ヤドリギの下で



現代物のコーナーにある「Crossing」のその後のお話です。


真っ白な新雪の上をアンドレは歩いていた。一歩踏み出すと、踝の上まで沈み込む。転んで持っている包みを落とさないよう慎重に進む。キュッキュと足元が鳴る。口許からもれる息が晴天の空に白い。空気は頬を刺すようだったが、陽光はあたたかかった。
昨夜、夜半から降り出した雪が積もった地面には、まだ足跡一つなかった。子供の頃は、朝一番で誰かが通る前に、こうして雪の上に最初に足跡をつけることが出来ると、何かいいことが起きるような気がしたものだった。大人になった今は、もうそんな、まじないじみたものは信じられなくなったが、それでも気分がいい。
雪に反射する陽光が寝不足の目に眩しくて、何度かまばたきをする。昨夜はノエルのミサの後、深更を過ぎても終わることなく当主一家が団欒していて、彼もそれに付きあっていた。嫁いでジャルジェ家を離れていたオスカルの姉たちが今年は一堂に会し、その子供たちも伴って来たので、久しぶりに邸内は賑やかで華やいだムードに包まれていた。
ジャルジェ家の屋敷を取り囲む森に近づくと、野ウサギが一匹飛び出して来て雪の上を飛び跳ねた。雪の上に点々と小さな足跡がつく。
「おい、ずるいぞ、おれが先だ」
ウサギは後ろ足で立って鼻をひくつかせたが、人間がまっすぐ近づいて来たので、一目散に森へと逃げ込んだ。その足跡を追うように、彼は森へと入って行った。
森の木々も白いベールを被り、ときどきドサリと枝から積もった雪が落ちる音がする以外は、音という音は全て雪に吸われてしまっているように思えた。行く手に、雪ではない何かが落ちるのが見えた。そばまで歩いて、ただの木の実だと気づくが、赤いその実を拾い上げ、アンドレはコートのポケットにしまった。
しばらく歩くと、前方に粗末な小屋が見えて来た。アンドレは戸口まで歩き、扉を押し開けた。窓の少ない室内は暗く、冷え冷えとしていた。室内にはカーペットすらなく、飾りといえば、唯一、藁で編んだ紐で束ねられたヤドリギが、暖炉の上に逆さまにつるされているくらいだった。煙突から煙が出ていなかったから、小屋の主は外出中だろうと推測できたが、一応、名前を呼んでみる。
「おい、バーン、いるか?」
待っても返事はなく、持って来た包みをテーブルの上に置いて帰ろうと思ったところへ、ちょうど小屋の主が戻って来たのに鉢合わせする。
「よお、アンドレ」
「ちょうどよかった。おばあちゃんが、あれをお前のところに持って行けって」
アンドレが親指で指すと、バーンは小屋に入り、くるんであった布ナプキンを解いた。中には焼肉や果物、それにパイや菓子などが包まれていた。昨夜、ノエルの晩餐に主人一家のテーブルに上ったものの残りで、例年、使用人達にふるまえるよう多めに作らせて、翌日、下げ渡される。
「わざわざ、すまなかったな。ばあやさんには礼を言っておいてくれ」
ところで、ばあやさんの体調はどうだと言いながら、バーンは暖炉の脇に積んであった木を炉に放り込むと、器用に素早く火をつけた。マロンは少し前に倒れて以来、寝付いてしまっている。バーンの後ろについていたバセットハウンドが炉の前に座り込み、短い足にあごを載せて長い耳を床に垂らす。
「落ち着いてはいるよ。まだ起き上がれるようにはならないが。――火なんて入れなくていいよ、すぐに帰るから。仕事の途中じゃないのか?」
バーンの身に着けていた装備を見て、アンドレが気を回す。簡易な作りだが暖かそうな毛皮の外套に帽子をかぶり、ナタなどの道具類が入ったずた袋を腰に巻きつけ、肩には猟銃を担っている。
バーンはジャルジェ家の森番で、動植物の生育環境を整え、害獣や密猟者が森を荒らさないよう管理するのが役目だ。
「お前が来ると知らせが来たから戻った。それに、話もあるだろう?」
バーンが火かき棒で焚き木をつつくと、赤々と炎が燃え広がった。鍋に安物のワインをそそぐと、火にかける。
アンドレが目を見開く。知らせると言っても、森には他に住人はいないはずだ。まさか、あのウサギは森の管理人に来訪者を知らせようと、慌てて森へ戻ったのでもあるまいに。
バーンは謎めいたところのある、不思議な男だった。
ちょうど5年前の今日のことだ。未明にジャルジェ家の門前で、半ば雪に埋もれて行き倒れているところを、深夜のミサから戻って来たジャルジェ夫人が気づいて馬車を停めさせた。救世主が生まれ――そして、愛する末娘の生まれた日――に、間近で死人が出るのは忍びないと、邸内に運び込ませ、回復するまで面倒を見てやりたいと夫に願い出たおかげで命拾いした。
バーンは三日もすると起き上がって動き回れるようになり、自ら買って出て薪割りや水汲みなどの力仕事を引き受け、どんな仕事を任されても嫌な顔一つせず黙々とこなしていったので、すぐに使用人達に重宝がられた。起きられるようになったら出て行ってもらうはずだったが、そのまま居ついてしまい、ちょうど前の森番が年老いて仕事がままならなくなっていたところで、その務めを引き継いだのだった。彼は動植物に非常に詳しかった。以前、そのような仕事をしていたのかもしれないが、もともとが無口な上に、ジャルジェ家に辿り着くまでのことは一切語らないので、その辺りのことは誰も知らない。分かっているのは、名前から察するにアイルランド出身らしいということぐらいだった。
彼が屋敷に来てからしばらくすると、よくない噂が立った。「あいつは気味が悪い」と。庭で鳥と話しをしているのを見たとか、木の言葉がわかるみたいだとか、まだ話してもいないことを、なぜか前もって知っていたとか。
特に、迷信や噂好きな若い下働きの女たちが、面白がって、一時、その話題でもちきりになった時期があった。寄り集まってバーンの噂をしているのにアンドレも出くわしたことがあって、その時は一人、赤毛で太めの女が、いきり立って陰口をやめさせようとしていたが、彼が森番を引き受けたのには、そんなことが煩わしくなったせいもあった。屋敷にあまり近づかなくなると、やがて陰口は下火になった。
バーンが過去を語りたがらないことや、働き者で心根がよさそうなのに、使用人達とも打ち解けられない様子を気の毒がって、アンドレの祖母であり、女中頭であるマロン・グラッセは、今日のように食事を届けさせたり、必要なものがあれば用立ててやれるよう心を砕いていた。森までの道のりは少しあるので、たいていは孫のアンドレに使いを頼んでおり、そのため、バーンとアンドレは割と親しい間柄になっていた。
バーンが温まった赤ワインを2つのマグにそそぐと、自分とアンドレの前に置いた。テーブルから二本の湯気が立ち上る。
「ありがとう、体が温まるよ」
一口すすると、液体に魔法がかかっているみたいに、通ったところが熱をもっていった。
「で?」
自身もホットワインを飲みながら、バーンが尋ねた。
「“で?”って言われても……」
アンドレは戸惑う。自分は祖母の使いで来ただけで、別に他に用事はないのだがと、両手の中のマグをゆらゆらと回す。中の赤い液体に浮かぶ波紋を眺めているうちに、はたと思いつく。
「実は――ここ2日間ほどのことなのだが……」
アンドレはそう切り出すと、自分でも、それが現実に起こったことだったのか、それとも夢か幻覚でも見て、現実のように感じているだけなのか、時間がたつにつれて分からなくなって来た出来事を語り始めた。
「始まりは24日に日付が変わったばかりの、夜中のことだ。突然だったんだ、違和感があって。その……オスカルの様子がおかしくて……。確かにオスカルのはずなのに自分が知っているあいつではない気がして」
アンドレがちらりとバーンを見ると、彼は酒をすすりながらテーブルに視線を落とし、黙ってアンドレの話に聞き入っていた。どうやら、笑い飛ばしたりはしないようだと、アンドレは安堵して先を進める。
「――おれの勘は当たっていたようで、彼女の中身が誰かと入れ替わっているらしいことが分かった。未来で転生したオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェと、こちらのオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェとの魂が入れ替わってしまったというんだ。未来へ向けて手紙を書いたり、悪戦苦闘の末に二つの魂は元のあるべき場所に戻って、その日のうちに落着したんだが……」
一晩眠って目覚めると、昨日の出来事が夢だったような気がして来る。“未来から戻って来た”はずの彼女は、向こうで何があったのか具体的には何も語らなかった。突然、贈られた時計を見て泣き出したりして、もしかすると、精神的にただ少し不安定だっただけかもしれないと、そんな風にも思えて来た。そもそも転生ということ自体が、ありうるのかどうかから定かではないし、魂が入れ替わるという現象も信じがたい。
バーンが黙ったままだったので、わずかに不安になったアンドレが様子を窺う。
こんな話を打ち明けられたら、たいていの人間は、相手の頭がおかしくなったか、夢と現実がごっちゃになっているのだと思うことだろう。しかし、バーン、彼ならばまともに取り合ってくれるのではないかと、アンドレはそう踏んだのだが。
「その……」
バーンはまた一口ワインをすすってから、やっと口を開いた。
「何か……きっかけとか、引き金になった道具とかは?」
「鏡……」
「あの、目にラピスラズリをはめ込んだ天使の飾りの付いた奴か?」
アンドレが説明するまでもなく、ピタリと言い当てられて、目を丸くする。やはり、不思議な男だ。例の“噂”はまんざら根も葉もないことでもないらしいと思いながらも、アンドレ自身はバーンのことを気味が悪いとは思えなかった。彼は宙を仰ぐと、視えないものが目の前にあるかのようにつづけた。
「あれは、あれは、ちょっと厄介な代物だ。できるなら手放してしまった方がいい。ときどき人間の感情に感応するモノがあるが、あれは特に強い。何が起こるか分からんから、近寄らないのが身のためだ」
アンドレが、屋根裏に布を被せて置いてあると言うと、バーンは「それがいい」と猪首を何度か縦に振った。
「それで、おまえは、これからどうしたいんだ、アンドレ?」
「どうしたいって……。別に何も」
本当に彼女が未来に行って来たとしても、現状は何も変わらない。彼女は自分を男として見ることはできないだろうし、越えがたい身分の壁は以前として眼前に立ちはだかっている。
でも、自分は。
”そうだ、そういうことだ”とアンドレは心の中で呟いた。どんなに不思議なことがあろうと、試みの辛い出来事が降りかかって来ようと関係ない。彼女の傍にいて、彼女を守ること。それが唯一自分のするべきことだ。今までも、そして、これからも、ずっと。
昨日の、彼女からの口づけ。
そして、時間の先のどこかで、彼女と自分が生まれ変わって、そこでは彼女が自分を愛してくれているとしたら――。そう想像するだけで、絶望的な愛の成就に苛まれている自分の心に灯が点るようだ。一縷の望みすらない現状に、きっと、自分の願望が描いてしまった白昼夢を見ていたのだろうと、アンドレは昨日の出来事を胸の中にしまい込むことにした。
――だが、夢だったとしても、なんという、甘い、極上の夢だろう――あれは、きっと少し早いノエルの贈り物だったに違いない、と。
「時間を取らせて悪かったな。もう、戻るよ」
立ち上がったアンドレをバーンが制する。戸棚から皮袋を出して来て、アンドレに渡した。中には紙包みかいくつか入っている。
「ばあやさんに。薬草だ。一日一服ずつ、夕食の後にでも煎じて飲ませてやってくれ。――そうだ」
バーンは踏み台に上ると、暖炉の上に吊るしてあったヤドリギの束を下ろして差し出した。
「これを持って行け、ヤドリギには魔を掃う力がある」
「貰って、いいのか?」
バーンはニヤリと笑った。
「もうおれの所には幸運を運んで来てくれた。一ついいことを教えておいてやろう――…」
彼はヤドリギにまつわる、男女の言い伝えと、昨夜、その下で起こったことを耳打ちした。
「相手は赤毛か?」
バーンを庇っていた女の、印象的な髪の色が浮かぶ。
「赤毛はいいぞ。気が強いが、情熱的で一途だ」
「気の強いのは、いいよな」
アンドレが、ふふっと含みのある笑いをもらす。
「またな」とアンドレが言うと、「ああ、じゃあな」とバーンが返す。暖炉の前で眠っていた犬が片目を開けたが、すぐに目を閉じて再び寝息を立てた。

屋敷に戻ると、アンドレは使いから戻ったことを告げに、祖母の寝室へと向かった。預かって来た皮袋を手渡すと、森番の様子を報告した。今日の祖母は顔色がよかった。昨日から入れ替わり立ち代わり、ジャルジェ家の姉妹たちやその子供たちが部屋を訪れていたが、そのことが、気持ちに張りを持たせているらしい。祖母は、本当に主一家が大好きで、祖母も心から愛されているのだと、アンドレは思う。
「そうだ、おばあちゃん、何かきれいなリボンとか、飾りになりそうなものはないかな。レースの切れ端でもいい」
「何に使うんだい?」と、マロンは眼鏡を指で持ち上げる。
「これを飾るんだ」
アンドレは、森番から貰った枝の束を持ち上げて見せた。


午後の正餐が始まる頃、アンドレはオスカルの部屋に向かっていた。昨夜は夜更かしをしたものの、さすがにもう起きて身支度も済んでいるはずだと思った。
部屋の前で、オスカル付きの侍女とすれ違い、「ちょうど、お召し替えが終わったところよ」と教えてくれたので、ドアをノックする。部屋に入ると、彼女は窓辺に立って外を眺めていた。
「――雪が降っていたのか。気付かなかった」
彼女は白い化粧を施した前庭を見つめたまま言った。
「ああ、夜半から降っていた。明け方にはやんだが。雪は雨のように屋根を叩いて音を鳴らしたりしないからな」
アンドレも窓際に近づいて、窓の外を見た。眼下の歩道には幾筋もの足跡がついており、溶けかけた雪と黒い泥が交じり合っていた。
「あまり、よく眠れなかったのか?」
彼女はやや顔色が悪く、やつれて見えた。オスカルは返事をしなかった。その代わりに、「それは、なんだ?」と、アンドレが手にしているものに気づいて、尋ねた。
「この部屋にはそぐわないかもしれないが…作ってみた。」
ヤドリギのブーケは、粗末な縄の代わりに、マロンがくれたサテン地の赤いリボンでまとめられ、やはりマロンがくれたドライフラワーと、凝った刺繍の布でくるんだ数個のボタンに、朝、森で拾って来た木の実もあしらわれていた。素朴ではあるが、森番の小屋の壁に掛けられていた時より、かなり洗練されたものに仕上がっている。リボンの中心部分に取り付けてみた、小さな金属性の鈴をアンドレは指で弾いて鳴らしてみせた。ベルはチンと短い音を立てる。
「とても、かわいらしいな……、ありがとう。では、ここに飾ろう」
オスカルが窓を指すと、アンドレは窓の金具にブーケを引っかけ吊り下げた。おどけた調子で、「急ごしらえにしては、なかなか上出来だろう、今から職人に弟子入りするかな」と言うと、オスカルは、ようやく少しだけ笑った。
「ヤドリギは、魔を掃い、幸運をもたらしてくれるのだそうだ」
彼はブーケに触れて言った。
”幸運をもたらてくれるのならば、自分でなく彼女の方に”と、強く思いながら飾り付けた。
ふと、先ほどの森番とのやり取りを思い出し、アンドレは、いたずら心が湧いて来た。ちょっと彼女をからかって、もう少し元気づけてやろう、と。
「知っているか?ノエルにヤドリギの下にいる女性は、キスを拒めないのだそうだ」
「え?」
オスカルの目が見開かれた。生気のなかった青い瞳に光が入る。わずかに白い顔に朱が差し、怒りだすのかと、アンドレは身構えた。「ばかなことを言うな」といなされて、腹に軽く一発パンチでも飛んでくるかもしれない。
ところが。
「ならば……そういうことならば仕方ないな」
オスカルが、素直に目を閉じる。
「え?」
予想外の展開にアンドレはその場で固まった。自分から言い出しておいて何だが、こういう反応は想像すらしていなかった。
彼女は目を閉じたまま、「どうした?」と次を促してくる。
せめて、いつまでも変わりなく、子供の頃のように冗談を言い合って、戯れて―――。自分が言った冗談で、彼女が笑って気持ちが少しでも和らぐのならば、それでいい。それ以上は望まないと、そう思っただけだったのに。
嫌な汗が吹きだす。頭の中は今朝の新雪のように真っ白になる。
オスカルの部屋で、二人っきり。
わずかに吹き込む隙間風のせいか、鈴がひとつチリっと音を立てた。


ややあって、アンドレは、やっと額にキスをした。
「なんだ、これだけか?」
オスカルが拍子抜けしたような声を出して、目を開けた。
“そう言われても”
これが精一杯だ。これ以上のことをしたら、歯止めがきかなくなる――。彼女の髪の香りだけでも、どれだけ自分の男を掻き立てているか、オスカルは知らない。彼女に触れる、またとない機会をみすみす自ら潰してしまったが、これでよいのだと、彼は自身を納得させる。昨夜、ヤドリギの下での口づけから始まった森番と赤毛の女のような濃密な夜は、自分と彼女の間には決して降りて来ないのだから――。
アンドレには、彼女が少し物足りなそうな顔をしていたように見えたが、きっとそれもまた、自分の願望のせいだと自らに言い聞かせる。まだ、ざわついている心が顔に表れないように必死に取り繕いながら。
ノックの音がした。先ほどとは別の侍女が午餐の用意が整ったと呼びに来ていた。
「わかった、すぐに行く」
オスカルは、アンドレの横をそっけなく通り過ぎて行った。

先ほど鼻先に触れたやわらかな黄金の髪が離れていくのを見つめつつ、こちらは明日からの準備でもするかと、アンドレも窓辺を離れる。明日からはまた衛兵隊での勤務がある。日常が始まる。彼女のそばで、彼女を守る日々。

出て行ったはずのオスカルが、半開きのドアから、ひょこりと顔を出した。
「夜になったら、ワインをあたためて持ってこい」
ややあってから、アンドレは答えた。
「――ああ、わかった」

彼は彼女の部屋を出る前に、もう一度窓辺のヤドリギを目で確かめて、それから、そっと扉を閉めた。

”――彼女も変わらず、自分を必要とし、そばにいることを望んでくれている……。ヤドリギの奇跡など、なくても十分だ”

自室につづく階段を上る彼の足取りは、いつもより軽やかだった。



(了)