不思議な鏡の力によって、精神だけ入れ替わってしまった二人のアンドレ。
21世紀から18世紀に飛ばされたアンドレは、自らのもつ、過去世の断片的な記憶や、服装、周囲の態度などから、直ちに自分が過去の自分と入れ替わったことを理解すると、過去にできるだけ影響を与えないよう振舞うことを心に誓う。
18世紀の自分に期待される役割を巧みに演じつつ、沈着冷静に情報を集めた彼は、おそらく鏡の前に、二人が同時に立つと入れ替わりが起こるという仮説を導くと、オスカルはじめ誰にも悟られることなく未来へ戻る道を探り当て、迅速に行動し――。

「……ちょっと待て。そのアンドレは、どこのアンドレだ?」
そこまで彼の話をおとなしく聞いていたオスカルが、口をはさんだ。
「誰って……ひどいな。おれに決まっている」
アンドレは、わざとらしく悲しそうな顔を作って見せる。
「では、百歩譲って、その超絶に素晴らしいアンドレ殿がいたとして」
オスカルは、まぶたを覆っていたアンドレの手を軽く払いのけた。「どのような方法で、再び入れ替わるのだ?」
「それは、やはりおまえが考えたように、未来にコンタクトを取るしかないだろう。それくらいは、思いつくさ」
それを聞いたオスカルは、アンドレから離れると、枕の上に肘をついて頭を乗せ、冷ややかな視線で彼を見上げた。
「……よかろう。ならば、その手段は?」
「うーん……やっぱりショヴィレの一族に手紙を託すのが一番か…な?その後の革命の混乱を思うと、公的な機関もあてにならないし」
具体的な部分まで掘り下げられると、アンドレの歯切れが悪くなった。オスカルが、皮肉っぽくにやりと笑う。
「その時点で、おまえはショヴィレ一族の存在を知っていたのか?」
「そ、それは……えと……周りの使用人仲間とかに聞けば……」
ここまで来ると、すっかりしどろもどろだ。
「彼らの存在は、決して公にできないものだ。当主と、そして連絡役となる腹心の配下しか知らないはずなのに?」
問い詰められたアンドレはすっかり沈黙してしまう。まるで、誘導尋問に引っかかって自白してしまった犯人のように、二の句が継げない。
「オスカル、これはゲームだから……ね」
雲行きが怪しくなって、アンドレはオスカルを懐柔しようとするが、彼女は不満げな態度を変えなかった。
「気に入らない」
オスカルは彼から視線を外すと、毛布のはしの毛羽立ちを指で弄び始めた。ベッドサイドに灯るガレのレプリカのやわらかな光に照らし出された彼女の顔は、いつになく子供っぽく、アンドレの目に映った。
「たしかに作家としては、矛盾だらけの話でいいのかとは思うけど、子供に聞かせるおとぎ話のようなものだから、もっと楽しんで――」
「楽しくない」
こうなると、さすがのアンドレもお手上げだ。彼女の気持ちをやわらげようとして始めたことだが、完全にやぶへびだったと後悔する。最後の手段になるが、下らない話をして悪かったと謝ってしまおうかと思い始めたところで、彼女が言った。
「わたしにも打ち明けられないのか?」
「え?」
唐突過ぎて、初めは彼女の言っている意味が、彼にはわからなかった。
「わたしは、わたしはおまえに打ち明けて、協力してもらったのに」
すねていた原因はそこかと、アンドレはようやく合点がいく。ごめんと謝ると、 「別に」と言って、彼女はふてくされて怒ったような顔をしてみせた。彼は、そっと彼女の前髪をかき分けると、額にくちづけした。それは、彼女が照れくさいときに見せる表情だと、アンドレにはよくわかっていた。
こんなときに幸せを感じるのはおかしいだろうか。彼女がこんな風に甘えるのは、自分だけだと知っているし、何より自分に対する独占欲が感じられるのが、アンドレには嬉しかった。彼は愛しげに、彼女の髪をなでた。
「たぶん、こちらから言わなくても、気づかれてしまうと思うよ。なにせ、ここが未来だと知られないために一芝居打ったつもりが、すっかり見抜かれていたものな」
彼女のくせの強い金色の髪は、シーツの上で乱されていて、時折、指に絡まる。
「その話、初めて聞いた」
「聞かなかったから」
アンドレがとぼける。
「言いたくなかったから、のまちがいじゃないのか?」
彼女にやり込められても、今は少しも腹が立たなかった。
オスカルも気がすんだらしい。少しだけアンドレの方に体を寄せ、彼の話に乗ってきた。
「わたしだけじゃなく、ル・ルーにも気づかれるだろうな」
「ル・ルー?」
人をくったところがあるのに、どうにも憎めない、不思議なかわいらしい女の子だよと、オスカルはル・ルーのくりくりとした、よく動く鳶色の瞳を思い出した。
「いずれにしろ」彼は、彼女のくせの強い髪を指に軽く巻きつけた。「早く帰りたくなるだろうな」
「どうして?」
「現代の生活に慣れていると、いろいろ不便だろうから!」
アンドレは適当に言葉を濁した。彼女がまた気にするから、本心は口には出さなかった。
“おまえに、こうして触れられないなんて、おれに耐えられると思うか?”
もし、今の自分が彼の立場に置かれたら、とても耐えられなくて狂ってしまうかもしれないとアンドレは思う。愛していると言うことすらできないなんて。
彼女はふかふかとした枕に頭を深く沈めて、気に入った人間にだけ、体に触れるのを許す気位の高い猫のように、今は彼のなすがままにさせている。
知らなかった頃には、もう戻れないと、アンドレは思う。
こうしてオスカルと愛し合う喜びを知ってしまった後では。


風は少し静かになって来たようだった。あれほどうるさく窓を叩いていた梢も、今は窓の外で眠たそうに、ゆらゆらと揺れているだけだった。
「ものはついでだ、もう一方のアンドレはどうしたと思う?」
だいぶ気はまぎれたものの、すっかり目の冴えてしまったオスカルは、愉快そうに空想のつづきを再開した。
「そうだな……」
おれは直接会ったわけではないから、おまえはどう思うと問われて、オスカルはしばし考え込む。
「彼も用心深くて、頭の回転は速そうだから、状況が把握できるまで、おまえのふりをするのではないかな?最初はさすがのわたしも気づかないかもしれん、うん」
彼女は一ヶ月ほど前に過ごした、彼との時間を思い出した。
物静かで、いつもそっと後ろに控えていてくれるような彼。彼女も18世紀のオスカルのふりをしようとしたが、彼には見事に見破られていた。
「最初はいつも通りに過ごしていても、しばらくすれば不審に思うだろうがな」
オスカルの髪をもてあそんでいた彼の指が止まった。しかし、自分の想像に夢中になっている彼女は、彼の気配がわずかに変わったのに気づかなかった。
「あちらのオスカルのように、こちらでは、見るもの聞くもの驚くことばかりだろうに、きっと、あいつは顔に出さないよう、必死になるんだ」
オスカルは頭の中で彼の顔を想像すると、おかしくなって、一人でくすくすと笑い始めた。
「おまえがしたように、やっぱり彼にあちこち見せて回りたくなるかもしれないなぁ……。でも、あいつは時間きっちりまで部屋の中で大人しくしているような気もするし、だけど――」
過去のアンドレのことを空想する彼女は、実に愉快そうだった。まるで彼のことなら全てお見通しだと言うように、次から次へと想像が広がっていく。
アンドレが彼女から手を離した。初めて、彼の様子がおかしいと気づいたオスカルが見上げると、少し厳しい表情をしている。
「アンドレ……?」
どうかしたのかと尋ねても、彼は答えない。
「なんだ、おかしな奴だな」彼女には、彼の表情が変わったわけが、さっぱりわからなかった。「おまえが始めたくせに」
アンドレ自身、とまどっていた。自分の中にわきあがった感情を言葉にするのがためらわれた。この“何となくだが、気に入らない”という気持ちは何だろう。彼女が話題にしているのは自分のことのはずなのに、他の男のことを楽しそうに話しているように感じて、やるせない。
「なんだ、嫉いてるみたいな顔をして」
オスカルは冗談を言ったつもりだったが、図星を指されて、アンドレはベッドから立ち上がった。
やっとアンドレが何を思ったかをオスカルは覚る。「おいおい、嘘だろう?」彼女は笑い出した。自分自身に嫉妬するなんて、考えられないし、おかしすぎる。
アンドレがオスカルに背を向ける。
「もう大丈夫そうだから、仕事して来る」
声が怒っていた。オスカルはしくじったと思ったが、引き止める間もなく、彼は背を向けて、すたすたと部屋から出て行こうとする。
オスカルはベッドから慌てて飛び降りると、彼の背中に抱きついた。
「ばかだな」
彼の体に手を巻きつけ、背中から彼の体の中に声が響くように、彼女は言った。
「ばかだよ」
彼は振り向かなかったが、声はもう怒ってはいなかった。
「しばらく、こうしていたい」
彼女が言うと、彼は黙って自分の体に回された、彼女のほっそりとした、しなやかな両手を大きな手で包み込んだ。

こうして、甘えたりすねたり、行き違ったり喧嘩したり、許しあったり、抱きしめたり、抱きしめられたり。
それは、何の変哲もない、ありふれて、ありきたりなこと。

「昔のわたしは」オスカルはアンドレの背中に強く頭を押し付けた。「どうしてもっと早く、大切なことに気づけなかったのだろう」
こうしてアンドレの広い背中のぬくもりに触れていると、あの時の二人の微妙な距離感が、ひどくもどかしく感じてくる。だが、彼にそれを強いていたのは、おそらくは、主人であったオスカルの方だ。
唇を重ねた自分を突き放した彼。いつもそばにいるのに、常に少しだけ距離を置いていて。
そのくせ、別れ際に愛の言葉を乞うた彼。たとえ嘘でもよかったのだろう。
再び、梢がガラスを叩いたので、オスカルは窓を見た。
黒い夜の色をした空のせいで、鏡のようになったガラス窓には、一対の男女が映っている。
男はただ黙って立っていたが、女の青い目は自分を鋭い目で、責めるようにして、じっと見つめていた。
オスカルには、あの事件以来、自分を苛んできたものの正体が、ようやく分かったような気がした。

「彼は、彼はわたしに“愛していると言ってくれ”と頼んだんだ。言葉だけでいいからと。でも、わたしは言えなかった」
オスカルの声は、告解する人のように、かすかに震えて、か細かった。
「どうしても言ってやれなかった。言葉だけでいいなんて、そんな残酷なこと。だけど、わたしは一つ、言い忘れていた。今、わかった」
アンドレは、彼女の手をきつく握った。
「わたしは意地っ張りで、自分本位で、わがままで。そして、おまえはいつも決まって優しすぎるから。だから、言いそびれてしまった」オスカルが肩を震わせた。「“すまなかった”の一言を――」
夢の中で見る、銃弾を受けたときの彼の見開かれた目と、額から口元から流れ落ちる鮮血が思い出される。夢よりも鮮やかに、そのシーンがオスカルの脳裏に再生される。
彼が見えない目を押し隠して戦場について来たことを責めたのに、彼はそれでもなお、こと切れる瞬間を自分に見せまいと、自分を遠ざけ、そして、微笑むような顔で逝ってしまった。
最後まで彼は彼らしくて、だからこそ、言えなかった。

アンドレが、自分にしがみついている彼女の手を、とんとんと軽く叩いた。
「そんなこと。さっきも言ったろ?おれには言わなくてもわかるんだって」
オスカルは、しっかりと彼に体を押しつけた。そばにいることと、生きている温かさを感じたかった。生命の証の脈動は確かに響き、少しずつ速まっていく。
突然、浮遊感がおそった。
アンドレが、彼女を横抱きにして抱き上げていた。そのまま、まっすぐベッドに運ばれる。
そっと下ろされるのかと思った。だが、予想に反して、スプリングが軋む音が聞こえるほど、少し乱暴にシーツの上に下ろされた。
さらに、彼はおおいかぶさるように、のしかかって来ると、頬や耳朶、そして首筋に何度も唇を押し当てて来た。
「おい、アンドレ、ちょっと」
彼の肩を押す。有無を言わせないような男の行動に、オスカルは反発して抵抗を試みるが、それが空しいことも、そして自分が本気でないことも、十分にわかっていた。
「中身はおれなんだし、おれの体だし、ちょっとはいい目を見せても、よかったかもな」
「なっ……!」
抗議しようとして開いた、彼女のほころんだばかりの薔薇の花弁のような唇をとらえて、彼が侵入してきた。もう一度、形ばかり彼の肩を押してみせるが、もちろん彼の体はびくともしないし、次第に腕に力が入らなくなってくる。
癪に障る。
いつも自分がリードしているように、この関係の主導権を握っているのはおまえだと思わせているくせに、肝心なときには、強引なまでに自分を押し付けて翻弄する。なのに、嫌悪感を抱かせない。そして、自分の罪悪感まであっという間にぬぐい落としてしまっている。
ずるい。
だから抵抗してみせる。
ひとしきり口付けられて、彼がわずかに彼女を解放したすきに、深くため息をついてみせた。まだ皮肉が口をつく。
「父親の気分では……?」
「とっくに恋人の気分に変わった」
彼の黒く濡れた瞳に、少しだけ不安がよぎるが、彼女の瞳の奥を見透かすように覗き込んで真意を見抜くと、彼は、最後の抵抗力をも奪ってしまうような、極上の笑みを浮かべた。それから、彼女の胸元に手を伸ばした。着衣をくつろげ、肩からすべらそうとする。
「おい、しめきりは?時間がないのではなかったのか?」
本気で心配になってオスカルが訊いた。
「大丈夫……。おまえと話していて、アイデアは思いついたから」
そう答える合間にも、何度も彼女の体にくちづけし、いくつもの夜を重ねて、彼女を知り尽くした手が這っていく。
少し触れただけで、彼は、体の奥深くにまで忍び込んで、そして、オスカルの中に眠る埋め火を、いとも簡単にかきたててしまう術を知っている。
オスカルが必死に意識をつなぎとめて訊いた。
「……どんな?」
彼は答えた。
「内緒」



アンドレの原稿が無事、編集者の手元に届いたとして――。


雑誌が刊行される頃には、パリに遅い春がやってくる。

二人が迎える二度目の春は、きっと鮮やかに。




(了)


このエピソードは、読者の方からの「もし、入れ替わったのがアンドレだったら、どうなるか読んでみたい」というご感想に着想を得て、作りました。
ご意見をいただいた方、ありがとうございました。
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