あの本に出会ってから、オスカルのペースは乱れっぱなしだった。たかが一篇の恋愛小説のために。
5日前は、物語のつづきが気になるあまり、物騒な夜の街をひた走った。
2日前は、怒りに震え、普段の彼女からはちょっと考えられないことをしてしまった。
今日は今日で、ホテルの部屋でひとり頭を抱えている。



2日前、ようやく例の本が届いた。
翌日にアルジェリアへのフライトを控えていたから、これで心置きなく仕事に専念できると思った。もちろん、読みたい本が気になって操縦に集中できないようなことはプロとして絶対にありえないことだが、それでも懸案事項は少ないに限る。
茶色い封筒を破り捨て、期待に胸を膨らませながら表紙をめくる。ページをめくるのさえ、もどかしいように活字を追い、下巻も1時間ほどで読み終えてしまった。

だが、読後にオスカルの心を満たしたのは、激しい落胆だった。


主人公2人の会えない期間が何年かつづく。それぞれ別のひとと付き合ってみたり、仕事で失敗したり、成功したり。分かたれた人生を歩みながらも、折りにふれて思い出すのは、お互いのことだった。
ラスト近くで再会した二人は、ついに結ばれ、もう二度と離れはしないと固く誓い合う。
しかしその翌日、彼は交通事故であっけなくこの世を去ってしまう。彼女が待つ部屋に戻る途中で。彼の死を知らない彼女は幸せそうに待っている。いつまでも、いつまでも……。


「この終わり方はなんなのだ!?」
オスカルは、どんな困難があろうと二人は結ばれるに違いなく、最後はきっとハッピーエンドだと、なぜか頭から信じて疑わなかった。それが見たくて読み進んでいたと言っても過言ではない。
期待を裏切られた深い落胆の後に来たのは怒りで、この結末がどうしても許せなかった。
彼女は、本を乱暴に床にたたきつけた。大理石の床に当たった本は、裏表紙の角が少しだけ歪んだ。
本に罪はない。やつあたりを後悔して彼女は本を拾い上げた。ちょうど奥付のページが開いており、そこに出版社名とメールアドレスが書いてあった。「この本に関するご感想をお寄せ下さい」という一文が添えられて。

彼女は迷わずメールを書いた。ストーリーに引きこまれて一気に読み切ってしまうほどだと筆力をほめちぎりながらも、ラストでそれが台無しになったと。"読んで後悔した"とまで。ついでに怒りに任せ、途中で出てきた空港での税関手続きの描写に誤りがあると指摘してやった。慇懃無礼な文章で。
一気に書き終えた勢いで送信ボタンをクリックした。そのままでは眠れそうになかったので、ブランデーをグラスに3杯ほどあおってからベッドに入った。

翌朝は、わずかな頭痛と少しの後悔と共に目覚めた。
一晩明けて、昨夜の自分を客観的に見つめてみると、実に嫌な読者だ。いや、人間的にもどうかと思う。
物語は作者のものだし、あのラストでも決しておかしくない展開ではある。ただ自分の予想と異なっていただけだ。率直な感想ではあったが、もう少しましな書き方というものがあっただろう。最後に指摘した誤りだって、非常に専門的で些細なことだった。それにいちいちクレームをつけるのも大人げがないというものだ。
謝罪のメールを出そうかと思ったが、それもおかしな感じがする。そうこうしているうちに家を出なければいけない時間が迫り、相手もプロなのだから、いろいろな感想は覚悟しているはずで、自分の書いたメールなど気にもかけないだろうと思うことにした。
――この物語に振り回されるのは、これで終わりだ。オスカルは気持ちを切り換えた。

フライトは快適だった。気流は安定していたし、副操縦士のジェローデルは彼女が最も信頼しているパイロットの一人だった。ただ、首都アルジェのウアリ・ブーメディアン空港に降り立った時、彼に言われた。
「今日はどうなさいました?いつもとは少し操縦が違っていたような気がいたしましたが」
乗客はもちろん、他のパイロットなら気がつかないような微かな違いを、この男には見ぬかれてしまう。だからこそ彼は信頼に値するのだが、今日は少しバツが悪かった。ジェローデルからディナーの誘いがあったが、疲れたからと断り、そそくさとホテルのチェックインを済ませ、18時にルームサービスを予約して部屋に篭ってしまった。

オスカル達の泊まっているホテルは、彼女が勤めている航空会社がオーナーだった。
富裕層をターゲットとした会社は、ビジネスクラス専用機を運行し、各地に高級ホテルを所有していた。オスカルはその中でも特に裕福な顧客を乗せるプライベートジェットを任されており、社有のホテルに泊まる時は、乗務員ながら上級ランクの部屋をあてがわれ、かなりのわがままが通った。
オスカルがここを訪れる時は、たいていこの部屋に泊まるのだが、明るめのブラウンを基調とした落ちついた感じのスイートルームは、彼女が過ごしやすいようにしつらえてある。
リビングにはゴブラン織り風の布地で作られたソファと黒檀のテーブルがあり、その一角がパーティションで区切られていて、そこにはパソコンをはじめ、ファックスまで備わっていた。これらの器機はオスカルがリクエストして入れさせており、彼女が泊まる度に運び込まれるのだった。

コートをクローゼットにしまい、濃紺の制服をゆったりとしたラベンダー色の部屋着に着替えると、窓のカーテンを開けた。
眼下にはアルジェの街と地中海が広がる。他の地中海沿岸の街がそうであるように、ここも白壁の建物が多い。フランス植民地だった影響で、故国を思い出させる建築物が多数あるし、フランス語も通じるから、オスカルにとっては居心地のいい場所だった。訪れる度に海辺を散歩したり、バザールをひやかしたりした。

白いカスバ、城郭の街。高層階の窓は開かないが、きっと外は潮の香りのする風が吹いている。

ぼんやりとそんなことを思いながら異国の風景を眺めていたが、ふと今日中に確認しなければならないメールがあったのを思い出してパソコンの前に座った。起動音とハードディスクにアクセスする時のカラカラという音だけが室内に響いていた。とても静かだ。

メーラーを開くと、未読メールは5通。4通は会社関係のアドレスだったが、1通だけ見なれぬアドレスがある。最初は迷惑メールかと思った。だが、タイトルに見覚えがあった。昨夜、自分が書いたメールのタイトルにRe:が付いていた。
まさか返事が来るとは思わなかった。無視されるのが順当だと思っていたのだ。自分の失礼なメールが腹立たしくて、反論でもしたくなったのだろうかと、驚きながらもオスカルは思った。
内容はきっとあまり愉快なものではないと予想でき、読むのは気が進まなかったが、おそるおそるタイトルをダブルクリックする。

"ジャルジェ様 この度はご感想をありがとうございました。結末に憤りを感じるほどキャラクターを愛してくださったことに、感謝いたします。ただ、私としてはあの物語はあの結末しかありえないと思っております。
また、ご指摘の点につきましては、おっしゃるとおりです。実は、正確さをとるか、話のテンポを壊さない方をとるか、編集者と話し合った箇所であります。その結果、後者を取ることといたしました。フィクションということもあり、ご理解いただければと思います。
本作はお気に召さなかったようですが、何分、修養中の身でございます。ジャルジェ様が満足されるようなレベルの作品をいつか書いてみたいと思います。
何かの折りに思い出して、またお手に取っていただければ幸いです。
アンドレ・グランディエ 拝"

彼女の不躾なメールに、返って来たのは真摯なメールだった。
夜書いた手紙は、朝読み返してから出せと言うではないか。昔、誰かに"―…はどんな時でも感情で行動するものじゃない"、と言われたこともあったような気がする。"人間は"だったか、"人の上に立つものは"だったか忘れてしまったが。彼女は自分の軽率さに歯噛みしたが、もう手遅れである。相手が鷹揚であればあるほど、自分が卑しくてちっぽけな人間に思えてくるものだ。むしろ罵られた方がましな時もある。

今さら後悔しても遅い。出してしまったメールはなかったことにはならない。
ともかく、礼を尽くしてくれた相手には礼をもって返すべきだと考えた彼女は、メールの言いまわしが失礼だった点を謝罪する返信を書いた。こういうところは真面目で一本気な彼女である。今度は、何度も何度も読み返し、慎重に推敲を繰り返してから送信した。

何だか振り回されてばかりいる、もうたくさんだ。今度こそ、この本にまつわるエピソードは全て終わりだと、オスカルは一つため息をつく。

その夜、運ばれて来た食事は喉を通らず、彼女は早々にベッドに入ってしまった。




(つづく)


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