何度冷たくあしらわれても、彼女をあきらめず、未だにアプローチを続けているあいつにも、折にふれて話の中に出てくる、彼女に好意を寄せているらしい生意気な後輩にも――オスカル自身は、彼の気持ちをまるで気づいていないらしいのだが――負ける気がしたことは一度もなかったが、この時ばかりは一瞬、勝てる気がしなかった。


昨夜から泊まりに来ていたオスカルを送るため、昼近くになって外に出た。おれの住んでいるアパルトマンの庭を抜け、通りにつながる戸口の前で立ち止まる。彼女が名残惜しそうに、おれの顔を振り仰ぐので、先ほど部屋を出る前にくちづけを交わしたばかりなのに、ここでもまた別れ際の互いを確かめるように、吐息を交し合う。厚い灰色の雲におぼろげに浮かぶ太陽からの光は、冬の大気を暖めるにはか弱すぎて、余計に肌のぬくもりを求めてしまうのかもしれない。

くぐり戸を抜けて道路に出る。石畳は昨夜降った、みぞれ混じりの雨の名残で黒く湿っていた。
彼女の肩を抱きながら、通りの歩道を歩く。彼女がここでいいと言って、おれから離れて歩き出そうとしたとき、二車線道路の向こうから、誰かが道を横断して近づいてくるのが見えた。この時間はいつもなら車の往来がかなりあるのだが、珍しく通る車もなく、全くの偶然だろうが、まるで彼の行く手を阻まないように遠慮しているかのようだった。
紺を基調にした制服の上に、短い毛足の毛皮のコートを羽織った少年は、金色の巻き毛を揺らしながら、悠然とした物腰で、まっすぐ彼女に近づいていく。確かな足取りと、背筋がまっすぐなのが、見ていて心地よい。その胸元からは、某私立校の校章が見え隠れしていた。フランス人なら地方在住であろうが、海外領土在住であろうが、知らぬ者はいないであろうと言われている、エリート養成の超有名校だ。
「これは。どうかいたしましたか?このような所に」
オスカルの方から声をかける。どうやら、彼女の知り合いらしい。
「やあ、オスカル・フランソワ。ご機嫌はいかが?」
彼は優雅に片手をあげて挨拶すると、彼女の前に立った。青く澄んだ瞳に、少年期特有のいたずらっぽさを浮かべている。無条件に未来を信じられる強い輝きは、分別や自分というものを知ってしまった大人には、ときに眩しすぎることがある。
並んでみると、彼とオスカルではかなりの身長差があった。少年は内緒話でもしたいのか、顔を近づけるよう、彼女に向かってジェスチャーで合図した。
オスカルは何の疑問も抱かず、言われるがままに顔を近づけた。
すると、少年は細い腕をすばやく彼女の首に回したかと思うと、そのくちびるを鮮やかに奪い盗った。何が起こっているのか、彼女が理解する間も与えないで。

もちろん、おれも唖然としたまま動くことができなかった。一瞬の出来事だったし、まさか、年端もいかない少年がそんなことをするなんて、夢にも思わなかったからだ。
やっと解放された彼女は、ただ目を丸くして少年の顔を見つめている。
彼は愉快そうに彼女の表情を確かめると、今度はおれの方に、つかつかと歩み寄って来た。
「はじめまして。君がアンドレ・グランディエだね」
高貴さを感じさせる唇で、にっこりと微笑む。
「覚えておいて。ぼくはまだ7つだから、彼女を幸せにはできないけれど、10年たったら正式に申し込むつもりだから」
不敵なセリフを突きつけられても、不思議と不快さを抱かないのは、その大人びた言葉使いや態度と裏腹の、可愛らしい容姿と子猫のような仕草のせいだろうか。
気圧されたおれは、一言も返すことができなかったのが悔やまれる。
きっと、天使に笑顔で引き金を引かれてしまったら、こんな気分になるのだろう。

「ではね、オスカル!また」
彼は、オスカルに無邪気に手を振ると、やって来た時と同じ足取りで道路を渡り、停車していた黒塗りのリムジンの蔭に消えた。白い手袋をはめ、お仕着せをまとった良家の使用人然とした男が、後部座席のドアを開け、少年が乗り込んだのを確認してから、バタンとドアを閉めた。数秒の後、車はウィンカーを出すと、滑るようにして発進した。
後部座席の窓ガラスが下り、少年がオスカルに向かって手を振った。オスカルもつられて思わず手を振り返す。

しばしの沈黙の後。

「アンドレ!い、今のは……?いったい、いったい何だったのだろうか!?」
いつになく動揺した彼女が、おれに問いかけて来た。正直、おれの方が聞きたいくらいだ。
「知っているのか?あの子を」
おれが尋ねると、彼女はうなずきながら、まだショックから醒めやらぬような顔で答えた。
「ああ、よく知っている。赤ん坊の頃から。うちの会社の御曹司で、ジョゼフ・グザビエという子だ」
ときどき社長宅に呼ばれたり、パーティーで会ったりすると、遊んでやったりしたものだが、と彼女は付け加えた。


人間は、「先天的な資質」と、「後天的な教育と努力」の賜物であるという意見に、おれも賛成だ。
彼はそういう意味で、どちらにも恵まれているであろうことは、このわずか数分間でも十分すぎるほどに感じられた。
人間は努力によって磨かれるものだが、万人に与えられるものではない、生まれながらの特別な資質というものも歴然としてあるものだと、個人的には思う。
彼は明らかにそれを持っていた。人の上に立ち、君臨する王者になるための資質。
突然の出来事だったせいもあるが、ただ事態を見守るしかなかったのは、その言動には有無を言わせない何かがありながら、どこか反発を感じさせない不思議な魅力に包まれていたからだ。

それは、オスカルの持っている資質と、どこか同じ匂いがした。

「アンドレ?」
彼女が不安そうにおれを見つめていた。何でもないよと笑ってみせたが、正直な話、彼はおれの心から常に消えない、不安という名の傷をひっかいた。
「何でもない」
もう一度、同じセリフを繰り返すと、おれは彼女を安心させるふりをして、引き寄せて抱きしめた。
こうして腕の中に確かに彼女はいるのに、いつか誰かに奪われてしまうのでは、この手を離れて行ってしまうのではないかと、漠然と思うことがある。自分でもおかしいと思うのだが、何か個人の力では越えることができない絶対的な力に引き離されそうな気がするのだ。
自分の中の不安を払拭するように、腕に力を込める。
オスカルが身じろぎする。おれは少しだけ力を緩めるが、またきつく抱きしめた。さっき目の前に現れた、超強力ライバルだけではない。誰にも彼女を奪われないよう、彼女がいつまでもおれの側にいてくれるよう、願いを込めながら、きつくきつく。




―――彼女は決して渡さない。例えそれを求めるのが神だろうと。






(了)