埋み火 1775 -2-



オスカルの部屋から出て来たアンドレを、マロン・グラッセが呼び止めたのは、それから数日後の夕刻のことだった。まだ日没まで間があったが、すっかり西に傾いた太陽の光は、東向きの窓しかない廊下には届かず、既に薄暗くなっていた。
「何だよ、おばあちゃん。明日の閲兵式に急な変更があって、これから伝令に行かなきゃならないのに」
「いいから、いいから、すぐ済むよ」
困惑している孫息子の背中を強引に押して、窓と反対側の廊下の隅に追いやる。すっかり大人の体格になったアンドレが振り払おうと思えば簡単なことだったが、子供の頃から変わらず、祖母には、いいように扱われてしまう。廊下の端に飾ってある大きな磁器の壺の前まで来ると、マロンは周囲を見回して、人の姿がないことを確認してから、声を落として孫息子に耳打ちするように話しかけた。小柄な祖母の方にアンドレは体を傾ける。
「実はね……」
「はあ!?おれに結婚話ぃ!?誰と!?」
声が大きいよとたしなめられたが、寝耳に水の話に、アンドレは開いた口がふさがらない。
「おまえ、少し前に、オーベルカンプさんという方にお会いしただろ」
アンドレは、宮廷での晩餐会で隣り合った男の姿を思い出す。
「その方からのお話なんだよ」
祖母が言うには、事の始めは一年ほど前のこと。オーベルカンプ氏が年の離れた妹を伴ってベルサイユ宮殿にやって来た時のことだった。兄とはぐれたその妹にアンドレが声をかけ、兄を一緒に探してやったことがあったらしい。“らしい”というのは、アンドレの方は、そんな出来事があったことなど、すっかり忘れていたからだ。女性の顔すら覚えていない。ところが、相手の方は、それですっかりアンドレのことが気に入ってしまったらしく、その際に聞いた名前を手掛かりに、ジャルジェ家に仕えていることを突き止めたとのことだった。
「相手のお嬢さんはね、27になるのだけど、体があまり丈夫じゃない上にひどく内気で、これまで縁談もみんな断っちまってたらしいんだけど、おまえならばって言ってるんだそうだよ。年は少し上だけど、姉さん女房はいいもんさ。何よりオーベルカンプさん自身が大層乗り気でいらっしゃるそうだから。こんないい話は又とないよ」
立て板に水とばかりに捲くし立てる祖母をやっと制して、アンドレが話を遮る。
「自分が姉さん女房だったからって……。それに、おれは――」
「なあに、長く連れ添っちまえば、年なんて、どうでもよくなるもんだよ。オーベルカンプさんは妹さんが苦労しないで済むように、たっぷり持参金を持たせて……言っとくけど、お金目当てじゃないからね!ベルサイユに家を買って、そこで所帯を持ってもいいとまで言って下さるんだよ。何しろジュイ=アン=ジョザス村では大きな染物工場をお持ちの方だから―…」
晩餐会の夜、あの男が話していたことを思い出す。すると、あれは、相手は誰でもよかったわけでなく、アンドレの気を引くための自慢話だったことになる。一通りの身上調査が終わった上で、妹の婿候補を自身の目で品定めしに来たというところか。どうやらお眼鏡にかなってしまったらしいと、苦笑する。
「そんなこと言われても……。おれは染物のことなんて、これっぽっちも分からないし、第一……」
「まだ若いから、すぐに新しい仕事も覚えられるだろうし、オーベルカンプさんが直々に教えて下さると言っていらっしゃるそうだよ。それに、おまえには工場で働くんじゃなくて、経営を覚えて、宮殿での商売を手伝ってくれたらと仰っているんだ。それなら、あたしもおまえにいつでも会えるし、願ったり叶ったりの、これ以上ない話じゃないか」
ああ、そういうことかとアンドレは思った。いくら妹が慕う相手だからといって、素人の自分をなぜと思ったが、それならば、腑に落ちる。たしか工場には千人も従業員がいると言っていた。腕のいい職工なら、いくらも抱えているに違いない。ただし、宮殿や貴族にコネのある人間といったら、そうそう都合よく見つかるものでもない。アンドレは宮廷に出入りを許されて、礼儀作法も心得ている上、顔見知りも多い。それに加えて、名門ジャルジェ家の次期当主として育てられたオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェの元従者ともなれば、知らない相手でも、彼女とジャルジェ家への興味関心から、会ってくれる気になることも多いに違いない。そう読んだわけだ。
オーベルカンプの如才なさそうな顔つきが目に浮かぶ。妹がようやく首を縦に振った相手である上、商売上も利があるとなれば、一石二鳥というわけだ。これほどの義弟候補は、滅多にいない。
「それにさ――……」
祖母の声のトーンが低く、か細くなる。
「それに?」
マロンは言いにくそうに目を伏せた。
「いつまでも、お傍にいても……どうなるものでもないから」
思わぬ言葉にドキリとした。それは、彼女と自分のことを指しているのだろうか。けれど、祖母の言わんとしていることを確かめる勇気は、アンドレにはなかった。
「と、とにかく、おれ、まだ結婚なんてする気はないから!じゃあね、行くよ」
急ぎ足で階下に向かう。祖母にさっきのセリフの先を言われないうちに。
「とにかく一度、お嬢さんに会ってみたらどうだい?それから断っても遅くないよ!」
階上からの祖母の言葉は聞こえないふりをして、一気に玄関ホールまで駆け下り、正面の重厚な扉を押し開けた。
西の空が夕陽に染まり始めている。日の名残りの水色と夜の訪れを先触れするオレンジ色が溶け合う辺りに白い雲がたなびく。
“祖母は、彼女への自分の気持ちに気づいているのだろうか”
幼い頃から片時も離れずに育った大切な存在。大切な存在なのは今でも変わらないが、いつしか彼女を女として見ている自分に気づいた。彼女が自分の気持ちに気づいてくれないかと、ほとんど絶望的な期待にすがりつきながら、一方で気づかれてほしくないという思いもある。祖母に言わるまでもなく、彼女に伝えても、どうなるものでもないことは自分でもよく分かっていた。
もし自分が想いを告げたら、そうしたら、二人の関係はどうなってしまうのだろう。壊れてしまうのだろうか。
自分は今年21になった。彼女は20歳を迎える。オスカルは軍人としての道を順風満帆に突き進んでいる。多少の波風は立っても、彼女の将来は約束され輝きに満ちている。それに比べて、自分は――。
馬屋の近くまで行くと、強い花の匂いがした。香りのした方を見ると、オレンジ色の小さな花が無数についた木が立っている。
花が咲いていない時期は、ほぼ毎日前を通っているにも関わらず、気にも留まらないのだが、花が咲くと、その香りに振り返らされる。そして、毎年、もうそんな季節かと思う。
中国が故郷だというその樹はフランスでは滅多に見かけない種類のもので、ギリシャ語では、「香りのある花」と呼ぶのだと、世話をしている庭師から聞いた。実際に咲いているところを見ると、そう名付けた気持ちがよく分かる。
はるばる海を越えて来た幼木が、ヨーロッパの地にしっかりと根を張り、花を咲かせるまでに成長した。もともとはジャルジェ夫人が屋敷にオランジュリー(温室)を造った際に、温室の植物に交じって誤って届いたもので、廃棄されそうになったところを、「このまま枯らしては可哀想だと」、その庭師が目立たぬ場所に植えたものだった。その気持ちに応えるかのように幼木はすくすくと成長して、庭師の背丈も越えるまでになり、今年も花を咲かせている。
4つの花弁をもつ花が、風が吹く度に辺りに芳香を放ちながら、はらはらと散っていくのをアンドレはぼんやりと見つめていた。むせ返るような匂い。常緑の下の地面は橙黄色の絨毯が敷き詰められているように見える。その色は夕陽より少しやさしい色だった。
どれくらい、その場に立ち尽くしていたのか。我に返ると陽が落ちかけ、一番星が瞬き始めていた。アンドレは纏いつく香りを振り払い、オスカルの命令を守るため、馬に馬具を付けると走り出した。


翌日の閲兵式は晴天に恵まれ、国王夫妻臨席のもと、つつがなく行われた。バルコニーから見下ろす若き王と王妃は幸せに満ちていて、遠目からも輝いて見えた。
無事に任務を果たしたオスカルは司令官室に戻ると、大儀そうにソファへ乱暴に身を預けた。すらりと伸びた足が片足だけ肘掛に乗っかっている。
「大丈夫か」
心配してアンドレが声をかける。
「大丈夫に決まっている」
閲兵式は見事な出来栄えだった。国王夫妻への限りない敬意に満ちた一糸乱れぬ行進に、両陛下からもお褒めの言葉を授かったというのに、オスカルは不機嫌そうで、声には刺々しさがある。
「今夜もこれから夜会だ。……おまえは、先に帰ってよいぞ」
当然、待っているつもりだったアンドレは、驚いて目を見開く。
「いつも通り、待っているよ」
「いいから、帰れ!」
彼女の言葉は命令口調で、アンドレに有無を言わせない響きがあった。アンドレは理由を問い質したい思いを飲みこんで、彼女を見つめた。オスカルはクッションに頭を沈めて、目を閉じる。
「晩餐のテーブルには、おまえは着けなくて、いつも終わった頃には腹がうるさいくらい鳴っているじゃないか。先に帰って屋敷で夕食を摂るがいい。……一人でも何とかなる。うん、これからは」
彼女が「そうだ、一人でも何とかなる」と小声で繰り返すと、軽いノックの音がした。オスカルが入室を許す。現れたのは、ジェローデル大尉だった。彼女は軽やかに立ち上がる。もう先ほどまでの疲れた様子は微塵も見せずに。
オスカルは出て行く直前に「ではな」と、アンドレを振り返ってくれはしたものの、彼への命令は翻さないまま行ってしまった。一人部屋に残されたアンドレは、動揺が収まらず動けない。彼女の冷ややかな表情、東洋から運ばれて来たやわらかな布地の様々な模様、4つの花びらをもつオレンジ色の小花、そしてその香りが、頭の中を乱暴にぐるぐると駆け巡った。
扉の向こうからは、かすかに二人の話し声が聞こえていたが、アンドレの耳には、昨日の祖母の言葉が響いていた。
“いつまでも、お傍にいても……どうなるものでもないから”



(つづく)




<<PREV.                              NEXT>>