2 KYO 2



Tokyo 編



機体は南風に逆らうように、北側からの着陸コースをたどって滑走路にランディングした。
オスカルが一つ小さくため息をつく。
おれはその様子を見て、心の中で“職業病だな”とそっと笑う。他人の操縦と自分の感覚が違うので、離着陸時は、違和感を感じずにはいられないのだと言う。自動車の運転でも、人それぞれアクセルの踏み具合やブレーキのタイミングが違って、そのせいで、時には車酔いしてしまう、あの感覚と似たようなものかもしれない。
ほとんどの乗客が日本人である機内では、ベルト装着のランプが消えた途端に、もう降機のための準備が始まり、ざわついてくる。それぞれのイメージカラーで会社名がペイントされた数機の旅客機の間を縫って、滑走路からターミナルに向かう。
降機のアナウンスがあり、ゆっくりと乗降口に列が吸い込まれていく。列が途切れたところで、おれたちも立ち上がり、にこやかに、おじぎをするキャビンアテンダントの前を過ぎ、ボーディング・ブリッジに足を踏み入れると、むわっとした湿った暖かい空気に包まれた。
日本は、梅雨と呼ばれる季節だった。

「こんな天気のすっきりしない季節に、すみません」
到着ロビーで待っていてくれた出版社の編集女史は、歓迎と再会の挨拶もそこそこに、相変わらずの少し舌足らずなフランス語で、そう言った。約一年前と変わらぬ丸顔にショートボブの彼女は、自分の非ではない天候のことにまで、申し訳なさそうな顔をする。
連日しとしとと、いつ終わるとも知れない雨が降り続く場所に、一年で最もさわやかで太陽の恵みにあふれているヨーロッパから、わざわざ呼び立てたのは、すまないという意味らしかった。
「あなたのせいでは、ないですから」
オスカルが笑顔でそう言ったが、女史はふいと顔を逸らして、おれにスケジュールの説明を始めた。
「サイン会は明日ですけど、まず、ホテルにチェックインして、少しお休みになっていただいてから、お疲れのところ、大変申し訳ないんですけど、インスタにあげる写真を撮りに何ヶ所かお付き合いいただいて――」

出版不況が叫ばれる中、今年の夏季キャンペーンとして、この女性編集者が社に提案したのは、翻訳本を前面に押し出した販売戦略だった。キャッチコピーはこうだ。

“海外文学で、日本から飛び出そう!おうちにいながら、ショート・トリップ”

コピーの出来の良し悪しはともかくとして、そのキャンペーンのために、いくつかの未翻訳作品が日本語の本になることが決まり、幸いなことに、おれの3冊目の翻訳も企画会議を通った。また、既刊本は文庫化されることになり、それらのプロモーションで、初サイン会が東京で開かれる運びとなったと知らされた時、ふと思い出した言葉があった。

“いつか、日本にも一緒に――”

ある夜、寝物語のついでに言った言葉だ。だが、日本行きの件を伝えると、オスカルもその言葉を覚えていて、「同行できないだろうか」と望んだ。うまいことに彼女のスケジュールの調整もつけられそうだった。
おれは、彼女の旅費は自腹を切れば全く問題はないだろうと思った。何しろ、自分を招待した、この出版社から発行されている雑誌で、昨年、一緒にグラビアを飾った“謎の女性”を熱演したのは、他ならぬオスカルなのだから、全くの部外者というわけでもない。担当のこの女性編集者は、その撮影現場に同席していて、すでに顔見知りな上、その際にオスカルに助けられたことを感謝しているに違いないとも思っていた。ところが、彼女が同行することをメールで伝えると、了承はされたものの、何だかあまり歓迎されていないような返事だったので、アンドレも、そこが引っかかってはいた。仕事に恋人を同伴するというのは、日本のビジネス感覚としては絶対的タブーだったのだろうか、もちろん仕事には全力で取り組むつもりだし、そちらを優先させることに、オスカルに異論はなかった。
何より、忙しい彼女とスケジュールをすり合わせて一つ一つ将来の夢を叶えていくことは、二人にとっては魅力的なことで、多少の山や谷は気にかけていても仕方がないと割り切った。この人も、自分がしっかりと仕事をこなせば、納得してくれるだろうと思う。
しかし、女史はさらに釘を刺すようにつづけた。
「すみませんが、オスカルさんは、撮影にご同行いただけません」
何しろ、どこで写真や動画を撮られるか分からない時代だから、というのが理由だ。「貴女を守るためです」という彼女の言葉は、ピシャリと目の前でドアを閉ざされて閉め出されてしまった時の感覚に似ていたので、オスカルは少し意外というか、傷ついた顔をしていたが、あの時は顔出しNGという条件でオファーを受けていたのだから、理屈は通っていた。仕方なく、おれはホテルの部屋にオスカルを残し、撮影とやらに向かうことになった。


TOKYOという名の不夜城の明かりが灯り、夜も更けてから、おれは、ようやく出版社が用意したホテルの一室に戻った。
オスカルは眠らずに待っていてくれた。昼間はウィンドウ・ショッピングをしたり、ふと目についた寺社を訪れて、雨に降られればカフェに立ち寄ってみたり、それなりに滞在を楽しんでいたようだ。
「あちこち連れまわされて、クタクタだ」
おれは、だらしなくダブルベッドに横になる。新宿、上野、浅草、そして、秋葉原。今日だけで、東京で外国人観光客が行きそうな所はだいたい回らされてしまった。編集部に言われるまま、あれこれ東京体験しているところを撮影される。写真を撮り、移動して、写真を撮り。半日の間に日本人の効率的な仕事の仕方というものを実感できたのは、まあ、勉強になったとはいえるかもしれない。
彼女がベッドの縁に腰かける。
「滞在日数が少ないとはいえ、さすがにきついな」
明日のサイン会を挟んで、都合3日の滞在の予定で、ほとんど観光する暇もない。ただし、サイン会の仕事が終わったら、もう少し日本に滞在して二人きりで旅を満喫することに決まっていて、それがおれの明日への活力になっていた。

「なぜか、みんな私のことを見ていたのだが、今日の格好はどこかおかしかっただろうか」
彼女はやや顔を曇らせ、金色の髪の毛先をくるくると指に絡めた。外国人が珍しくない東京でも、彼女の容姿は目を引かずにいられないのだろうと、おれは即座に思った。パリでさえ彼女の姿を目で追う男が後を絶たないことを、おれは知っている。彼女は全く気にかけていないし、気づいてすらいないが。
降り続く雨と曇天。天候は確かに人の心を左右する。
雨のそぼふる中、異郷で一人街をさまよえば、いつもとは違って、我知らぬうちに周囲の視線に敏感になってもおかしくはなかった。語学に堪能なオスカルでも、さすがに日本語は片言しか知らず、漢字などはほとんど理解できなかったから、それも不安をかきたてる要素になっていたかもしれない。
おれはそっと彼女を胸に引き寄せると、その髪に労わりの口づけを落とす。オスカルは安心した子供のように力を抜いて、身を預けた。
ホテルの部屋は、やや手狭に感じられたが、ロケーションと眺めだけはよかった。高層階のこの部屋の窓からは、すぐ近くにライトアップした東京タワーが見えた。何十本ものアーチ型の鉄骨で支えられた塔は、湿度をたっぷりと含んだ大気の中で、かすみながらも白っぽく闇に浮かんでいる。パリのエッフェル塔を連想させなくもなかったが、見慣れた塔とは、やはり、どこか違う。彼女はおれの腕の中で目を閉じていた。
「いつか……、いつのことだったか、こんな風に、この季節に雨の中たたずんでいた……。こんな、しのつく雨の中、大勢の人々と。そして、怒号、黒い服と対照的なきらびやかな服をまとった一団と……。それに青い軍服の―…」
あれは、どこで見た風景だったろうかと言って、開かれた青い目に射抜かれる。いつになく心細げな彼女をしっかりと抱き寄せると、金色の髪に手を差し入れて顔を引き寄せ、唇を奪う。

雨の匂いのする街は、彼女に現(うつつ)でない何かも見せたのだろうか。

雨がにわかに強まり、ガラス窓をたたいた。
彼女の体温、髪の匂い、そしてやわらなか唇の感触。
彼女をどんなに抱きしめて、何度口づけても、慣れてしまうことなどなかった。いつも、わずかなきっかけで決壊して、触れて確かめたいという思いをこらえながら、傍にいる。彼女の体を一瞬も離さないまま、覆いかぶさるように、その体をベッドに押し付けた。

空気中に抱えられる水蒸気量は、その体積の最高でも僅か4パーセント程度で、それを湿度100パーセントと呼ぶのだという。
そうして抱えきれなくなったものが――雨になる。


明けて、サイン会の当日は、かろうじて曇り空だった。
やはり、この日も若干過密スケジュールで、サイン会は午後からだったが、午前中は翻訳者との対談が組まれていた。昨夜の儚げなオスカルを思うと、おれは今日も一人にしておくのは忍びなくて、何と言われようと対談の場にもサイン会場にも連れて行くことに決めた。
編集者と待ち合わせの約束をしていた時間に、ロビーに彼女を伴っていくと、女史はオスカルの姿を見るなり、俯いて顔を真っ赤にした。やはりオスカルの方を見ようとはしないまま、「サイン会では別室に待機していただくことになると思いますけど」
そう、ぼそりと言ったのだった。おれはともかくオスカルを近くに置いておけるだけでも安堵した。


来場者があるのだろうか、なかったらどうしようか、それならばそれで、早く切り上げられて、むしろラッキーなのでは――などという、おれの不安を帯びた希望的観測は、幸か不幸か杞憂に終わり、会場になった都心の大型書店のビルの前には、朝から列が出来ていた。100枚分の整理券は、午前中の早い時間で配布が終わってしまい、店頭には急遽お詫びの張り紙が張りだされることとなった。
地方からわざわざこのために上京して来た読者も多数いて、一番前に並んでくれた人は、前日から会場近くのホテルに泊まりこんで、朝5時から並んだとのことだった。ありがたいことだ。そこまで思ってくれる熱心な読者がいることに、おれは素直に感謝しつつ、やや緊張しながらサイン会に臨んだ。

会場では、入口からサインをするテーブルまで、赤いベルトのついたパーテーション用のポールが並べられ、蛇行した迷路のような道が作られていた。そこには既に会場で売られている、おれの本を手にした読者が待機してくれていた。会場で販売している本を買うと、作者であるおれにサインしてもらえる仕組みだ。一人で何冊も抱えている人も見受けられた。おれが驚いたのは、意外なほどたくさんの人が楽しみにしていてくれたことに加え、圧倒的に女性が多かったことだった。そうか、おれの本は女性受けするのか。
サインをし、本を手渡すと、中には一生懸命練習して来た跡が伺えるフランス語で話しかけてくれるファンもいた。
「本は何冊も持っています」、「大好きです」、「会えて、うれしい」、「去年のグラビア素敵でした。あれで一気にファンになりました」
果ては、「Je t'aime !」――まで。
中には手を握って離してくれなかったり、抱きつこうとする女性まで現れて、ついていた編集者が何とか間に入ってくれて難を逃れたが、終盤になると、背中に鋭い視線を感じ始めた。振り返ることはなかったが、誰の視線かは見なくても分かった。
平静を装ってサインを捌きながらも、背中に冷や汗が流れる。段ボール一杯のチョコレートにまつわる顛末を思えば、いろいろと予想はついたはずだった。
すぐさま、言い訳しに駆け寄りたい衝動に駆られたが、まだサインを待つファンが何人も残っている。おれはちくちくと刺すような視線に耐えながら、最後の一人に本を手渡すと、急いでその人物のところに向かった。

オスカルはサイン会場となったイベント・スペースに隣接したスタッフ用控室にいた。やや俯き加減で口を引き結んでいるように見える。
「オスカル……?」
おれが恐る恐る声をかけると、彼女は笑顔を作り、明るい声でねぎらってくれた。「盛況でよかったな、お疲れ様。熱心な女性ファンが多くて、よかったではないか……」
だが、その笑顔は、ややぎこちない――というか引きつっている。“女性”のところのアクセントが強かった気がする。
おれもプロのはしくれなので、100人くらい熱心なファンがいてくれてもおかしくないというか、いてくれないと困るわけで。そうは思ったが、今は言わないでおく。
おれはゆっくりと彼女に近づいた。
「いや、わたしは何を言っているのだ……要するに、感情が理性に勝るという…………」
言い終わらないうちに、おれは彼女を抱きしめ、腕にぐっと力を込めた。


サイン会が大盛況のうちに終了すると、その夜は担当編集者の女史と上司の編集長、そして同僚数人で打ち上げが催された。経営母体がライブハウスだというその店は、編集部いきつけの店で、ジャズが程よい音量で流れ、金管楽器を組み合わせたシャンデリアやドラムのシンバルを使ったオブジェなどで、目にも音楽を感じさせる空間となっており、店内はそう広くはなかったものの、正面が一面ガラス張りとなっているために、開放感があった。
オスカルとおれを取り囲む形で、編集部のメンバーが座り、食事とアルコールを楽しみながら、企画の成功を祝った。海外文芸作品を担当する部署だけあって、フランス語は話せなくても英語は堪能で、上機嫌な雰囲気の中、口数が少なかったのは、おれの隣に座った担当女史だけだった。
「今回の企画は、この人が猛烈にアピールして通ったものでしてね。私も絶対いけると思ってはいましたが、本当によくやってくれましたよ」
オスカルの隣に陣取った編集長の、さも自分の手柄のような言い様に、ほかの編集者たちはチラリと目配せをし合う。女史は「ありがとうございます」と小さく答えた。よく見ると食事にも、ほとんど手をつけていないようだった。
「それにしても、写真よりも実物の方がずっとずっと何千倍もお美しい」
編集長が今度はオスカルのことを褒めそやした。
「いや……そんなことは……」
オスカルが謙遜すると、編集女史がちらりと、はす向かいのオスカルの顔を見て、またすぐに下を向いてしまった。
編集長は企画の大成功と、隣に滅多にお目にかかれない美女がいることに気をよくして杯が進み、最後の方はほとんど泥酔状態で、自慢話なのか愚痴なのか、どっちとも取れる話で盛り上がり、編集者たちは、いつものことだと調子を合わせていた。日本人は飲み会の席だと羽目を外すとは聞いていたが、それは、こういうことか。また一つ勉強になった。
打ち合げも無事に、盛況といえば盛況のうちに終わり、二次会へも誘われたが、おれは丁重にお断りして、二人でホテルに戻ることにする。
拾ってもらったタクシーの中で、オスカルは言った。
「わたしが来たのが迷惑だっただろうか。何か嫌われることでも、したのだろうか」
誰のことを言っているのかは、すぐに察しがついた。
「特に、何もなかったと思うけど。あったとすれば、連れて来てしまった、おれが悪いのだから、おまえが気にすることはないよ」
オスカルがおれの肩によりかかって来る。
「彼女、もしかして、おまえのことが――」
それは、ないよと、おれが笑うと、オスカルは「おまえは鈍感すぎるから」と口をわずかに尖らせた。
――もし、もしも、おまえの推測が当たっていたとしても、おれの目にはおまえしか映らないのだが――。
身を寄せてくるオスカルの体の重みを感じながら、もう少し、ヤキモチを焼いてもらえる幸せに浸ることにして、今はその言葉を胸にしまっておいた。


深夜。
オスカルは隣で寝息を立てていたが、おれは疲れすぎて神経が高ぶってしまい、眠れないでいた。そっと起こさないように、髪を撫でる。薄明りでもくっきりとした目鼻立ちと、頬からつづく絶妙なカーブを描くあごの形までが分かることに喜びを感じる。こうして、彼女の寝顔を間近で眺めていられる時間というのも、おれにとっては至福の時なのだが、明日はあくびを連発して、オスカルに怒られそうだ。


案の上、朝からあくびばかりのおれは、オスカルに窘められながら、ホームで新幹線を待っていた。
「京都はちょうど、祇園祭りですね」
担当女史は最後まで責任をもたなければと思ったのか、ここまで見送りに来てくれていた。
運転席の先がずいぶんと長く突き出た車体がゆっくりとホームに入って来た。この形状は、騒音対策やトンネル内で発生した気流によって車体が振動する現象を解決するため、流体力学の粋を集めた結果だそうだ。
日本人の気配りが形になると、こうなったというわけだ。
オスカルに乗車するよう促し、スーツケースにおれが手を伸ばしていると、彼女は編集女史にすっと右手を差し出した。女史の方は一瞬固まったが、両手で大事そうにその手を包むと俯いて耳まで真っ赤になる。
ああ、そういうことか。
この三日間の彼女の態度が一つにつながった。性格にもよるだろうが、好きすぎて、というのも困りものだ。オスカル相手なら、その気持ちもよく分かるが。
握手を返してくれたことで、オスカルは極上の笑みを浮かべていたが、下を向きっぱなしだった女史に届いたのかどうか。


発車のベルが鳴り、列車が走り出しても、名残惜しそうに彼女は手を振っていた。ガラス越しになら直視できるのだろうか、その視線はおれの横で観光ガイドに目を通している横顔をずっと追っていた。

――あの日、あの場所で、一体どれだけの人間が彼女に魅了されたことだろう。

鈍感なのは、どっちの方だ。なぁ、オスカル、おまえが、どれだけの人を虜にして、天国と地獄を味わわせているか、知っているか。
そんなおまえが、おれの隣にいてくれるだけで、それが、どれだけ、おれを幸せにしてくれているか。
わかっているか。


車窓を景色が後ろへ後ろへと流れていく。

―――そろそろ、梅雨明けも近いそうだ。



(了)



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【この作品について】
このお話は、2017年の7月にキリリク企画で寄せられたリクエストの一つです。
リクエストの内容は、


テーマは日本でssで書いていただきたいです。
fly me to the moonでアンドレがオスカルさまにいつか日本にも行こうって言っていたので2人が日本に訪れる話を読みたいです。
・2人が日本のどこを訪れるかはお任せします。
・できれば、甘めのシーンが多いとうれしいです。


お読みいただき、いかがでしたでしょうか。

2年越しでやっとお届けすることができましたが(お待たせしすぎ^^; スミマセン…)、「Bitter & Sweet」を経ていなければ、こういう展開は思いつかなかったので、それまで熟成させたのだと、どうぞ広い心でご理解いただけますと幸いです。


h 様、リクエスト、誠にありがとうございました!

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