風邪と喧嘩と… 冬の凍てつく吐息が、全ての生あるもの、生なきものまで凍えさせている。 この冬の寒さは例年になく厳しかった。ヴェルサイユのジャルジェ邸でも、噴水は凍りついて働くのをやめ、敷地内の人造の小川は流れることを忘れた。 しかしそんな冬の厳しい寒さの中でも邸内は十分に温められており、主一家のそれぞれの居室では貴重な薪が惜しげもなく燃やされ、外の寒さなどみじんも感じられないほどだった。 邸内の一室で、かすれてはいるが凛とした声が響いた。 「…来て欲しいなんて言った覚えはないぞ」 部屋を訪ねて来た少年から顔をそむけ、すねたように彼女は言った。やっと肩まで伸びた豊かな金髪が、その拍子に彼女の白磁の頬を打つ。 「仕事の合間を見て人がせっかく…!!」 ふだんからお嬢様のワガママぶりには慣れているアンドレも、この言葉にはいささか腹が立ったようだった。 「仕事が忙しいのなら、こんなところで時間を浪費していないで、さっさと行ったらどうだ?」 売り言葉に買い言葉とはこのこと言うのだろう。オスカルは内心後悔したが、そんなセリフが口をついて出てしまった。 「ああ、わかったよ!悪かったな!!」 アンドレが彼らしくない乱暴さでドアを閉めて出ていくと、オスカルは一気に激しい自己嫌悪の渦に飲みこまれた。 起こしていた上半身を再び寝台に預ける。 どうしたというのだろう。久しぶりに彼の顔を見たら、嬉しさと同時になぜか怒りが込み上げて来た。 幼い頃から父ジャルジェ将軍に鍛えられて基礎体力のある彼女はめったに風邪ひとつひかなかったが、この冬は風邪をこじらせて高熱を出し、3日も寝こんでしまった。今年の風邪は悪性で、パリでは栄養失調の子供達が次々と幼い命を落としているというから、それでもかなり恵まれた方ではあったのだが。 士官学校に入学した今年は毎日が緊張の連続だった。もともと頭脳明晰で才気煥発な彼女にとって士官学校での課題はさして難しいものではなかったものの、やはり全ての学科・実技において常にトップクラスを維持するには、それなりの努力が必要だった。 「女だから仕方ないか」 これだけはどうしても言われたくなかった。 ただでさえ女性だということで注目を浴びた。その上、何かへまをしでかそうものなら、口さがない連中が待ってましたとばかりに、あれこれと尾ひれをつけて噂を広めるのだ。 気丈なオスカルもさすがに参っていたのだろう。その意味では体力・気力両面をリフレッシュするために必要な時間だったのではあるが、熱が下がって回復してくるにつれ、言いようのない不安と焦りを感じ始めたのだった。 それに、床に臥してからアンドレの顔を見ていない。常に側にいてくれる彼。素顔のままの自分を受け入れてくれる彼。お日さまの匂いのする彼。 もちろんアンドレとて彼女のことが気になってはいた。 しかしオスカルには十分な休養が必要であると判断した祖母のマロン・グラッセに、決してオスカルの部屋を訪れてはいけないと厳命されていたから今日まで我慢していたのだ。 出会った時からお互いこんなに長い時間、離れたことはなかった。 いつも彼女に振りまわされてばかりいるから、最初のうちはせいせいした気分だったのに、そんな気持ちは一日もたなかった。 無性に彼女が恋しく、なぜか会いたくて会いたくてたまらなくなった。 祖母からオスカルの容態が快方に向かい、間もなく日常生活に戻れるだろうと聞かされたアンドレは、その足でこっそり彼女の部屋を訪れた。ドアをノックしてみたが返事がない。そっと押してみると扉が開いた。居間に人影はなく、寝室を覗いてみる。 彼女は眠っていた。 熱のためか、いくぶんやつれたような顔は、いつもの勝気な表情が消えて優しく儚げだった。見る者誰もが賞賛する黄金の髪が彼女のまろやかな輪郭を縁取り、長い睫毛が頬に影を作っていた。唇はふだんより紅くて、熟れたさくらんぼのようだ―。 「アンドレ…!?」 覗きこむように彼女の顔に見とれていたアンドレに驚いて、彼女が声をあげた。 我にかえったアンドレは一歩退くと、 「3日も士官学校を休んでいるから、その…どんなものかと思って、様子を見に来た」 この言葉になぜかカチンと来て言ってしまったのがあの言葉だ。 一通り今あった出来事を反芻したオスカルは呟いた。 「アンドレが怒るのも無理はない」 冷静になってみると、アンドレに詫びたい気持ちが湧き起こって来た。なぜあんな言葉をぶつけてしまったのか分からなかったが、少なくともアンドレに非がないことだけは確かだった。 翌日。 まだ士官学校に行くことはできないまでも日常生活を送れるようになったオスカルは、夜着から普段着の絹のブラウスとキュロットに着替えると、着替えを手伝っていたばあやに尋ねた。 「アンドレはどうしている?話したいことがあるのだが」 乳母は一瞬困惑した表情になると、小さく溜息をついて言った。 「申しわけございません、お嬢様。あの大バカ者は、今ごろになって熱を出しましてね。お屋敷の仕事を休ませていただいてるんですよ。これからお嬢様のお供をしなくちゃいけないっていうのに、ほんとに困った子ですよ!」 オスカルの脳裏に昨日の彼の姿が浮かんだ。 「医者にはみせたのか!?」 「そんな滅相もない!!お医者様に見せるだなんて。丈夫にだけはできていますから、一日寝てりゃぁ治りますって」 「それではダメだ!すぐに先生を呼んで診察してもらってくれ、いいね、ばあや!!」 オスカルは柳眉を逆立て、乳母につかみかからんばかりの勢いで言った。 その剣幕に飲まれて頑固なマロンも首を縦に振らざるをえなかった。 次期当主の言葉は現当主のそれの次に重い。早速医師が呼ばれ、アンドレは診察を受けた。マロンが言うように根が丈夫な彼は食欲も落ちていないので、2〜3日もすればすっかり元気になるだろうとのことだった。 医師の診断を聞いたオスカルは心底ほっとした。 自分以上にいつも元気なアンドレが寝こんでいると聞いた時、どうしようもない不安にかられた。ばあやの口ぶりから大したことはないと理性はそう判断したが、感情はひどく乱れて、一瞬彼が遠くに行ってしまうような錯覚に陥ってしまった。医師の落ちついた診断を聞いて、やっと胸騒ぎが収まった。 彼はもう、彼女にとってかけがえのない存在になっていた。 昨日彼が訪れてくれた返礼に自分も彼の部屋を訪れよう。いや、自分自身が彼の側に行きたいのだ。自分の気持ちに正直になろう。 使用人達の住まいの一角にある彼の部屋まで行った。そういえばここを訪れるのは久方ぶりのように思う。少なくとも士官学校に入学してからは一度もなかった。 以前はしょっちゅう、この部屋にもぐりこんでは彼を困らせ、ばあやのお小言を食らった。眠れない夜に。凍えそうな冬の朝には、初雪が舞っているのを彼に知らせに。いつもアンドレを探した。 ノックもせずに扉を押してみる。鍵はかかっておらず、ギイときしんだ音を立てて開いた。 室内は鎧戸が閉められていて薄暗かったが、狭い部屋の中だ。寝台に横たわっている少年の姿はすぐにわかった。 「ちっとも変わらないな、ここは」 一間しかない部屋全体を見渡しながら寝台に近づく。 自分の部屋に比べればかなり寒々としている。 寝台の脇まで近づいても、薄暗いために彼の顔がよく見えない。 起こさないようにそっと顔を近づける。黄金の髪が彼の頬に触れるか触れないかのところで帳を作った。まだ熱が高いのだろう。彼の頬は赤くそまり、それでも安らかな寝息を立てていた。医師が処方した薬が効いているのかもしれない。 そっと朝露に濡れた黒ぶどうのような髪をかきあげ、額に触れてみる。 熱い。 それがなぜだか嬉しかった。 以前、かわいがっていた仔猫が死んだ時、その体は信じられないくらい冷たくなっていた。命が消えるということはこういうことなのだとその冷たさに触れて、生まれて初めて思い知った。それ以来、動物は飼わないと心に決めた。 ふいにアンドレの頬を一筋の涙が伝わり落ちた。 オスカルはびくりとして額に置いていた手を引っ込めた。 「か、母さ…ん…」 熱に浮かされて死んだ母親の夢でも見ているのかもしれない。アンドレが熱を出した時、つきっきりで看病してくれたことでも思い出しているのだろう。 一つ年上とはいえ、まだまだ母親の優しい視線に包まれていたい少年だ。オスカル自身でさえ母の膝にすがって甘えてみたくなることがある。明るく素直な上に勤勉な彼は、屋敷の奉公人全てから愛され可愛がられていたが、それはやはり肉親の情とは比べものにはならないのだろう…。 「すまなかった…」 アンドレの涙を見て、オスカルは初めて彼のやさしさに甘えていた自分に気がついた。士官学校でのストレス、思うに任せない自分へのいらだちが知らず知らずのうちにオスカルを苛んでいた。 加えていつも自分を受け止めてくれる彼が訪れない。待ちわびた彼が自分のもとに来てくれたのは3日もたってからだった。彼の顔を見たらその全てが一気に噴き出してしまった。理不尽なやつあたりだ。 それをやっと自覚した。 「おまえの母上のかわりに私がずっと側にいる。だから安心してやすめ…」 せめてもの罪滅ぼしのように耳元に唇を寄せて呟くと、寝台のそばに椅子を引き寄せ、飽くことなくオスカルは彼の寝顔を見つめていた。 それからどのくらいの時間がたっただろう。 「おい、オスカル。おいってば。こんなところでうたた寝をしていると、また風邪がぶり返すぞ!」 オスカルは肩を揺り動かされて目を覚ました。気がつけば、椅子に座ったままの姿勢で彼の体を枕にして眠り込んでいた。 「ん…アンドレ…気分はどうだ?」 「あぁ。仕事を免除してもらって十分休んだから、明日にはまた仕事に戻れそうだ。お前さえ元気になったらお前の供も…」 "こいつは…!" ふとオスカルは、彼と初めて会った時のことを思い出した。 "男にもなれない、女にもなれない。私はどこにも属せない。私は独り…" 彼女を責め苛んでいた世界。 それがある日、彼の出現によって色を変えた。 あの玄関ホール。お仕着せをきちんと着込んだ少年が、口をぽかんと開けてジャルジェ邸の天井を見上げていた。 「髪も瞳も黒くて、肌も浅黒い。なに平凡な子でございますよ。天使のようなお嬢様の遊び相手にしていただけるなんて分不相応に幸せな子でございます」 ばあやの語る孫息子の話に何週間も前からわくわくしていた。決して顔には出さなかったが、早く彼と遊びたかった。早く彼のことが知りたかった。 だから彼の到着を知ると玄関ホールまで迎えに出て行った。 それからはいつも一緒だった。振りかえれば必ず彼の笑顔があった。 泣いてしまいそうなつらい時も、彼の顔を見ただけで泣き顔を見せまいというだけの気力が戻って来た。 オスカルが自身の苦しみをもて余している間も、アンドレは彼女のことを最優先に考えてくれる。自分一人でがんばることはないのだと、そう気づいたことがオスカルに自信を取り戻させた。 数日休んだくらいで、このオスカル・フランソワが、そんじょそこらの男どもに負けるはずはない。これからは焦らずにいこう…。 彼女を取り巻く世界の状況は今も一向に変わりがない。でもアンドレがいてくれる。 弱い私もふがいない私もアンドレが受け止めてくれる。アンドレが側にいてくれる限り、私はきっと強くなれる。 どんな男よりも。 そんな言葉が確信めいてオスカルの心に浮かんだ。 「士官学校に行けるようになるまではもう少し時間がかかりそうだ。だからその間だけでもゆっくり休め。そのかわり元気になったら存分に働いてもらうからな!」 素直になりきれない彼女の精一杯のねぎらいの言葉だった。彼が昨日の気まずい空気をひとかけらも感じさせないような態度でいるから、今度もまた謝りそこねてしまった。 彼女の言葉に苦笑してから彼はふと思いついたように言った。 「ところでオスカル、おれ、寝言で何か言ってなかった?」 彼の涙を思い出して一瞬言葉の出なかったオスカルだったが、平静を装って答える。 「…いや別に。何も聞かなかったが…」 その言葉を聞くとアンドレは安堵したような表情を浮かべた。 「そろそろばあやが来るかもしれない。そしたら2人とも大目玉だ。退散するとするか」 おもむろにオスカルが椅子から立ち上がってドアを開けた。 薄暗い室内に、わずかな扉の隙間から差し込んで来た光がオスカルの金髪を輝かせ、逆光となった唇が何かを呟いたような気がした。 だが何と呟いたのか、アンドレにはわからなかった。 ―了― |