一炊の夢





普段は仕事が忙しくて、料理など滅多にしない彼女が、手料理を振る舞ってくれると言うので、おれは彼女のアパルトマンの居間でウィングチェアに腰かけ、サン=ジェルマン=アン=レ―の屋敷の図書室から持って来た本を読んでいた。
「オスカル、おれも手伝おうか?」
彼女を気遣って申し入れてみたが、大人しく待っていろと返され、言う通りに“大人しく”引き下がった。メインは一品だというし、そう難しい料理でもない。時間さえかければ問題なく出来上がるだろう。オットマンに足を投げ出す。
数世紀前に書かれた哲学書は、人間の精神の成り立ちと、時間や人生の意味について考察していた。言い回しが難解で、しかもおれの教養を容赦なく試してくる内容で。意味を理解するために、同じ部分を何度か読み直し、少し前に戻ってはまた同じ文章を読む。目の反復運動は脳への刺激までに至らず、悪いことに、ウィングチェアの座り心地もよすぎて……。だんだん瞼が重くなってくる――……。


「……ドレ、アンドレ、支度が出来たわよ」
女の柔らかな声が頭上から聞こえ、肩をそっと揺すられたので、ゆっくりと目を開けた。
自分の肩に、女のややふっくらとした白い手が伸びていた。目の前の豊かな胸元から視線を上げる。形のよいとがった顎、深紅のルージュを引いた唇、そして、通った鼻筋の上には青い瞳。肩までの金髪は耳から上の髪が後ろで一つに束ねられている。
空腹を刺激する料理の匂いが、隣室のダイニング・ルームから漂って来て、ああ、そういえば食事の準備を待つ間、本を読んでいたのだっけと思い出す。待っていたのは、この匂いで、そして手料理を作ってくれていたのは……彼女だったか―――いや、もっと、こう……違う――ような……。
女は両手をおれの首の後ろに回すと、ためらいもなく膝の上に腰かけた。水玉模様のワンピースの裾がふわりと揺れる。
「今日は上等な牛肉と新鮮な野菜が手に入ったから、メイドが腕を振るったのよ。上等なワインも持って来させたし」
“あなたのためよ”と言わんばかりに口角を上げたその表情は、自信と若さのもつ生命力に満ち溢れていた。
「――こんなご時世でも、ある所にはあるものなんだな」
おれがそうボソリと答えると、女はもっと違ったセリフを期待していたのか、不満そうに唇をとがらせた。
「戦時下の食糧難の中、こんな贅沢ができるのは、誰のおかげ?この口はお礼も言えないのかしら?」
そう言って、おれの唇に女は指を滑らせる。
ああ、そうだった。今は戦時下で、しかもこの街は敵国に事実上支配されている。
「何をしてあげたら、そのいつも淡々とした表情を崩せるのかしら……。そこがまたいいのだけど――」
子供のころから、よくそんな風に言われて来た。我ながらそこそこ器用で卒なく何でもこなせて来たと思うが、何かに夢中になった記憶がない。この世には、それほど大切なものなどありはしなかった―――少なくとも、まだ出会っていない。
ときどき、自分はどこか壊れているのだろうかと思うことがある。
どんな男でも振り返らせずにはおかない魅力をもった、この女が自分に興味をもち、こうして科を作って誘いをかけて来ても、それほど胸躍るわけでもない。
心の一部が抜け落ちているというか、何か大切なものが収まっているはずの部分に、ぽっかり穴が開いて空洞になっているというか。そんな風に感じることがある。


女が真っ赤な唇を、おれのそれに合わせようとして来た時、開いたままだったドアを恐る恐る小さくノックするのが聞こえた。
女がキッとドアの方を睨みつけると、向こうに立っていた黒人のメイドが視線に弾かれたように、びくりと身を震わせ、体を縮こませてうなだれた。
「お、奥様……もうしわけございません……ですが、ミューラー大尉さまからのお使いが……」
女は短く舌打ちすると、さっと立ち上がり、軽く髪の毛を整えた。この大尉は舞台に立っていた女を見初め、すっかりご執心だった。おそらく、今夜のディナーの食材も、その大尉の伝手で手に入れたに違いなかった。女は野心的な新人女優で、演技は褒められたものではないが、整った容姿と肉感的な体つきと華やかなオーラをもっていて、何人もパトロンがいるのをおれは知っていた。

パリがドイツの占領下に置かれたのは、去年の6月のことだ。

女は帰るまで待っているかと尋ねたが、おれは迷わず「帰る」と答えた。「外出制限の始まる9時前には帰らないと」
今夜のうちに、彼女は戻らないだろう。
「そう」
女はメイドに、持ち帰れそうなものを包んで、おれに渡すよう言いつけると、毛皮のコートを羽織って、そそくさと出かけて行った。
メイドから料理とパンとワイン・ボトルが入った籠を受け取ると、おれは階段を早足で下り、街に出た。大通りの主だった建物には、ハーケンクロイツの描かれた紅い旗が掲げられている。この街の支配者が誰であるかを思い知らせるために、風にはためく。
しばらく歩いてから、裏通りに入ると、おれは、今にも崩れそうなアパルトマンの階段を昇った。塗装のはがれたドアをノックすると、中から男が現れた。
「お、アンドレじゃねえか」
「変わりないか、アラン」
おれ達が挨拶を交わしていると、狭く暗い部屋の中から、若い女の声がした。「兄さん、どなた?」
「アンドレだよ、ディアンヌ」とアランが答える。つづいて部屋の中から、聞こえて来たのは、咳の音。
「おふくろさん、調子は?」
おれが尋ねると、「相変わらずさ」とアランが苦笑いを浮かべる。
「これ……」
おれが籠を差し出すと、アランはかけてあった布をつまみ上げて中身を確かめ、「いつも、悪いな」と頭をかいた。彼は幼い頃に父親を亡くして苦労を重ねて来たが、パリがドイツ軍に占領されてからは、病身の母親と、妹を抱えて、さらに困窮した生活を送っていた。
「ちょっと、出て来るぞ」
アランはそう言って妹のディアンヌに籠を預けて上着と帽子を身に着けた。二人で狭い階段を下りる。通りをしばらく肩を並べて歩いた。
セーヌ沿いに出たところで、アランの足が止まった。辺りを見回し、人影がないことを確認すると言った。
「レジスタンスに参加しようと思っている」
「そうか……」
こいつならば、いつかそうするだろうなと思っていたので、そう驚きはしなかった。
「おまえも一緒にやらないか」
「おれは……」
なぜか、返事に詰まる。現在のフランスの状況をよしとは決して思わないし、今のほどほどに漂って生きているだけの生活など、別に捨てても構わないのだが、積極的に何かをしようという、こいつのような、ふつふつとした動機がどうしても湧いて来ない。
アランはおれが保身から返答しないのかと誤解して激高した。
「祖国がこんな状態になっても、なんとも思わないのか!?」
おれの胸倉を掴み、指さした先にはエッフェル塔がそびえていた。すっかりパリの風景になじみ、今やシンボルともいえるその塔には、でかでかと無粋な“V”の字が掲げられ、その下の横断幕に書かれているのは、ドイツ語だった。
Deutschland Siegt Auf Allen Fronten(ドイツはあらゆる方面で勝利している)”
詰め寄られて「ああ、悪かった、はなせ」と目をそらすと、アランはすぐに襟元から手を離し、それから、“Siegt”のSの上に親指と人差し指でLの字を作って重ねた。

Liegt” ならば、ドイツは嘘をついている、ことになる。





殴られて目を覚ました。



どうやら、気絶していたようだ……。

――おれは、自室で椅子に縛り付けられている。
典型的な拷問のシーンだなと思った。当事者なのに、ずいぶんと冷静だった。
ドイツ軍の軍服を着た男にもう一度、警棒のようなもので殴られた。おれを手ひどく殴った兵士の制帽が床に落ちる。口の中に血の味がした。
ドアが静かに開いて、あの女が入って来た。仕立てのよい、体にぴったりと沿ったシルエットのスーツに身を包み、それに合わせた帽子を被っている。相変わらずの美しさだったが、どこぞの上流家庭の奥様のような貫禄も醸し出していて、あれから数年の間にうまくやってのし上がったのが分かる。今も舞台に立っているのだろうか、それとも。

女の頼みで、二人きりになる。
女は跪くと、おれの二の腕に手を伸ばし、言った。
「ねえ、アンドレ、お願いよ。アラン・ド・ソワソン、ベルナール・シャトレ、二人の居場所を言ってちょうだい!そしたら、大尉に頼んで釈放してもらえるわ。無罪放免、普通の生活に戻れるのよ。これが最後のチャンスなの、お願いよ……」
レジスタンスに参加したいという強い衝動はついに湧かなかったが、近所に住むユダヤ人一家が着の身着のままで連行されて行った姿を見たとき、協力することを決意した。追い立てられながら振り返った末っ子の男の子の目が、今でも忘れられない。
女の紹介でドイツ軍将校に近づき、可能な限り情報を入手して伝える。その情報がどれだけ役に立ったかよく知らないが、どうもエージェントの才能はなかったようで、やがて正体がばれて、こんな羽目に陥っているわけだ。
おれの腕を掴んだ手の力が強くなる。懇願する女の目から、一筋の涙が落ち、奇麗だなと思った。

だが、おれは、そっと首を横に振る。

女はすっと立ち上がると、テーブルの上にあったものを全て力任せに払いのけた。コップは割れ、落ちた拍子にスイッチの入ったラジオからは、雑音に交じって、周波数を合わせてあった放送局のアナウンサーの声がかすかに聞こえた。
「馬鹿なひと」
尋問をしていた将校を呼び入れると、女は何か耳打ちし、一度も振り返らずに出て行った。
将校は拳銃を取り出すと、トグルを後ろに引き、それから黙って銃口をおれのこめかみに押し当てた。
“おれは死ぬのか”と思ったが、それでもただ、その事実を認識しただけで、それほどの感慨は湧いて来なかった。女、カネ、権力、思想……どれも、おれにとっては、どうでもよかった。世界そのものが輝いて見えたことなど、一度もない人生だったな、と振り返る。

”……のいない世界に未練などない”
ふと、そんな言葉が心に浮かんだ。

……は、誰だったか―……。


ラジオから、アナウンサーの声が聞こえた。雑音の中から詩の一説を聴き取る。
“身にしみて ひたぶるに うら悲し――”
――そうか。きっと、アランとベルナールはうまくやってくれるに違いない。


拳銃の発射音が鳴り響いて――――――――。



「……ドレ、おい、アンドレ、起きろ!支度ができたぞ」
肩を揺すられて、はっと目を開けた。
自分の肩に伸びた、ほっそりとした手。視線を上げれば、よく知った青い瞳があった。今日は料理のために、背中まで伸びた金の髪を後ろで束ねている。
世界が、急速に生き生きとした色と光に満ちた。暗がりから明るい外に出た時のように、彼女がまぶしく見えて、目を細めた。
思わず手を伸ばして、オスカルの体を引き寄せる。彼女はバランスを崩しておれの腕の中に倒れこんだ。その体をきつく抱きしめる。
「ありがとう……」
世界でたった一つ、大切なもの。
「待っていた」
彼女が存在しない世界はすべてが色褪せ、味気なく、懐かしい香りも、自分を世界と結びつける絆すら、何も生まれない世界だった。
おまえが、おれの光で、全てだ、オスカル。
「なんだ、そんなに腹がすいていたのか。待たせて悪かったな」
今まで見ていた夢の物語を知らない彼女の勘違いに、頬がゆるんだ。
哀しい男の一生を描いた映画みたいな夢を見ていたと告げると、こんな所でうたた寝するから、変な夢を見るんだと窘められた。
時計を見ると、彼女が料理を始めてから小一時間しかたっていなかった。

ダイニングのテーブルには、彼女の作ってくれたラタトゥイユが白いシンプルな大皿に盛られ、湯気をたてていた。うまそうな匂いだ。オスカルがおれの故郷に行った時に実家で食べた味がいたく気に入り、おれの母親にレシピを送ってもらい作ったのだそうだ。腹の虫が鳴って、初めて空腹を感じた。
「Bon appetit !」彼女がおどけた様子で、皿を手で指し示す。
向かい合わせに座って、まず一口。初めて作ってみたにしては、お世辞抜きでなかなかいける。野菜の煮え具合はちょうどよいし、トマト味のベースに、にんにくや香草の効かせ具合も申し分ない。彼女は何でも、やればできるのだ。二口めを口に運んで、バゲットに手を伸ばし、ちぎって口に放り込む。
だが、オスカルは不満そうで、何口か味わっては首をかしげていた。
「おまえの母上のレシピどおり、しっかり分量もはかって作ったのだが――」
どうやら、グラースで食べた通りの味に仕上がらなかったのが不満らしい。
「単純な料理だけに、素材の切り方とか、火加減のちょっとした違いとか、そういうもので味が微妙に変わるのは仕方がないよ。でも、すごくうまい」
立て続けに煮込みを口に運び、バゲットを頬張ってみせる。
彼女もやっと微笑んで、二人でおれの故郷を訪れた時のことを、思い出しながら語り合う。立ち回りを演じてみせて、新聞に載ったり、とんでもない事件に巻き込まれて、九死に一生を得るような目にあわされたりしたことも、今は、そんなこともあったなと笑って話せる。
おれの脳裏には、おれ達二人を幸せそうに見ながらも、どこか困った色を宿した祖母の小さな目と皺の翳や、上流階級のセレブリティに囲まれたパーティーで、好奇の目にさらされた経験も再生された。

――――だが、それが何だというのだろう。何を迷うことがある?

おれは目を閉じ、彼女のいない世界をもう一度反芻してみる。
それから、ゆっくりと目を開いてから言った。


「オスカル、おれと、結婚してくれないか」



彼女だけが永遠に情熱を傾けられる存在で。
たとえ、どんな障害があろうと、どれほどの重荷を背負わせられようと、彼女なしに生きていくことは、もう出来ない。
きっと何度生まれ変わろうと、おれはその度にオスカルを求めて探しつづけることだろう。

料理を口に運ぶために、ややうつむいていた彼女の動きが止まった。
おれは息を飲んで、彼女の反応を待つ。

涙が一つ、ぽとりと皿に落ちた。

「おまえは……、どうして……そういう……」
おれは慌てた。感情のままにプロポーズの言葉を口にしてしまったが、普段は男勝りに仕事をして凛として振る舞っている彼女も、女性だ。もっとロマンティックな場所だとか、演出だとか、そういう理想も抱いていたに違いない。デリカシーのかけらもないな、おれは。
「ご、ごめん、やり直すよ」
前言撤回する気はさらさらないが、彼女の気の済むよう、美しい思い出として振り返れるよう、あらためて、言いなおすべきではないか、そういえば、こういう場面では指輪を用意しておくものではないかとか、己がしでかしてしまったことに、軽くパニックに陥る。

「ばか、そういう問題ではない」
彼女の声が怒ってはいないようで、胸をなでおろし、あらためて尋ねる。心を落ち着けるため、おれはごくりと唾を飲み込んだ。
「じゃあ、オスカル、返事は……」

「今は言ってやらない!」
彼女は鼻をならし、少し赤い目をして言い放った。
「“今は”?――ということは、返事はウィということで――」
「さあ……どうだろうな」

そんなに、おれをいじめないでくれ。
急に思いついたわけではないんだよ。ずっと伝えたかった言葉で、とても大切で。だからこそ早く伝えなくてはと思ったから。
だから、ね。
頼むから、お願いだから、機嫌を直して――……と宥めすかしても、オスカルはおれの目さえ見ず、返事をはぐらかす。
ついには跪いて、おれは彼女の許しを乞い、何とか色よい返事を引き出そうとするのだが、オスカルには取り付く島もなく――……。



そんな攻防が、料理がすっかり冷めてしまうまで続いたのだった。



(了)