A Midsummer Night's Dream〜夢の国狂想曲C〜 



その日は、これ以上望めないほど、パリの六月らしい陽気の日となった。青で塗りつぶされた空のカンバスに刷毛ではいた白い雲が浮かぶ。予想最高気温は、摂氏20℃を少し下回る程度。雨の予報はない。外で過ごすには最適の日といっていい。爽やかな風が夏の始まりの匂いを運んで来る。

「はじめまして。ル・ルー・ド・ラ・ローランシー、6歳よ!」
少女は、縮れた赤毛の頭を愛らしくぴょこりとかしげた後、その特徴的な目を一層大きく見開きながら、元気いっぱいにそう言った。好奇心をたたえたその瞳は、晴れ渡った空の輝きと、果ての知れなさを併せ持つ。
「この子も、ル・ルー・ド・ラ・ローランシー」
抱えていた少女そっくりの人形を両手で前に突き出す。
「ルイ・ジョゼフ。ジョゼフと呼んで……。よろしく」
挨拶を返す少年の反応は対照的で、年端もいかない子供にしては、落ち着きすぎで大人びていた。社交辞令で笑顔を作ってはいたものの、相手に別段興味も湧かない様子だった。
微風が、4人の髪をそっと揺らす。
ディズニーランド・パリの入園ゲート付近は、そこそこの人出で混雑していた。噴水からは何本もの水の柱が噴き上がり、手入れの行き届いた花壇に植えられている色とりどりの花は、世界一有名なネズミの顔を形作っている。夢の国の魔法は入園前から始まっているのだ。
イベントは昼間の営業が終わった後、約3時間に渡って行われる。入れ替えに入場することになるので、本当はイベント開始時刻に来ればよかったのだが、せっかくル・ルーがパリにやって来ていることだし、ジョゼフと友達になれればという思惑もあって、昼間は4人でアトラクションを楽しみ、それから夜のイベントに参加する日程を立てた。
「それでは、ジャルジェさま、くれぐれもジョゼフさまを、よろしくお願いいたします」
入園ゲートまでジョゼフを送って来たボディ・ガード兼側付の男性が、そう言いつつも心配げに、大切な守るべき少年の顔を見る。彼はジョゼフの警備担当主任を務めている男だ。先代の社長、現社長の祖父にあたる人に恩義があるとかで、律儀すぎるほどにジョゼフの安全に気を配っている。両親が許した後も、今日一日、警護を解くことに最後まで反対したのは彼だった。何度か誘拐未遂事件があり、その際に軽傷ではあるがジョゼフが負傷したこともあったから、彼の心配も決して杞憂だとは言い切れなかった。
「大丈夫だってば!オスカルが一緒なのだし」
お前もこの隙に、たまには羽を伸ばしたらいいと言い放って軽く手を振る。警備担当主任は一度振り返ったが、やがてパークにやって来る人々の間をぬって消えて行った。その背中を見送って、オスカルは自分が周囲のわずかな変化も見逃さず、危険の芽があれば自らの手で未然に防ぎ、ジョゼフを守り切るのだと固く心に誓った。
「では、参りましょうか」
オスカルが言い終わらないうちに、待ちきれなくなったのか、ル・ルーが一目散に園内目指して走り出した。慌ててアンドレが追う。オスカルが横にいるジョゼフを見ると、ル・ルーとそれを追うアンドレの姿をじっと見つめていた。
「早く早く、オスカルお姉ちゃまー!」
パーク内をぐるりと一周する列車の駅舎の前で、アンドレにしっかりと手をつながれたル・ルーが大きな声で呼んでいる。
オスカルとジョゼフが追いつき、八角形の屋根をもつ東屋が立つ広場に進むと、クラシカルな路面馬車が目の前を通り過ぎて行った。ランドの創設者であるウォルト・ディズニーが少年期を過ごしたミズーリ州の町をイメージした建物の間をラグタイムが流れる。
「あれ、食べたいわ。お姉ちゃま、買ってもいいでしょう?」
ル・ルーが鼻をひくつかせる。かなり離れたところにクレープ売りのワゴンが見えた。
「おまえ、ずいぶんと鼻がいいのだね。構わないが――」オスカルは、ル・ルーのはしゃぎぶりに、かすかに苦笑を浮かべつつ、「夜まで長いのだから、あまり最初から飛ばしすぎるなよ」と釘を刺す。
「ヌテラをたっぷり塗ってもらうの。ジョゼフも行きましょ。あなただって、食べたいはずよ。だって、子供はみんなヌテラが大好きだもの」
勝手に決めつけられて、「いや、ぼくは……」と当惑するジョゼフを少女は強引に引っ張って行ってしまう。オスカルとアンドレは二人の姿が見える位置まで移動し、少し離れて見守った。
「意外にいいコンビかもしれないな」
列に並んでいる子供たちを見て、アンドレが呟く。
「ああ、引き合わせてよかったよ。ほら、もう初対面とは思えないくらいに、親しげに話しているじゃないか」
自分より少し背の低い少女を見下ろして、ジョゼフが何かを話すと、ル・ルーが大きく頷き、言葉を返している。
「子供はいいよな、すぐ友達になれて」
アンドレが広場の敷石に、ふと目を落とす。
「アメリカにいた時に、誘われてあっちのディズニーに行ったんだけど」
彼はショップやレストランの立ち並ぶアーケードの向こうに聳える、眠れる森の美女の城を見やる。少し厳めしい城門の上に立つ、ベビーピンクの壁に青い屋根の城は、おとぎの国の象徴的な存在だ。
「――ここと造りがほとんど同じで、全く同じ雰囲気で。これだけ、世界中どこにあっても同じっていうのは、よくも悪くもすごいことだよな」
オスカルは小さく頷きながら、城の方を眺めたままの彼の横顔を黙って見つめた。頭に自然と浮かんで来てしまった言葉を飲みこんで。
“誰と行ったのだ?”
『誘われて』という部分と口ぶりから、何となく女性と行ったのではないかと思われた。彼が女性にもてるだろうことは疑う余地がなく、向こうからアプローチされることなど、星の数ほどあったに違いない。
だが、詮索して何になるというのだろう。たとえ推測が当たっていたとしても、それは過去のことで、それも自分と出会うずっと前のことで。仕方のないことだ。自分も彼と出会うまでに、男性と二人きりで出かけたことくらい何度もある。
しかし、それでも小さな棘が胸をちくりと刺す。
嫉妬という名の感情。
感情というものは、理性に反して勝手に動き出す。時に、制御できない自分とは別の生き物のように。
ふいに広場に歓声が上がった。見ると、ディズニーのキャラクターたちが、大げさな身振り手振りで、訪れているゲストを歓迎していた。チップとデールに、「アリス」のハートの女王とマッド・ハッターといった昔ながらのキャラクターに加え、比較的新しいところで、ジャック・スパロウ船長やアナとエルサもいる。たちまちキャラクターを囲んで人垣ができて、順番に一緒に写真を撮ったりセルフィーを撮ったりが始まった。クレープを買って戻って来たル・ルーたちも、立ち止まって見入っている。
キャラクターたちは、みな晴れやかな笑顔で、悲しげな顔をしているのは一体もいない。
「きっと、遊園地と言ったら、こういう大きなテーマパークを思い浮かべる人が多いのだろうけど、おれが最初に思い浮かべるのは、故郷によく来ていた移動遊園地かな」
アンドレがオスカルの方に向き直ったので、オスカルはさきほど抱いた気持ちが顔に表れていないかと、慌てて表情を引き締め平静を装った。
もう一度、子供たちの方を見て、懐かしそうな目になったアンドレは、記憶を手繰り寄せながら、ポツリポツリと言葉を継いだ。
「あれは、ちょうどおれが、あの子たちくらいの頃だったな……」

アンドレの故郷であるグラース近郊には、毎年、移動遊園地がやって来た。定期的に毎年巡業に来る一団もあれば、一度だけの一座もあった。クール・プレパトワ(6〜7歳の児童の学年)にいた時、学校の近くの公園に移動遊園地がやって来たのを見つけたアンドレが、行きたいとせがむと、二日ほどたった晩に、珍しく父親が連れて行ってくれた。
仮設の園内は、小さな子供たちが大好きなものでいっぱいだった。空気で膨らませた大きな滑り台、射的のストールに下がる、いくつものぬいぐるみ、スナックを売るスタンドでは、綿菓子を買ってもらえる。小さな観覧車はガタガタと揺れて軋みながら、かなりのスピードで回転し、巨大な鉄骨の観覧車などより、よっぽどスリルがある。人形芝居は定番の昔話を演じ、陽気な音楽が流れ、遊園地全体がピカピカと派手に光っていた。
その頃のアンドレの、中でもお気に入りはゴーカートで、乗ってはまた列に並んで乗るのを飽きもせず繰り返し、父親に呆れられたものだった。怪我がないよう車体の角が丸くなっているゴーカートには、電気を取り込むための長いアンテナがついていて、組み立て式の狭いサーキットの鉄板の上を走るのだが、「同じ方向に廻れ」と、いくら小屋の係員が怒鳴っても、エコール・プリメール(日本の小学校相当)に通うくらいの少年たちが聞くはずもなく、わざとバンパーをぶつけ合っては歓声を上げる。だが、ときどき数台が絡んでスタックしてしまい、動かせなくなることがあって、その車同士を押したり引いたりして引き離す必要があった。その仕事をしていたのは、アンドレより3つか4つ年嵩だった少年で、自分勝手に動いている車をよけながら、ひょいひょいと身軽に近づいて来て、手際よくカートを引きはなす。その姿が、小さかったアンドレの目には、とても格好よく映った。
何がきっかけで親しくなったのか忘れてしまったが、彼がフランス各地を転々としながら暮らしていること、定まった住居はなく、トレーラーで寝泊まりをしていることなどを話してくれたのを今でも覚えている。両親が、その移動遊園地で働いていて、少年も学校から帰ると、仕事を手伝っていたのだった。浅黒い顔で黒髪のその少年は、いつも静かに口の端に笑みを浮かべていた。
毎日、親には内緒で遊園地を訪ねると、少年が大人に見つからないように中に招き入れてくれ、ゴーカートに乗せてくれた。しかし、一週間も通いつめると、さすがに飽きて来て、アンドレは顔を出さなくなってしまった。
やって来てから一ヶ月ほどたった休み明け、遊園地は忽然と姿を消していた。次の町に移動して行ったのだった。学校に向かう途中で、ぽっかりと何も無くなった草地を見て、小さなアンドレは立ち尽くす。
「当たり前のことだって、子供ながらに分かっていたがずなのに、彼がいなくなるなんて想像できてなくて、泣いた。学校で目が赤いことをからかわれて、イライラしていたものだから、取っ組み合いのケンカになって、校長室でお説教を食らったっけ」
少し苦い思い出話をしたアンドレは、鼻の頭をかく。
「――今頃どうしているかな、あいつ」
もうはっきりとは覚えていない友の顔を何とか思い出そうとしながら、また愛らしい色合いの城の方に遠い目を向けた。さほど重要な話ではなかったが、彼の横顔を見つめるオスカルは、こうして自分と出会う前のアンドレのことも、これから少しずつ一つ一つ知っていくのだろうと、そんな風に思った。
「オスカルおねえちゃまーー!」
片手に人形を抱え、片手にクレープを持って、はしゃいだル・ルーが駆けて来た。その後ろを手ぶらのジョゼフがゆっくり歩いて来る。
「ル・ルー、スパロウ船長と握手をしたのよ!わたしなら海賊になれる、歓迎するよですって」
オスカルのもとに着くやいなや、彼女はクレープを持った手を掲げ、オーロラ姫の城を指した。
「ル・ルー、あのお城の中に行きたいの!」
「わかった、わかった。おまえは少し落ち着いた方がいい」
少し遅れて戻って来たジョゼフが、オスカルの袖を引っ張った。
「ぼくは、アトラクションにはあまり興味がないんだ。身長の制限で乗れないものも多いしね。それより、夜のイベントに備えて下調べをしたいな。もちろん、パートナーのオスカルも一緒に来てくれるよね」
そう言うと、、ちらりとアンドレのことを見た。二人の視線がかち合った。
「そんなのつまらないわ!せっかく来たのに。ル・ルーは断固はんたーい!」
ル・ルーは、頬を膨らませて抗議する。
「別行動すればいいじゃないか」
ジョゼフがそう言いだすと、「ル・ルーも賛成!」と姪っ子は再びクレープを持った手を高く掲げる。
オスカルはアンドレと顔を見合わせた。
「仕方ないな……おれが、ル・ルーを見ているから、おまえはジョゼフを見ると、手分けするしかないか」
ル・ルーがお目当ての城の方へと、ぐいぐいとアンドレの手を引っ張る。
「すまんが、アンドレ」
オスカルの方は、ジョゼフがしっかりと腕を絡ませている。
「ああ。昼には合流しよう」
人ごみに紛れてアンドレとル・ルーの姿はすぐに見えなくなり、オスカルはジョゼフと歩き出そうとした。しかし、ふと誰かに見つめられているような気がして、辺りを見回す。
「どうしたの、オスカル?」
視線を感じた方を見ると、キャストが建物の影に消えていくのが見えた。女性のようだった。
「気のせいか」
今日一日、ジョゼフの警護を一人で担わなければと思うあまり、神経が過敏になりすぎているかもしれない。必要な情報は見逃さず、不要な情報と選別しなければ。額に軽く手を当てて、頭を振った。
「何でもございません。殿下、それでは参りましょうか」


結局その日は、レミーのレストランで昼食を取った時以外はずっと別行動だった。その時も、ル・ルーはアンドレの隣に座りたいと言い出し、ジョゼフはオスカルの隣にぴったり座って離れなかった。
「ねえ、オスカル、今日のパレードはすごかったよね」
またジョゼフは、アンドレをちらりと見る。
「僕らは運がよかったね、オスカル」
「そうですね。場所取りのタイミングがよくて――」
アンドレが会話に加わろうとすると、隣のル・ルーがあーんと大きく口を開けるので、スプーンで食べ物をせっせと運んでやる。
その後も、アンドレはデザートのケーキを選びにル・ルーにショーケースの所まで連れて行かれたり、護衛のいない自由さに、ついいつもの落ち着きを忘れてしまったのか、ジョゼフが服にジュースをこぼしてしまい、オスカルが染みをぬいてやったりと、それぞれのパートナーの面倒を見るのに忙しく、二人で落ち着いて話すことができなかった。
「今日、一日だけだから、すまないが、アンドレ」
「ああ、わかってる」
会計の際に短い会話を交わしたのが精一杯で、次のアトラクションを目指して走り出してしまったル・ルーをアンドレは追い、午後はオーロラ城の中を見ようと言い出したジョゼフに、オスカルは付いて行くことになった。


閉園の時刻。出口手前で待っていたジョゼフとオスカルに、アンドレと手をつないだル・ルーが手を振る。
合流した4人は一度ゲートを出ると、帰る人波の傍らに、イベントの入場を待つ人たちが既に列を作っていた。その最後尾に並ぶ。すぐ前のカップルは相当気合が入っていて、何やら印字してある紙の束を見て予習をしていた。
ルール・ブックによれば、クエストは合計10問で、制限時間は2時間。チェックポイントは広い園内に散らばっているため、時間的にかなり厳しく、時間切れでゴールできないペアも多い。毎年、いくつか新たなクエストが追加されるが、問題の大半は既出のものと同じだった。その傾向と対策、それから今年追加されそうなクエストの予想までを分析したジョゼフお手製のマニュアルを前もって渡されて、オスカルも事前準備をして来ていた。
「いいわね、今年こそは優勝するわよ!そのためにオークションでバイト代つぎこんで手に入れたチケットなんだから」
熱心に予習をしていたカップルは、どうやら、何度目かの挑戦らしい。金髪で、そばかすのある若い女性が彼氏と思しき、少し気の弱そうな男性に発破をかける。
「わかったよ、シャンタル」
「やーね、ガツガツして」
すぐ傍にいた別のカップルの女の方が笑いながら、聞こえよがしに言った。格好からして労働者階級と思しきシャンタル達に比べて、こちらは身なりがよく、かなり金回りのよさそうな二人連れだ。シャンタルは、あてこすりを言った女を睨みつける。
「どうやら、思っていた以上に優勝争いは熾烈になっているのだな」
オスカルがアンドレにそっと耳打ちすると、「ケンカでも起きそうな勢いだな」とアンドレも過熱ぶりに驚く。
入場開始のアナウンスが聞こえ、列が進み始めた。4人は再び入場ゲートをくぐる。最後のペアがゲートをくぐり終わると、オーロラ城まで進むようにとの指示が流れ、またゆっくりと前進する。ほぼ全員が城の付近に辿り着くと、それを見計らって各人のスマートフォンが一斉に鳴り始めた。あらかじめインストールして来た、イベントのゲーム・アプリに着信があり、数小節の同じメロディが何重奏にもなって奏でられる。メンデルスゾーンの組曲、「夏の夜の夢」の序曲。
「いよいよだね」
ジョゼフは小さな手をオスカルに伸ばし、その手をしっかりと握った。
序曲が園内のスピーカーからも響き渡ると共に、城の前に設えられたステージが色とりどりのライトで照らされて、ステージ前では突然爆発が起こった。煙がもうもうとステージを包む。それにドライアイスの煙も加わる中、序曲は流れつづけ、展開部の最も盛り上がる部分に差しかかると、煙の中にうっすらと大きな耳をした黒い影が浮かんだ。煙が徐々に薄くなって行き、姿を現したのはオーベロンらしき衣装をまとったミッキー・マウスで、タイターニアに扮したミニー・マウスがつづいた。
音楽のボリュームが上がり、それよりも大きな声で高らかにイベントの開催が宣言されると、妖精に扮した一群が踊り出て、オープニングを飾るダンス・ショーが始まった。



(つづく)



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