注)わずかですが、大人向け表現、男性側からの暴力的な描写がありますので、苦手な方はお読みにならないようお願い申し上げます。 パリの空は快晴で雲一つなく、地上59階からの眺望は見事としか言い様がなかった。 オスカルがパリの街を一望したいと言うので2人はその日、モンパルナスを訪れ、ランドマークであるモンパルナス・タワーに昇っていた。 210メートルの高さを誇るタワーは、ほとんどがオフィスとして使われているが、56階と59階はテラスになっており一般に開放されている。 59階のテラスはいつも強い風が吹いているが、天気のよい日はその眺望とあいまって実に気持ちのよい場所である。今日は東にはセーヌ川の向こうに広がる緑豊かなブローニュの森、北に目を移すと白いサクレ・クール聖堂までが見え、透けるような水色の中空には、真昼の白い月が太陽の明るさに気後れしたような顔をして丸く浮かんでいた。 「あ、飛行機が見えるよ。あの方角はオルリー空港かな?」 アンドレが額に手をあて、陽光を遮るようにして彼方を見つめて言った。 返事がないのでオスカルの方を見ると、彼の言葉が聞こえなかったのか、全く別の方向を眺めながら、ぼんやりとしている。風に乱された金色の髪が頬や額にまとわりつくのを気にも止めずに。 「どうした?」 オスカルのすぐ後ろまで近寄って声をかけると、彼女は、はっとしたように振り向いた。 「あ、すまない。何か言ったか?」 先日の電話ではずいぶん元気そうだったのに、今日は会った時から口数が少なく、ずっと浮かない顔をしている。夢の話を打ち明けてくれたものの、まだ肝心なことは話そうとしない彼女にアンドレは距離感を感じていた。 オスカルは夢の中の出来事を思い返していたのだった。 チュイルリー公園で白昼夢を見たあの日から、毎夜オスカルは夢にうなされるようになった。夜中に目を覚ますことが多くなり、朝まで眠ってもかえってぐったりと疲れてしまう。 夢は一夜ごとにより現実味を帯びていった。初めはスライド写真のように断片的だった画像が、時間軸を帯びて映画のように滑らかな映像となり、それに伴って、よりリアルな感覚が彼女を苛んだ。 2人がたった一度だけ結ばれた夜のことも夢に見るようになった。 耳元にかかる彼の吐息、体の重み、汗ばんだ肌。体中に彼がつけた痕のかすかな痛み。自分の中に入って来た、彼の熱さ。 その全てが薄れる暇もなく、彼は翌日戦死する。 心臓をひきちぎられるような痛みで目が覚めた時には、ひどい寝汗をかいており、すぐには現実に立ち返ることができない。自分が今どこにいるのか認識するのさえ時間を要した。 ここ2、3日は仕事に差し支えるからと処方された睡眠薬を服用しているので、夢も見ずに眠れるようになったのだが、先ほどのように、ふとした瞬間に夢の中の出来事を思い出してしまう。 「いつもオスカルはこんな風景を上空から眺めているんだな」 すぐ傍に聞こえるアンドレの声で、再び現実に引き戻される。 「あ、ああ。でもこんな高度では窓外を眺めている余裕はないからな。今日はゆっくり見たかったんだ。………パリは美しい街だな……フランスは美しい」 オスカルは万感の思いを込めるように言った。 「そうだ、この間行けなかった香水博物館、あそこへも今度行こうな」 アンドレの方を振りかえって言う。 「あれはいいんだよ。また気分が悪くなっても困るだろ」 アンドレが首をわずかに振った。もともとオスカルを休ませるために言ったことだ。だがオスカルはかえってむきになって、どうしても行くと言い張る。 「マドレーヌ大通りの方から廻れば大丈夫だから。アンドレ、香水に興味があるのは故郷の影響か?」 アンドレが試験管でも持つかのような手つきをして答えた。 「実際に自分でも調合してみたことがあるんだ。おやじが、香水作りの基礎を教えてくれて。道具と材料さえあれば今でも作れると思う。パリに出て来てからも新作の香水が出れば、ついついチェックに行って、化粧品売り場の販売員に顔を覚えられたよ」 オスカルが今日初めてクスリと笑った。 「親父はおれに同じ道を歩んでほしかったみたいだけど、今の仕事の方が性に合っててね。最終的には応援してくれるようになったが」 アンドレが遠い故郷が見えるかのように、はるか南に目を凝らした。 「いつかオスカルを連れて行って見せてやりたいよ。どこまでも広がる、色とりどりの花畑を」 それを聞いたオスカルは、少し困った表情をした後、俯いて曖昧に返事を濁した。 アンドレは慌てて話題を変えた。 「そういえば、今日の香水は……ランテルディ?」 オスカルのつけている香水を当ててみせる。オスカルが感心したように、当たりだと言った。 「"だめ"か。はは……」 アンドレが自嘲気味に笑った。アンドレの笑いの意味にオスカルはつゆほども気づかず、香水の話題を広げ出す。 「香水は母や姉達がプレゼントしてくれるからたくさん持っているが、フライト中NGなのは、ゲランとレブロンだ。パイロットも船乗りと同じで縁起をかつぐんだ。何しろ常に危険と隣り合わせの仕事と言えるからな。」 わかるか?と試すかのように彼の顔を上目遣いで見たが、アンドレは即座に答えた。 「ボル・ド・ニュイ(夜間飛行)とタービュランス(乱気流)か。乱気流はわかるけど、夜間飛行はなぜだ?」 オスカルが少しだけ勝ち誇ったように言う。 「あの香水はサン=テグジュペリの『夜間飛行』へのオマージュで発表されただろ。彼の作品は愛読しているが、飛行士としての腕はかなりお粗末だったようだからな」 納得したアンドレが、ハイテク時代でもそういうジンクスとか、おまじないみたいなのは変わらないんだな、とおかしそうに笑って、 「そうだ、うちに『夜間飛行』の初版本があったっけ。初めて賞金をもらった頃に偶然古書店で見つけてね。それにつぎ込んで、全部消えた」 大げさに両手を広げて見せる。それを聞いたオスカルの顔が輝いた。 「本当か!?すごいじゃないか。見たいな。今からおまえの部屋に見に行っても構わないか?」 「え……?おれの部屋に?」 アンドレは躊躇して今度持って来るからと説得しようとしたが、オスカルは頑として譲らない。どうしても今日見たいと言う。 「それに、おまえがどんな所に住んでいるのかも一度見てみたい」 しばしアンドレは迷っていたが、ずっと暗い表情をしていたオスカルが瞳を輝かせているのを見ると断りきれず、2人はタワーを後にして彼のアパルトマンに向かった。 アンドレのアパルトマンは、カルチェ・ラタンのパンテオンの裏手にあった。 通りから、扉を開けてレンガ造りの壁の中に入ると、そこにはささやかながら中庭があり、何種類かの広葉樹が植えられていた。今はすっかり葉が落ちてしまっているが、夏には気持ちのよい木蔭をつくって住人達を酷暑から守るのだろうことが想像された。小さいが手入れのゆき届いた花壇もあり、今は何も花が咲いていなかったが、新緑の頃には絵本の挿絵のよう可愛らしい風景になるのだろうとオスカルは想像した。 中庭を挟んで2棟の同じベージュ色をした建物が立っていたが、アンドレの部屋は左側の棟の1階にあった。2階から7、8才くらいの男の子が二人、じゃれあいながら駆け下りて来て、やぁ、アンドレ!と対等な口をきいて、そのまま通りに駆け出して行った。以前メールに書かれていた子供達だろうか。 「散らかってるけど、どうぞ」 アンドレの部屋は廊下のつきあたりにあり、一人で住むには十分な広さだった。玄関の先に広めの居間兼キッチン、居間の両側に部屋がひとつずつあった。男性が一人暮ししている部屋にしてはずいぶん整然と片付けられている。 「きちんとしているじゃないか。いつもこうなのか?」 オスカルが感心したように言うと、アンドレがソファの上のクッションの位置を直しながら言った。 「母親の体が弱かったから、おばあちゃんに厳しく家事を仕込まれてね。おかげで一人暮しでも不自由しないよ」 祖母はまだ健在で、故郷で両親と暮らしているのだという。 「適当に座ってて。確かこっちの部屋の奥にしまい込んでたと思うんだけど……」 アンドレはモスグリーンのソファを指し示すと、右側の部屋に入って行った。 オスカルはソファに腰掛けて居間全体を見回した。決して高級ではないが統一感をもたせて買い集められたことが感じられる家具たち。そして、キッチンの使いこまれた鍋などの調理道具からは、彼の地に足のついた生活ぶりが伺えた。シンクの上にある小窓には目隠し用のカフェカーテンがかけられていて、そこから温かな日差しがさしこんでいる。 アンドレがなかなか戻って来ないので、オスカルはソファから立ちあがると、わずかに開いていたドアの隙間から、彼が探し物をしている部屋を覗き込んだ。 部屋は、壁面が全て本棚になっており、そこに本がびっしりと並べられていて、窓も塞がれてしまっているせいで薄暗い。そこに収まりきらずにはみだした本は、まるで蟻塚のごとく、床の上にいくつもうず高く積み上げられていた。 「うわっ!すごい本の山だな。一体何冊あるんだ?」 オスカルが思わず声をあげると、部屋の奥の方を探していたアンドレが、 「入って来ちゃだめだってば!埃だらけだし、本が崩れるから」 そう言ってオスカルを追い出した。 オスカルが今度は行儀よく黙って座っていると、ようやく見つけ出した木箱を持って、アンドレが戻って来た。彼女の横に座り、オーク材の小さなテーブルに、それを置く。 オスカルが箱に結んであった紐を解き、中から本を取り出した。大事そうに持ち上げて皮装丁の表紙をしげしげと見つめる。そっと開くと、ひときわ大きな活字で印刷されたタイトルの下に、"Edition Originale(初版)"の文字があった。1ページ1ページ愛おしむようにようにめくっていく。 装丁の見事さには、持ち主だった人物の並々ならぬ作品への憧憬を、書体やページごとの割り付けには出版社のこだわりを感じた。当時は、よほど売れる自信がなければ入れなかった"初版"の文字をあえて入れてあるということは、作者はこの作品に並々ならぬ自負を持っていたのだろうことも伺える。 数ページめくったところで感極まったように大きく息を吐いたオスカルは、そっとテーブルの箱に本を戻した。これ以上は、さまざまな人々の思いがつまったこの本を損ねてしまいそうで怖かった。 「もういいの?」 アンドレが尋ねると、 「うん。やっぱり見せてもらってよかった。ありがとう」 そう言ってアンドレの方に木箱を押しやった。アンドレが箱の蓋を閉じ、再び紐を丁寧に結んでいると、オスカルがちょっとした気まぐれで、ある男の名前を出した。 「そうだ、この本の話は、ぜひともジェローデルにしてやらなくては!あいつ、すました顔して内心悔しがるぞ。『夜間飛行』は暗記するほど読んだと言っていたし、『星の王子さま』は眠る前の愛読書らしいからな」 "『星の王子様』"以下の下りはオスカルが誇張した作り話だったが、実際ジェローデルとは文学談義に花を咲かせることがしばしばあったし、彼もサン=テグジュペリのファンであることは嘘ではなかった。 だが。 "ジェローデル" その名を聞いた途端、アンドレの脳裏には見たこともない男のイメージが浮かんだ。 亜麻色の髪をした貴族的な顔立ち。鳶色の瞳は感情を映さないため、何を考えているのか計り知れない。アンドレはかつて、そのような男の姿を目にしたような気がした。 その男が、オスカルの背中に手をあてて、にこやかに微笑みながら、自分の元から連れ去ろうとするイメージが浮かぶ。 手を止めて下を向いたまま黙りこくっているアンドレに、ようやく気づいたオスカルが、どうしたのだと訊く。 「どうして、あいつの名前を出すんだ?」 アンドレが、オスカルの聞いたことのない暗い声で問いかける。オスカルには一体何を尋ねられているのかわからない。"あいつ"とは誰のことなのか。ジェローデルとアンドレは面識がないはずだ。なぜ彼がそんな風に言うのか。 混乱して黙ってアンドレの動静をうかがっているオスカルに、苛立ちを募らせた彼が畳みかけるように言う。 「いつも、いつも……!」 アンドレは、自分でも何を言出すかのと驚きながら、口をついて溢れ出した言葉を止められない。 彼女はいつも…………。 セーヌの川岸で見つめ合った時のように、彼女の部屋の前で二人っきりになった時のように、蒼い瞳を揺らめかせ、誘うように見つめてくるかと思えば、手を伸ばそうとした瞬間、するりとかわしてしまう。 妖艶さを見せた次の瞬間には、無邪気でいとけない顔に変わるから、伸ばしかけた手を引き戻して作り笑いを向けざるをえなかった。 ちがう。その時だけではない。ずっとずっと長い間―――。 次の瞬間。 アンドレは彼女の肩を乱暴につかんで引き寄せた。強引に唇を奪って、黄金の髪ごと力を込めて抱きしめる。 オスカルがアンドレの肩先を押して抵抗するが、彼女の拒絶を感じれば感じるほど、このまま自分のものにしてしまいたいという欲望が燃えさかった。いや、他の男に触れさせたくなくてと言った方が正しいかもしれない。そのまま体重をかけて彼女の体を押し倒す。唇を解放したくちづけが、彼女の白い首筋から鎖骨に滑り下りて行った。オスカルは突然の出来事に声をあげることもできない。 アンドレの手によってブラウスの胸元が開かれる。くちづけが胸元を捉えようとした時、オスカルが悲鳴をあげた。 その刹那。 組み敷かれた女も、のしかかる男も同じことを感じた。 以前、こんな場面を演じたことがなかったか。 抱えきれなくなった思慕、ただ溢れ出す言葉、一筋の光明もない嫉妬。 怯えきった顔、強く抱きしめられてしなる背中、一方的に求められて流した、涙。 「おれは何を……」 我にかえったアンドレがオスカルから体を離した。彼女は青ざめた顔をして、目を見開いてアンドレの顔をじっと見つめている。 「すまなかった…」 アンドレが謝ると、オスカルの目から涙が溢れ出した。 「ちがうのだ、アンドレ。あの時とは違う。だけど、だけど…ひとつになって……それから、おまえとまた引き裂かれたら、私は私は………!」 夢の中の自分のように、あの小説の女のように。 狭いソファに乱された金色の髪。自分が乱した着衣。白い頬を伝う幾筋もの涙。両手を顔にあてて震えている、痛々しいほどの彼女の姿に、いたたまれなくなったアンドレはドアに向かい、その前で立ち止まると言った。 「失うのが怖いからと言ってそのまま一生を終えるのか?」 彼の責めるような口調をオスカルは初めて聞いた。 「明日に約束も保証も何もないけど、おれはオスカルといっしょにいたいと思っている」 ギイと軋んだ音を立ててドアが開いた。 「2、3時間出て来るよ。落ちついたら出て行ってくれ。本当にすまなかった……」 両手で顔を被ったまま、オスカルはアンドレが部屋を出ていく気配を感じていた。 (つづく) |
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