A.R.1225便がタッチ・アンド・ゴーを試みたのは、現地時間18:03のことだった。一度着地して、そのまますぐに離陸する。訓練でもよく行われるが、車輪故障の場合、地面についた時の振動でギアが落ちることがあるので、この方法を試してみる手順になっている。
「やっぱり……ダメですね」
アランがディスプレイを確認し、ため息まじりに言う。無駄かもしれないとは思っていたが、やはり多少の期待はあった。
「そうがっかりするな。はなから覚悟はできているのだから」
緊張の糸が一本ぴんと張り詰めて、わずかな感情の乱れすら感じさせないオスカルの横顔は、造詣の美醜を超えた美しさをたたえていた。おそらく彼女の中に微塵も迷いがなくなったせいであろう。
既に滑走路近くには、化学消防車2台と救急車1台が待機していた。地上の人々も固唾を飲んで見守っている。

オスカルが機内アナウンスで、これから胴体着陸に移るが、十分に訓練を積んでいる上に、機体はそれに耐えうるよう設計されていることを丁寧に説明した。5分以内に着陸を行うので、慌てず備えてほしいと頼み、アナウンスは終わった。
だが、今回の乗客は一筋縄ではいかない人物である。いばりくさっているくせに小心者のローアン大司教は、今の降下と急上昇だけでも肝を冷やしたようで、ひどく取り乱して、顔を赤くしたり青くしたりしながら喚き散らし始めた。
「き、機長を呼べ!なぜ地上に降りたのにまた飛び立つのだ!?ちゃんと降りられるのか!?直接説明させろ!わしはまだ死にたくないぞ……!!」
機体の故障が知らされた時も顔面蒼白になってガタガタ震えていたが、ジャンヌが言葉を尽くして説明し、何とか落ちつかせた。だが、実際に事が起こってみると耐えられなくなってしまったらしい。
「ローアン大司教様。さきほども申し上げましたように、当機の機長はフランスでも屈指の腕でございます。何も心配なさることはございませんわ。さ、お膝のクッションに頭を置いて、低い姿勢になって下さいませ。危のうございますから」
ジャンヌが内心のいらだちを押さえ、安心させようと懸命になるが、機内アナウンスの内容も耳に届かないほど取り乱しているローアン大司教には、彼女の言葉は意味をもたないようだった。
「お前ごときに何がわかる!!機長が来ないなら、こちらから会いに行ってやるわ!」
まもなく着陸だというのに、シートベルトを外して立ち上がろうとする。事態を悪化させていることに本人は全く気づいていない。時間が迫る。ジャンヌの忍耐も限界だった。
どんな状況下でも、あくまでも自分の気持ちを優先させようとする、傲慢なほどのわがままさ。他人への敬意などひとかけらも持ち合わせていない倣岸さ。

突然、ジャンヌは司教服のスタンドカラーの辺りを掴んだと思うと、自分の方に向けて引っ張り上げた。
「あんたねぇ、こっちは無事着陸できるように、みんな自分のなすべきことを必死でやってるんだよ。こんな時、神に祈ることもできないの!?それがあんたの仕事でしょうが!まがりなりにも大司教を名乗ってるんだろ?喚いてる暇があったら、ここにいる全員の無事を神に祈ってな!」
そうタンカを切ると、シートベルトをかなり乱暴に締めなおし、クッションに丸い頭を押さえつけた。
ジャンヌの迫力に、大司教はそれきり借りて来た猫のようにおとなしくなり、おつきの者達も今は逆らうべきではないと判断したのか、声をあげる者はいなかった。
とうとうやってしまったと、ジャンヌは心の中で舌打ちしたが、のんびりご機嫌をとるゆとりは残っていない。
"こっちはクビを賭けてきっちり仕事してるんだから、そっちもしっかりやって頂戴よ"
自身も着陸の衝撃に備えてシートに体を固定し、前傾姿勢を取りながら、オスカルに後の全てを託した。


180度遮るもののないコックピットの窓から見える空は、西は茜に染まり、東は既に深い藍色に染まっていた。オスカルが呟く。
「一時間の遅れが痛いな」
出発の遅れが響き、パリは夕闇に包まれようとする時間帯だった。胴体着陸の場合、通常の計器に頼った着陸ではなく、有視界飛行といって、パイロットの目視による操縦に切りかえる。夜陰はこの場合、障害にしかならない。
黒い滑走路沿いに灯されたランプで位置は確認できるが、地面との微妙な距離感が取りづらくなる。
「アラン、よく見ておけよ。一度しかやらないからな」
右隣のアランが頷いて、それからオスカルの見つめる先へ視線を移した。
覚悟を決めて機首を下げる。いよいよ勝負だ。地上では待っているひとがいる。


A.R.1225便は、先ほどと同じく、一番東にある滑走路へ南側からアプローチを始めた。ここが最もターミナルから遠く、万が一の時も被害を最小限に留めることができる。
オスカルは操縦桿を微妙に操作し、しっかりと姿勢を保つ。速度は245km/hまで落とした。いよいよ接地だ。
闇のベールに包まれようとしている地上がコックピットの眼前に迫り、後輪が接地した。機体にガクンと大きな振動が走ると、彼女の左肩がうずいたが、わずかに下唇を噛み締めただけで、痛みをこらえた。
訓練通り、しばらく機首を持ち上げながら減速し、十分減速させてからゆっくり機首を地面にすり付ける。オレンジ色の火花が飛び散った。金属がコンクリートに擦れる甲高い耳障りな音が響き渡る。
必死に制動をかける。10秒、20秒……悲鳴のような音をあげながら、機体は滑走路を滑るように進んでいく。思うように減速できず、滑走路の北端が迫る。その先は整備されていない草むらになっているから、そこに突っ込むと制御を失うかもしれない。
地上の人々も息をのんでこの光景を見守っている。中には固く目をつぶり両手を組んで祈っている者もいた。
"何とか止まってくれ"
心の中で叫びながら、オスカルはマニュアルどおりの操作を寸分の狂いもなく再現していく。


接地から約35秒後、滑走路をわずか8mほど残したところで、ようやく機体は止まった。
管制塔から大歓声があがる。火花を散らしながら走る機体を、何事かと見つめていたロビーの旅客達も一斉に拍手喝采を送り、メディアは見事、着陸に成功した瞬間をフランス中に届けた。
「止まった……」
オスカルが脱力して操縦桿の上に体を預けた。アランもシートに寄りかかって何度も深呼吸をしていた。
「やったな…!」
オスカルがアランの肩を軽くたたいた。
「訓練の仕上げに、お前にいい経験をさせてやれてよかったよ」
オスカルは相変わらず教官として愛情をもって接していたが、アランの方は搭乗前とは違った思いで彼女を見つめていた。



すぐに消防車が駆けつけ、摩擦熱で熱くなった機首に水をかけて冷やした。水は、かけたそばからジッと音を立てて気化し、白く空へと昇っていく。
まず乗客を降ろし、それから担架で負傷したニコルを運び出した。病院で検査した結果、足の骨にひびが入っていたものの、後は打ち身のみで心配はないとのことだった。
ニコルが乗せられたストレッチャーを見送ったオスカルとジャンヌが顔を見合わせた。
「ありがとう、ジャンヌ」
その一言には、どんな長々とした美辞麗句よりも感謝の気持ちがこもって聞こえた。
「お互い、自分の仕事をしただけのことでしょ。まあ、ちょっとこれから、やばいかもしれないけど」
ジャンヌは機内でローアン大司教にした仕打ちで処分されると思っていたのだが、なぜか大司教の鶴の一声でおとがめなしになった。
その後、妙に気にいられてしまった彼女は、大司教に追い掛け回される破目になるのだが、どちらがジャンヌにとってよかったのか……。

オスカルや乗客達が報道陣に取り囲まれた。機内の様子や着陸した時の感想など、質問が飛び交い、フラッシュがたかれて、テレビカメラを通してフランス国民の視線が注がれる。大司教が乗っていたことと、事故発生から着陸まで時間があったこともあり、TV局は番組を変更してこの瞬間を報道していた。着陸の瞬間の視聴率は60%を越えていたという。
一気に時の人となったローアン大司教は、興奮冷めやらぬといった風で得意げに弁舌をふるっている。
「神が見守っておられるのですから、きっと無事に着陸できると信じて疑いませんでした。私の日頃の信仰と機内での祈りが、まさに奇跡を呼んだのです……」


ようやく報道陣のインタビュー攻めから解放されたオスカル達を、今度は会社の同僚達が出迎えた。ジャンヌはアテンダント仲間に泣きながら抱きつかれて困っているし、アランは同期や先輩パイロット達から背中や頭を叩かれて嬉しい悲鳴をあげていた。
オスカルは上司に簡単な報告を済ませると、後で詳しい報告に伺いますと言ってその場を離れようとした。柱の後ろに立っている人影に気づく。ジェローデルだった。
「オスカル、よく無事で。心配で胸がはりさけそうだった……」
そう言って男は彼女に近寄り、その左手を取ろうとしたが、オスカルはさりげなく左の手を引っこめると、かわりに右手を突き出して握手を求めた。
「地上からのサポート、本当に心強かった。感謝する」
そう言った彼女の目に、数日前の揺らぎの片鱗はなかった。
男は、黙ってその手を握り返すしかなかった。

オスカルはダグー主任管制官を探し、管制塔に向かった。コントロール・ルームに入ると、割れんばかりの歓喜の拍手が彼女を迎えた。人波をかきわけがなら、口ひげを蓄えた一番年かさの白髪の男性を見つけると、近寄ってIDカードで名前を確かめた。声をかけてみる。
「ムッシュウ・ダグー、A.R.1225便、機長のジャルジェです。この度は本当にありがとうございました。おかげで無事着陸することができました」
そう言って右手を差し出す。
老管制官はそれを両手でしっかり握り返すと、
「見事なランディングでした。私の方こそ最後に大仕事ができて嬉しく思います。孫達に自慢話ができた」
そう言って愉快そうに笑った。
「そうだ、グランディエ氏が私のオフィスでお待ちですよ」
聞きたかったことを先に言われて、オスカルが言葉をつまらせた。
「あ、あの……伝言といい、どうしてそこまでよくして下さるのですか?」
オスカルですら面識のない彼をアンドレが知っているとも思えない。
それを聞いて彼は少し照れたような顔をした。自慢の口ひげを弄ぶ。
「実は、私、アンドレ・グランディエ氏のファンでしてね。後でサインもらっていただけないでしょうか」
そう言って片目をつぶってみせた。


ダグー主任管制官のオフィスは、退官を控えてすっかり片付けられていた。からっぽのデスクと、テーブルと椅子の簡単な応接セットが一揃い、それに窓にかけられたブラインドが残されているのみで、長年何かが張ってあったのだろうか、そこだけ白く浮き出ている壁が、新しい主の到着を待っているかのようだった。
アンドレは着陸の様子がよく見えるからとここに通されてから、ブラインドをあげた窓にはりつくようにして、じっと滑走路を見つめていた。
オスカルの乗っている機が、一度着陸してすぐに飛び立つのを黙って見ていた。火花を散らし悲鳴のような音を立てた機体が目の前を滑って行った時は、窓から飛び出してその前に立ち塞がりたいと思ったが、結局何一つオスカルのためにしてやれることはなかった。はがゆさに、壁をこぶしで叩いた。

窓外はすっかり暗くなって、明りをつけていない室内は滑走路の人工の灯が入るだけで、かなり薄暗い。
無事に戻れることを祈り、それを心から喜ぶことくらいしか、自分にできることはなかった。
ジェローデルに言われたことを思い出す。
それに、自分がそばにいるせいで苦しんでいるオスカルのことを思うと、このまま姿を消した方が、彼女にとって幸せなのではないかと思えてくる。

ノックの音が聞こえた。きっとダグー氏が着陸の様子を伝えに来てくれたのだろうと思い、どうぞと言う。
蝶番が少し歪んだドアが軋んだ音を立てて押し開かれると、部屋に入って来た人物に目を凝らす。戸惑うように現われたのは、思いもよらぬ顔だった。会いたくて、でも会えなくて。どうしようもなく、焦がれてやまない女の顔。

「オスカル……」
彼の声がオスカルの耳に響いてくる。一番聞きたかった声だ。別れてから、まだほんの数日しかたっていないのに、もう何年も会っていなかったような気がする。
「アンドレ……」
彼女が名前を呼び返す。それだけなのに、ひどく切なくて、顔を見て名を呼ぶだけで、こんなに心が震えるのかと思う。

互いにそれ以上なにを言ったらよいのかわからない。


沈黙に耐えきれなくなったアンドレが、突然饒舌にしゃべり出した。
「ダ、ダグー管制官って本当にいい人だな。なにか伝えたいことはないかって聞いてくれて、自分の部屋まで提供してくれたりして。偶然声をかけてラッキーだったよ。ニュースを聞いてここまで来てしまったんだけど……」
本当に言いたいことが言えないかわりに、どうでもいいことは流れるように口をついて出てくる。
「結局なにもできないで、ここで、ただ、見ているだけだった」
アンドレが視線をおとす。

オスカルはゆっくりとドアを閉めて部屋に入ると、窓辺に立つ彼のところに近づいて行った。彼女の気配がすぐそばに来て、その香りが鼻先で感じられると、アンドレは弾かれるように一歩下がった。
長い睫毛をしばたいて、どうして?と問いかけるように青い瞳が彼を見上げた。
彼が下がった分、オスカルが近づいた。体と体が触れ合いそうな距離なのに、まだ2人を隔てている壁がある。オスカルはアンドレの胸にそっと両手を当てて白い額を押し付けた。
「おまえは、一番ほしい時に一番大切な言葉をくれたから……」
顔を押し当てているせいで、少しだけくぐもったように聞こえるが、音が振動となって直接彼の体に響いてくる。
「オスカル、おれ、あんなことをして。おれ達、前……」
それ以上言わなくていいからと言わんばかりに、彼女が彼の背中に腕を回してきつく抱きしめた。
「もう……もういいんだ。もう迷わないから。私はおまえのために帰って来たんだ」
しばしそのまま、動かずにじっと体を寄せ合う。
窓の外では旅客機が離着陸を再開し、耳をつんざくような音を立てて飛び交っていたが、部屋の中は不思議と無音で、互いの体の中の音だけが聞こえてくるようだった。

自分から抱きついているのが気恥ずかしくなり、オスカルが腕の力を緩めて体を離した。
「どうしてくれる?一時でも乗客の命より自分のことを考えてしまったんだぞ。お前のところに帰ろうと、そればかり考えた」
照れ隠しに悪態をつく。
その瞬間、アンドレの腕がオスカルの体に回され、抱きすくめられた。力強くて息が苦しい。
わずかに彼の抱く力が弱くなり、小さく彼女は吐息をもらしたが、すぐに体を傾けられ、くちづけを受けやすい角度に顔を上げさせられた。オスカルはアンドレの顔を間近で見つめていたいと思ったが、彼の唇がそれを許さずに下りて来たので、身を任せてゆっくりと目を閉じた。
長く長く、くちづけは終わらない。
激しくて、やっぱり少し乱暴で、優しいキスだった。
体の力が抜けてゆき、アンドレに体重を預けるように寄りかかってしまう。他の感覚がだんだんと曖昧になって、触れ合っている部分だけが全てになっていった。このままずっと彼の腕の中でとろけるように愛されていたいと望んでしまう。でも、その前に……。

アンドレがわずかに彼女を解放した時、オスカルがか細い声を上げた。
「アンドレ、言っておきたいことがある」
なに?とアンドレが彼女の顔をのぞき込む。オスカルがアンドレから視線を外し、俯いた。
「まだちゃんと言ってなかったから……。私も愛している。おまえを……愛している…」
アンドレが目を見開いた。彼女のおとがいを捉え上に向かせて、その頬を両手で包み込むようにすると、
「おれもだよ。……愛している。心から」
そう言って軽くくちづけてから、先ほどより力をこめて抱きしめた。
「アンドレ、肩が痛い。それに社に事故の報告をしなければ」
オスカルが体をよじった。
「がまんできないほど痛い?すぐにでないとだめか?」
アンドレが畳みかけるように聞いた。自分の腕の中に収まる彼女を、離そうにも離せない。いつもと逆でオスカルが少し押され気味になる。
「少しの間なら…それほど痛いわけじゃないし。」

「なら、その間だけでいいから、ちょっと大人しくしててくれ……」
彼は再び彼女の唇を奪うと、後ろ手にブラインドを閉めた。



数日後のパリの街角。
長身の黒髪の男が少し身をかがめるようにして、傍らを歩く女に何かを耳打ちすると、けむるような金髪を揺らして、女がくすくすと笑った。
通りの花屋には春の花々が一足先に並び、つぼみがほころぼうとしている。
まもなく復活祭だ。オスカルは入社以来、初めて2週間の休みを取って、彼と旅行に行くことに決めた。行き先は、南仏。
オスカルがふと立ち止まる。通りの向こう側に見たことのあるような店があった。
アンドレの本と出会ったあの店だと彼女は思った。
店構えも全く違い、本屋でもなかったが、あの店がもっていた独特の雰囲気にオスカルはそう確信した。今は雑貨店のようだ。
入口の上部についている真鍮のドア・ベルだけは変わらなかった。
「どうした、オスカル?」
数歩先のアンドレが振りかえって怪訝そうな顔をしている。
もう一度通りの向こうを見ると、黒いまっすぐな髪をした10才くらいの女の子が、ベルを鳴らして店に入って行った。
オスカルが微笑んだ。前にいるアンドレの方に向き直り、
「なんでもない!いいんだ、もう私には必要ないから!」
アンドレに聞こえるように大きな声でそう言って、彼のところに走りよると、そっと腕を組んだ。


2人は再び歩き始めた。春の訪れを感じさせる風が、2人の背中を吹き過ぎていく。
「これから、どうする?」
問いかける黒い瞳に、青い瞳が答える。
「そうだな、今日は……」


and ever after .....





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