そう言われて、一気に目が覚める。すぐそばに青い目があった。それは責めるような目つきをしていた。
「オ、オスカル!?」
アンドレは飛び起きた。
「ドアが少し開いていたので、入らせてもらった。こんな所で着替えもせず寝ているなんて、どうかしたのか?」
どうやら、彼はソファで寝ていたらしい。上背のある体を丸めていたせいか、体中が痛い。彼女は片膝をソファの上に乗せ、屈み込むようにして、彼を見下ろしていた。
「痛てて……」
おまけに二日酔いで頭痛までする。オスカルは、待っていろと言って、キッチンでコップに水を汲んで来た。アンドレはそれを飲み干す。体が水分を欲していたようで、それは一気に全身のすみずみまで染み渡っていく。オスカルが彼の背中にクッションを当ててくれた。それから、隣に座った。
「明日、帰る予定じゃ?」
アンドレが尋ねる。
オスカルは、予定よりも早く仕事が片付いたからと答えた。それから彼の額にかかった黒髪をそっと指ではらった。少し伏し目がちになった目を縁取る黒く長い彼女の睫毛が、かすかに上下しているのが美しい。今日はもちろんサングラスはかけていないし、髪も下ろしたままで、金糸の房が肩口で遊ぶように揺れている。
アンドレは、昨日のことを尋ねようかと思ったが、思い直した。こうして彼女は今、自分の目の前にいる。それでいいではないか。
オスカルが彼の胸にもたれかかって来た。髪をなでてやると、彼の胸の形を確かめるように手でなぞった。やがて、それは心臓の位置で止まった。
彼女が少し甘えるような仕草をする時は、疲れていたり、悩み事を抱えているときだった。彼は彼女の髪に口づけを一つ落とす。
彼の胸に体を預けたまま、彼女が言った。
「アンドレ、決まった相手がいるのに、それでも他の男性に惹かれてしまうというのは、それが運命の相手だからだと言われたのだが、どう思う?」
アンドレの体がこわばった。今の彼にとって、これ以上に思わせぶりな言葉はなかった。
「どういう意味だ?」
「聞いているのは、わたしの方だ」
オスカルの肩に添えられていた彼の手に力がこもる。
「アンドレ?」
「昨日、会っていた男は誰だ?」

それは、破綻につながる言葉だった。
言うまいと思っていたのに、彼の意思を無視して、口をついて出て行ってしまう。だめだ、止められない。腕の中のオスカルの気配が変わるのがわかり、それが、彼の胸を一層締め付けた。
「なっ……!どこで見ていたのだ?」
オスカルは彼から離れた。顔が青ざめている。
彼女の狼狽が、さらに彼を刺激した。
「オートゥイユ駅の近くだ。おまえ達は地下鉄の駅に向かっていた」
しまったというように、オスカルはうつむいて額に手を当てた。
「……今は言えない」
オスカルから、はっきりとした答えを得られないことが、彼の中で押さえつけられていた何かをさらに煽った。
「なぜ、言えないんだ!?」
「おまえには関係の無いことだ」
オスカルは、アンドレの表情から、彼が自分に疑いを抱いていることに気づいた。
「別に、やましいことがあるわけではない!」
「だったら……!」
「わたしが信じられないのか!?」
オスカルの方も声を張り上げる。
「信じようにも。……何も話してくれないのに、どうやって……」
アンドレは苦しそうに言葉をしぼり出した。
オスカルが立ち上がった。彼の顔に平手が飛んだ。
「わたしが信じられないと言うのならば、もういい!」
捨てゼリフを投げつけると、彼女はドアも閉めずに走って出て行ってしまった。
頬をはられて、一瞬で冷静になったアンドレだったが、後の祭りだった。追いかけようとするも、昨夜したたかに飲んだ酒のせいで、体がふわふわとして思うように動かない。足がもつれ、無様に床へ倒れこんでしまう。
彼女のヒールの音が遠ざかっていく。

寝室のドアが開いた。出てきたのはアランだった。昨夜、アランをベッドまで運んだ後、アンドレは、リビングのソファで休んだのだった。隣の部屋が騒がしくて、目が覚めたらしい。まだ意識がはっきりしていないようで、目をこすりながら、部屋の中を見回し、床の上に膝をついているアンドレに目を止めて、ようやく昨晩のことを思い出したようだった。
「あれ……?おまえ、アンドレ?ここはどこだ?どうしたんだよ、朝っぱらから」
アンドレはうなだれたまま呟いた。
「たった今、完璧に振られたかもしれない……」



(つづく)





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