Winter Solstice 1 



ナショナル・ギャラリーを出て、正面エントランス前に立ち並ぶギリシャ風の柱の間を通り抜けると、既にとっぷりと日は暮れていた。
それでもまだ、約束の18時まで2時間ほどある。

ギャラリー前に広がるトラファルガー広場の噴水はライトアップされ、噴き出る水は数分おきに色変わりしていた。淡い紫に染まった後、緑色になり、しばらくすると、やがて青に変わった。
暖房のきいた美術館内から出ると寒さが身に沁みる。12月も後半ともなれば朝晩の寒さはひとしおで、一年で一番厳しい時期だ。広場を訪れている人々は厚手のコートをしっかりと着込み、防寒に余念がない。昼間が晴天だっただけあり、夜は冷え込んで来た。
それでも、この辺りは人の波が途切れることはない。夏場よりずっと少ないとはいえ、さすがは世界中から人が集まる観光地だ。繁華街も近いから、群衆の中にはロンドナーも少なからず混じっているだろう。
夜空を貫くようにそびえる石柱の上に、月を背にしたネルソン提督がぼんやりと浮かび上がって見える。ハイドパーク・コーナー近くのウェリントン・アーチもそうだが、フランス人としては、少し複雑な心境になる記念碑が、ロンドンには多いなとオスカルは思った。

「善は急げだ!」
そう彼女が、サン=ジェルマン=アン=レーにある館で言ったのは、その日の朝のことだった。
揺り起こされたアンドレは、“今日もわが恋人は――”などと思いながら、半分寝ぼけたままで、彼女の少し乱れた黄金の髪が、その美しい肩にかかるのを眺めつつ、しばらく状況が把握できずにいた。ベッドの上に座った彼女は肌掛けで胸元を隠しているが、その上から白くまろやかな肩が、惜しげもなく露わになっていて、裾の方からは細く長くしなやかに伸びた足も覗いている。それを間近で見ることが許されるひとときに、至福を感じずにはいられない。
一年で最も、太陽が地平線の上に顔を出している時間の短い日。その朝の訪れは遅く、ようやく辺りが白み始めたばかりだ。
アンドレが、やっと彼女の言っていることを何とか理解できた時には、オスカルは肌掛けをまとってベッドを飛び出し、アンドレは寝ぼけまなこで、立て肘をついて頭を支えながら、彼女が隣室で電話をかけている声を聞いていた。

「そう慌てなくても。それに……」
彼の元へ戻って来た彼女は、ようやく身を起こした彼の膝の上に向かい合って座っている。相変わらず肌掛け一枚だけを身に着けて。
オスカルが問い合わせをした相手が休暇中であることをアンドレが諭しても、オスカルは頑として聞き入れず、どうしても今日中に会いに行くと言って譲らなかった。
「わたしの推察が当たっているかどうか、一刻も早く確かめたいんだ」
好奇心に青い瞳を輝かせ、まっすぐにアンドレを見つめる。
そんな目で見られたら――。アンドレは一つため息をついて目を伏せる。
確かに目的地までは、そう遠くはない。
サン=ジェルマン=アン=レーからパリ北駅まで、蛇行するセーヌを2回渡って、車で約40分。それから、ロンドンのセント・パンクラス駅まで、ユーロスターで2時間強。パリ北駅に着いて、すぐにユーロスターに乗れれば、昼過ぎには目的地に着ける算段だ。
パスポートは――自分の分は取材旅行でオランダから帰ったばかりで、たまたまバッグの中に入れっぱなしだ。彼女はフライト後に直接ここに来ているから所持しているはず。
行けないことはない。
「講演や調査で世界中飛び回っている人だから、なかなかアポが取れないのだ」
相手も自分も休暇中で、かつ向こうの滞在先がはっきりし、時間に余裕がある今がチャンスだと、オスカルは言い張る。それに、自分の見立てが正しければ、きっと相手も大喜びするに違いないとも言う。相手を直接知っている彼女がそう言うのだから、たぶん間違いないのだろうとアンドレは思ったが、それはあくまで彼女が間違っていなかった場合に限られる。突拍子がなさすぎる発想で、申し訳ないが、にわかには信じがたかった。煮え切らないアンドレに、オスカルは唇を尖らせる。
「そんなに疑うのならば、もし、もしもわたしが間違っていたら、おまえの言うことを何でも聞いてやる!」
ベッドについた手を突っ張り、彼の方にぐっと顔を近づけて詰め寄る。まるで、わがままな子供が自分の欲しい物をねだって駄々をこねているみたいだとアンドレは思った。子供にしては色っぽ過ぎるのだが。クラクラして理性を忘れそうになるほど。彼は大きく息を吸って吐き出した。
「そこまで言うのなら―…」
そんなことを言われずとも、アンドレの心は既に決まっていたのだが。
その言葉を聞くやいなや、オスカルは彼の首に抱きつき、頬に軽くキスをすると、ベッドから勢いよく抜け出す。アンドレの方は、ため息を一つつくと、キスされた頬の余韻を味わいながら、のっそりとベッドから降りた。「アンドレ、早くしろ!」と、急かす彼女の声が聞こえる。
仕方ない、付き合うか。一抹の不安や反論を抱えながらも、彼女のきらきらした目を見てしまったら。
アンドレには、他の選択肢はない。彼女の望みを叶えてやらずにはいられない。
いつものことだ。

朝食もそこそこ、身支度を整えた二人は必要なものをかき集めて、オスカルの車に乗り込んだ。今回の旅の目的だけは忘れることなくしっかり抱えて。
発進するやいなや、助手席のアンドレはぬかりなく携帯サイトでユーロスターのチケットを確保する。幸い空席が見つかって、そのむかしパリ市内をぐるりと囲んでいた城塞を取り壊して整備された環状道路に入る前に、ロンドンに到着するまでの手はずは首尾よく整った。
アンドレが隣のオスカルの顔を盗み見る。実際には歌っていなかったが、鼻歌でも歌っていてもおかしくないほど楽しそうな顔をしている。もし、彼女の勘がまちがいだったとしたら、きっとせっかくの休暇を邪魔された相手は、激怒するに違いないなと、まだ胸がざわつくが、アンドレの心配をよそに、彼女の愛車は快調に走りつづけ、一路、パリのユーロスター発着駅を目指した。

黄色い顔をした流線形の列車は、カレーから海底トンネルに入り、英仏海峡を横断すると、再び地上に出た。わずかな距離だが車窓から見える風景は、どこか海峡の向こう側と違っている。しばらく走って、いくつかの駅を過ぎ、予定通り約2時間で、セント・パンクラス駅へと到着した。
待合室では、終着駅と経由地、発車時刻が表示された電光掲示板の前に、乗車を待つ人々が大勢座っていた。ターミナルは、空港も鉄道駅も似た雰囲気を持っている。
シェンゲン協定に署名していないイギリスだが、EU市民であるオスカルたちは、ほとんど質問をされることもなく入国審査を通過すると、ロンドン市内を縦横に走っている地下鉄に乗り継ぐために、キングス・クロス駅へと向かった。この駅はセント・パンクラス駅と直結していて、丸眼鏡の主人公と友人たちが活躍する小説の中で、魔法学校へ行く列車に乗るホームがあるという設定で、世界的に有名になった駅だ。
円筒形の内部のような地下鉄の通路には、舞台や映画のポスターが貼られ、プラットフォームまで下るエスカレーター脇の壁面には、保険会社や不動産の宣伝の他、クリスマス時期だけに、ブランド品の広告が目につく。真っ赤な唇の美女は、ベア・ショルダーのパーティードレスを身に着け、数千ユーロは下らないネックレスを、おもちゃのアクセサリーでも弄ぶかのように、人差し指から無造作にぶら下げていた。
プラットフォームに着くと、ちょうど電車が到着するところで、二人は急いで一番近い入口から車両に乗り込んだ。混雑した車内には、家族連れが目立ち、フランス語やドイツ語などで会話している声も聞こえ、既にクリスマス休暇が始まり、家族旅行を楽しんでいることが窺われた。
4番目の駅で二人は地下鉄を下りる。地上に出ると、グリーンパークが目に飛び込んだ。この公園を抜けると、バッキンガム宮殿に至る。公園の前では、市内ツアーのバスを待つ列ができていて、肌の色の違う人々が寒さに震えながらも、それぞれの国の言葉で楽しげに会話していた。
比較的暖かい地下鉄構内から出て、二人も吹きすぎる寒風に首を縮めたが、目的地は、この公園のすぐ横にある。もう目と鼻の先だ。
ホテル・リッツ。
パリから相手の事務所経由で連絡は付けてもらっていたから、彼は部屋で待っていてくれるはずだ。
赤と緑を基調としてクリスマス仕様で飾られた高級ブランド品が並ぶショーウィンドウを横目に、二人はホテル横のアーケードを歩き、ピカデリー通りを折れて、アーリントン通りに面した回転ドアを回した。

「さて、これからどうするかな。約束した時間まで4時間以上あるぞ」
再び回転ドアを回して、ピカデリー通りまで戻ったアンドレは、軽く伸びをしてそう言った。
「まあ、それくらいの時間はかかるだろうな」
目的の人物には無事に会えたし、アンドレの心配をよそに、彼はオスカルの訪問をむしろ歓迎してくれた。だが、正式な結論を出すまでには少し時間がほしいと言う。どうやって時間を潰そうか。見上げた空は冬相応に、ややくすんではいたが、青かった。
「歩こうか」
オスカルは冬晴れの空の下をピカデリー・サーカスに向かって歩き出した。大通りは、前に進めないほどではないが、行き交う人が引きも切らなかった。雑踏の中、一目でどこのデパートで買ったか分かる大きな紙袋をいくつも抱えた人々が目につく。世界に名だたるショッピング・ストリートが集まったこの界隈では、冬のセールが始まっている。
この時期、陽が落ちると、セントラル・ロンドンにある通りはイルミネーションの光で溢れる。海外資本のチェーン店やデパートが立ち並ぶオックスフォード・ストリートは、両側に渡したワイヤーから淡く青く輝く光のボールが1000個以上もぶら下がり、二階建ての赤いバスが頭をかすめるようにして走り抜ける。高級店が軒を連ねるボンド・ストリートは、クジャクの羽をモチーフとした電飾で、エレガントさが一層強調される。その他のセントラル・ロンドンの主な通りやスポットも、それぞれに趣向を凝らした演出で人々を楽しませ、気持ちを高揚させて、煌びやかに煽る。
パリでも同様に、たとえばシャンゼリゼ通りで光の饗宴が催されるのは通例になり、冬のソルドが年明けに始まる。
狭い海峡を隔てて隣同士の国はそれぞれ、何かある度、“だから、アングロサクソンは――”、“ラテンは――”と、互いの違いを言い立てるが、こうした年末の雰囲気は、もはや共通のものとなりつつある。先進国では、冬の風物詩といってもよいだろう。

やがて、ピカデリー・サーカスまで辿りつくと、オスカルはひとたび足を止めた。通りがほぼ直角に交わっていることの多いロンドン市街では珍しく、ここはピカデリー通りとリージェンツ・ストリートほか、数本の大通りが交錯する場所だ。それぞれの通りから流れ込んだ人々が、それぞれに目的地を目指して、別の通りへと流れ出て行く。広場北側に立つビルの外壁全面を覆う巨大な街頭ディスプレイには、海外資本のロゴが、あざといほど眩く光っている。有名なエロス像の周囲には数人が腰かけており、像は弓をつがえて南を指していた。
二人は、おそらくショッピングを楽しむ人々でごったがえしている北へは足を向けず、南へと折れ、ナショナル・ギャラリーを目指したのだった。


(つづく)


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