埋み火 1775 -2-



オスカルの部屋から出て来たおれを、おばあちゃんが呼び止めたのは、それから数日後の夕刻のことだった。まだ日没まで間があったが、すっかり西に傾いた太陽の光は、東向きの窓しかない廊下には届かず、既に薄暗くなっていた。
「何だよ、おばあちゃん。おれ、忙しいんだけど。明日の閲兵式に急な変更があって、これから伝令に行かなきゃならないのに」
おれが不満げにそう抗議しても、祖母はどこ吹く風で、自分のやりたいようにやる。
「いいから、いいから、すぐ済むよ」
おれの背中を強引に押して、窓と反対側の廊下の隅に追いやる。小柄な体を振りほどくことは簡単なはずだ。だが、成長した今になっても、子供の頃と同じように祖母には、いいように扱われてしまう。廊下の端に飾ってある大きな磁器の壺の前まで来ると、おばあちゃんは周囲を見回して、人の姿がないことを確認してから、声を落として耳打ちするように話しかけてきた。ずいぶん下にある祖母の顔に耳を近づける。
「実はね……」
「はあ!?おれに結婚話ぃ!?誰と!?」
声が大きいよとたしなめられたが、寝耳に水すぎて、おれは大声を上げずにはいられなかった。開いた口がふさがらないとよく言うが、たぶん、その時のおれは実際にそうしていたと思う。
「おまえ、少し前に、オーベルカンプさんという方にお会いしただろ」
宮廷での晩餐会で隣り合った男の姿を思い出す。「その方からのお話なんだよ」
祖母が言うには、事の始めは一年ほど前のこと。オーベルカンプ氏が年の離れた妹を伴ってベルサイユ宮殿にやって来た時のことだった。兄とはぐれたその娘に声をかけ、一緒に探してやったのが、おれだったらしい。“らしい”というのは、そんな出来事があったことなど、すっかり忘れていたからだ。女の顔すら覚えていない。ところが、相手の方は、それですっかり、こちらを気に入ってしまって、その際に聞いた名前を手掛かりに、ジャルジェ家に仕えていることを突き止めたとのことだった。
「相手のお嬢さんはね、27になるのだけど、体があまり丈夫じゃない上にひどく内気で、これまで縁談をみんな断っちまってたらしいんだけど、おまえならばって言ってるんだってさ。年はちょっとばかし上だけど、姉さん女房はいいもんだよ。何よりオーベルカンプさん自身が大層乗り気でいらっしゃるそうだから。こんないい話は又とないよ……ね、そう思わないかい―…」
立て板に水とばかりに捲くし立てる祖母をやっと制して、話を遮った。
「自分が姉さん女房だったからって……。それに、おれは――」
「なあに、長く連れ添っちまえば、年なんて、どうでもよくなるもんだよ。オーベルカンプさんは妹さんが苦労しないで済むように、たっぷり持参金を持たせて……言っとくけど、お金目当てじゃないからね!ベルサイユに家を買って、そこで所帯を持ってもいいとまで言って下さるんだよ。何しろジュイ=アン=ジョザス村では大きな染物工場をお持ちの方だから―…」
晩餐会の夜、あの男が話していたことを思い出した。すると、あれは、相手は誰でもよかったというわけでなく、おれを狙っての自慢話だったのか。一通りの身上調査が終わった上で、妹の婿候補を自身の目で品定めしに来たというところか。どうやらお眼鏡にかなってしまったらしいと、苦笑する。
「そんなこと言われても……。おれは染色や織物のことなんて、これっぽっちも分からないし、第一……」
そんなことは向こうも重々承知と言い放ち、他人事だと思って祖母は呑気に説得をつづける。
「まだ若いから、すぐに新しい仕事も覚えられるだろうし、オーベルカンプさんが直々に鍛えて下さると言っていらっしゃるそうだよ。ありがたい話じゃないか、全くの素人をさ。それに、おまえには工場で働くんじゃなくて、経営を覚えて、宮殿での商売を手伝ってくれたらと仰っているんだ。それなら、あたしもおまえにいつでも会えるし、願ったり叶ったりの、これ以上ない話じゃないか」
ああ、そういうことかと合点がいった。それならば、腑に落ちる。いくら妹が慕う相手だからといって、素人の自分をなぜと思ったが。確か、あの男は工場には千人も従業員がいると言っていた。腕のいい職工なら、いくらも抱えているに違いない。ただし、宮殿や貴族にコネのある人間は、その中には確実にいないだろう。オーベルカンプが意味ありげに「事業を拡大したいと思っている」と言っていたのは、おれが宮廷に出入りを許されて、貴族社会の礼儀作法も心得ている上、王妃やその取り巻きたちにも顔を覚えてもらっているからだ。それに加えて、名門ジャルジェ家の次期当主として育てられたオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェの元従者ともなれば、申し分ないと、そう踏んだわけだ。
オーベルカンプの如才なさそうな顔つきが目に浮かぶ。妹がようやく首を縦に振った相手である上、商売上も利があるとなれば、一石二鳥というわけだ。これほど条件のよい義弟候補は、そうそう見つかるものではない。
「それにさ――……」
祖母の声のトーンが低く、か細くなった。言いにくそうに目を伏せる
「それに?」
「いつまでも、お傍にいても……どうなるものでもないから」
思わぬ言葉にドキリとした。それは、オスカルと自分のことを指しているのだろうか。けれど、祖母の言わんとしていることを確かめる勇気は、おれにはなかった。
「と、とにかく、おれ、まだ結婚なんてする気はないから!じゃあね、行くよ」
急ぎ足で階下に向かう。祖母にその先を言われないうちに。
「とにかく一度、お嬢さんに会ってみたらどうだい?それから断っても遅くないよ!」
追いかけるように階上から降りてくる言葉は聞こえないふりをして、一気に玄関ホールまで駆け下り、正面の重厚な扉を押し開けた。
もう、西の空が夕陽に染まり始めていた。日の名残りの水色と夜の訪れを先触れするオレンジ色が溶け合う辺りに白い雲がたなびく。
“おばあちゃんは、オスカルへの気持ちに気づいているのだろうか”
「オスカル……」
”アンドレ”
幼い頃から毎日、互いの名を呼び合い片時も離れずに育った大切な存在。大切な存在なのは今でもずっと変わらないが、その名を呼ぶ度に、彼女の澄んだ声が自分の名を呼び返す度に、抑えようのない感情が湧いて来ることに気づいたのは、いつのことだったろう。彼女が自分の気持ちに気づいてくれないかと、ほとんど絶望的な期待にすがりつきながら、一方で気づかれてほしくないという思いもある。祖母に言わるまでもなく、彼女に伝えても、どうなるものでもないことは自分でもよく分かっていたから。
もし自分が想いを告げたら、そうしたら、二人の関係はどうなってしまうのだろう――壊れてしまうのだろうか。
自分は今年21になった。彼女は20歳を迎える。オスカルは軍人としての道を順風満帆に突き進んでいる。多少の波風は立っても、彼女の将来は約束され、光に満ちている。それに比べて、自分は――。
馬屋の近くまで行くと、強い花の匂いがした。香りのした方を見ると、オレンジ色の小さな花が無数についた木が、ぽつんと立っている。
花が咲いていない時期は、ほぼ毎日、出仕や遠乗りの供をするために前を通っているにも関わらず、気にも留めない。だがしかし、花が咲くと、その強い香気に振り返らされる。そして、毎年、もうそんな季節かと思う。彼女もこの花に気づかされる時期がやって来ると、同じように感じていたのか、「もう、そんな季節か」と同じ言葉を同時につぶやいたことがあって、あの時は、顔を見合わせて笑った。そんなときのオスカルは、軍人の制服をまとっていなかった頃の、幼いまだあどけない頃の顔をしていた。
中国が故郷だというその樹はフランスでは滅多に見かけない種類のもので、ギリシャ語では、「香りのある花」と呼ぶのだと、世話をしている庭師から聞いた。実際に咲いているところを見ると、そう名付けた気持ちがよく分かる。
はるばる海を越えて来た幼木は、もともと廃棄されるはずのものだった。ジャルジェ夫人が屋敷にオランジュリー(温室)を造った際に取り寄せた植物に交じって誤って届いたもので、庭師が目立たぬ場所に植えてみた。命を救われたことに応えるかのように、木は、さほど手をかけることはしなくても、すくすくと成長して、庭師の背丈も越えるまでになり、今年も元気に花を咲かせている。
4つの花弁をもつ花が、風が吹く度に辺りに芳香を放ちながら、はらはらと散っていくのをアンドレはぼんやりと見つめた。むせ返るような匂い。常緑の下の地面は橙黄色の絨毯が敷き詰められているように見えた。その色は夕陽より少しやさしい。
どれくらい、その場に立ち尽くしていたのか。我に返ると陽が落ちかけ、一番星が瞬き始めていた。アンドレはまとわりつく香りを振り払い、オスカルの命令を守るため、急いで馬に馬具を付けると走り出した。


翌日の閲兵式は晴天に恵まれ、国王夫妻臨席のもと、つつがなく行われた。バルコニーから見下ろす若き王と王妃は幸せに満ちていて、遠目からも輝いて見えた。
無事に任務を果たしたオスカルは司令官室に戻ると、大儀そうにソファへ乱暴に身を投げ出した。すらりと伸びた足が片足だけ肘掛に乗っかっている。
「大丈夫か?」
心配して声をかけると、オスカルは目を閉じたまま、「大丈夫に決まっている」と返事した。
閲兵式は見事な出来栄えだった。国王ご夫妻へ対する限りない敬意に満ちた近衛連隊の一糸乱れぬ行進に、両陛下からはお褒めの言葉を賜った。それなのに、オスカルは不機嫌だ。声には刺々しさまで感じられる。
「今夜もこれから夜会だ。……おまえは、先に帰ってよいぞ」
当然、待っているつもりだったおれは、驚いて目を見開いた。
「いつも通り、待っているよ」
「いいから……帰れ!」
即答した彼女の言葉は強い命令口調で、有無を言わせない響きがあった。おれは理由を問い質したい思いを飲みこんで、彼女を見つめた。オスカルはクッションに頭を深く沈めて柳眉を寄せている。
「いつも終わった頃には腹がうるさいくらい鳴っているじゃないか。先に帰って屋敷で夕食を摂るがいい。晩餐のテーブルには、おまえは着けないのだから。帰りは……一人で帰れる。うん、これからは」
彼女が「そうだ、一人でも何とかなる」と小声で繰り返す。軽いノックの音がした。オスカルが入室を許す。現れたのは、ジェローデル大尉だった。彼女は軽やかに立ち上がる。もう先ほどまでの疲れた様子は微塵も見せずに。
オスカルは出て行く直前に「ではな」と、振り返ってくれはしたものの、命令は翻さないまま行ってしまった。一人部屋に残されたおれは、しばらく動揺が収まらず動けなかった。
”どうして、急にオスカルは……”
彼女の冷ややかな態度に重なって、東洋から運ばれて来たやわらかな布地の様々な模様が目に浮かんだ。4つの花びらをもつオレンジ色の小花、そしてその香りが、頭の中を乱暴にぐるぐると駆け巡った。
扉の向こうから、かすかに二人の話し声が聞こえていた。それを上書きするように、アンドレの耳には、昨日の祖母の言葉が何度も何度も繰り返し響いていた。こめかみの血管が痛いほど、どくどくとするのが感じられる。
“いつまでも、お傍にいても……どうなるものでもないから”
慌てて体を屈めて耳を塞いだが、祖母の声はだんだん低く太くなると、ますます大きくなるばかりだった。どうなるものでもないから
ど うなるものでもないから
どうなるもので もないから
ど う なるも のでもないから
ど う な る も の で も な い か ら

「いやだ、やめてくれ……」
その事実は分かりすぎるほどに分かっている。これは誰のものでもない、自分の中から生成されている声だ。
耳をいくら塞いだからといって、消えてくれる類のものではなかった。


(つづく)





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