Sa Vie ... 
La derniere moitie



時計の針を戻すことは、誰にもできない。
彼らはいかに自分たちが不当に扱われ、それに甘んじてきたか、ついに知ってしまったし、これから、どうすべきかも知ってしまっている。ただタイミングを計っているだけだ。
パリと、ここベルサイユは、実際の距離よりもずっと離れてしまっている。
王家の人々の目と耳を遮断し、民衆から切り離している人間がいる。
民衆の真の声は、国王や王妃には届かない。少なくとも、現状のままでは。


わずかに中天から西に傾いた日差しを受けながら、オスカルは馬を走らせた。
慣れ親しんだベルサイユの庭園の風景が、次々に後ろへと飛び去って行く。
グラン・カナルの水面は陽光を受けてキラキラと輝き、人影のない並木道に連なる木々の葉は青々と茂っている。この眺めはずっと変わらないと思っていた。

私が一歩踏み出そうが踏み出すまいが、明日は今日のように明け、そして暮れて、また翌日は同様に日は昇り、沈むのだろうけれど。


その日は、オスカル自身も翌日の準備を整えると、早めに屋敷へと戻った。普段は帰宅時間の合わない父将軍から、一緒に晩餐のテーブルに着くようにと言い渡されていたせいもある。軍服を脱ぎ、ブラウスとキュロットの軽装に着替えると、アンドレを呼んだ。昨夜、約束した馬を選ぶためだ。
厩舎では馬丁が待っていて、二人がやって来るのを見ると、腰を折ってちょこんと頭を下げた。アンドレは馬房の一頭一頭に近づいて鼻づらを撫でた。馬が鼻を鳴らしたり、前足をカツカツと打ち付ける音にじっと耳を傾ける。
「こいつが、いいかな」
アンドレが選んだのは、今年7歳になる鼻梁が白い栗毛の牡馬だった。性格は大人しくて乗り手の指示によく従う。
「ああ、分かった」
オスカルが彼の隣に来て、馬の首を叩くと、馬は嬉しそうに一声いなないた。この馬ならば、アンドレは数回騎乗したことがある。馬丁も、現在の体調は申し分ないし、歩様の乱れもないと太鼓判を押した。蹄鉄も変えたばかりだった。
今夜は馬に十分な飼葉を与え、明日の朝までに、この馬に適した馬具一式をそろえて準備するよう指示を出して馬丁を下がらせた後も、二人はまだ馬房にいた。オスカルの愛馬に声をかけ、持ってきた砂糖のかけらをやると、白馬は目を細めて、オスカルの腕に鼻面をすり寄せた。
「後で、あいつにも賄賂を渡して、よろしく頼まないと」
先ほど選んだ馬の方を指してアンドレがそう言うと、賄賂で仲良くなれるのは人間も馬も一緒かと、オスカルが笑う。
アンドレはわずかに顔を傾けて、傍で笑うオスカルを愛しげに見下ろした。くせ毛の黒い前髪の陰から永遠に閉じられた左目が垣間見えて、オスカルは彼の左頬に手を伸ばす。彼女の願いを聞き入れたために鞭で傷つけられて、光を失った黒い瞳。自責の念を今も抱き続けている彼女は、彼の左目を意識すると、その頬に手を伸ばすことがよくあった。ふと、擦り傷のような跡を見つけて訝しむ。よくよく見ると、顎の辺りには、うっすらと痣が出来ている。
「この傷は、痣は、アンドレ?」
アンドレはびくりと身を震わせた。もう自分の顔を鏡で確かめることはできないから、昼間の殴り合いの跡が残っているのに気付けなかった。慌てて言い訳を考える。
「昼間……、練兵場でちょっと。そうだ、喧嘩が起きて止めに入ったんだよ。その時に何発か巻き添えで食らってしまって」
拳を作って殴りつけるような仕草をしてみせた。
「そうか。痛むか?」
そういえば、ベルサイユの庭園を早駆けして司令官室に戻った後、ちょっとした小競り合いがあったとの報告を耳にした。すぐに収まったそうで、当事者が誰なのか原因が何だったのかまでは伝わって来なかったが。
アンドレは「大したことはないよ」と笑うと、自分の頬に添えられた彼女のほっそりとした指に自分の掌を重ね、残された右目を閉じた。
そのまましばし、沈黙が流れる。
馬が尾で体を掃う。蹄鉄が敷き藁を踏む。互いの息遣いだけが聞える。風に、厩舎の古びたドアの蝶番が何度か耳障りな音を立てた。


彼女は待っていたし、彼はこらえていた。


彼に想いを告げた夜。背骨が軋むほど強く抱きしめて、激しく貪るように口づけて来た彼は、それ以後、自分を抱きしめないし、自分からは手を伸ばしても来ない。オスカルが胸に飛び込めば優しく受け止めて、やわらかく唇を奪うが、決してそれ以上を求めない。
どうして――と彼に問うのは残酷だ。それは、自分のせいだから。
想いが通じ合った今、望めば彼女は拒まないかもしれない。しかし、彼は、彼女が失うものを恐れている。そのために、自分の欲望を抑えられる距離を保っていた。身分の差。彼女が失うものの大きさを思えば、どれほど彼女がほしいと渇望していようとも、許される領域の中に彼を踏みとどまらせる。
「……さっき、おばあちゃんの所に寄ったとき、オスカルの顔が見たいと言っていた」
「そうか」
二人は静かに体を離した。オスカルの愛馬が両耳を二人の方に傾け、自分も仲間に入れてほしいとでも言いたげに、じっと見つめている。オスカルは「おまえもたっぷり飼葉をもらって、今夜は充分に休んでおくのだよ」と穏やかに声をかけながら、馬の首筋をゆっくりと撫でた。


ノックをすると、思ったよりもしっかりとした声がドアの向こうから返って来て、オスカルを安心させる。彼女の居間で倒れて以来、マロン・グラッセはほぼ寝たきりの状態だったが、頭はまだまだしっかりしていて、アンドレなど、「訪れる度に、相変わらず小言を言われて参るよ。まったく」とぼやいていた。だが、そのぼやきを聞く度に、オスカルは安堵の気持ちを覚えたのだった。
ドアを開けて部屋に入ると、マロンは小さな体が楽なようにと特別に作らせた特大の羽枕に身を沈めていた。大切なお嬢様の訪問を知って、気丈に上体を起こすところだった。
オスカルは真っ直ぐベッドに近寄り、老女の姿勢が少しでも楽になるようにと、枕の位置を整え、それから、皺の刻まれた額に軽くキスをした。倒れた後のマロンの部屋は住み込みの使用人たちが住んでいる階ではなく、主一家がそれぞれの書斎や居間を構えている階にあてがわれた。天井は高くそれなりの広さがあって、調度品も豪華な部屋だ。長年、ジャルジェ家に献身的に仕えた功績に敬意を表する意味もあったが、その部屋ならば、ジャルジェ夫妻もオスカルも訪れやすいからもあった。オスカルなどは、忙しい軍務の合間を縫ってマロンと過ごす時間を増やすために、肖像画を注文した画家を招き入れて、この部屋でポーズを取ったりで、そのせいでマロンと年老いた短躯の画家は言い争いするほど親しくなった。
「……知っているかい、ばあや――」オスカルは寝台の天蓋を支える支柱に手をかけた。「平民の間では市民を表す“シトワイヤン”、“シトワイエンヌ”などと呼ばれることが、伝統的な尊称であるムッシュウやマダムよりも名誉だということになってるそうだ」
乳母が何を言いたがっているのかは、部屋に来る前から分かっていた。なるべくなら湿っぽい話にならずに済ませたい。明日のことには触れずに。しかし、乳母は予想どおり泣き出して、出動に断固反対してきた。体の弱った乳母に泣かれるのは辛い。兵士たちの反発などより、よほど厄介だ。
乳母は、自分が使用人であることをわきまえ、アンドレにも事あるごとに「身分を忘れないように」と言って聞かせて来たくせに、こんな風に、誰も、両親でさえ言い出せないことを率直にぶつけて来る。幼い頃から変わらない。それでも憎まれもせず、こうして主一家から一目置かれて、愛されている。温かくて大らかで、大切な存在。
「やれやれ……。だから、ばあやには内緒で出動しようと思っていたのに」
隠しておきたい話ほど、広まるのが早い。羽でも生えていて、壁も床も天井も突き抜けてしまう能力があるのではないかと疑いたくなるほど。
マロン・グラッセはさらに、つぶらな瞳から涙を流して、「奥さまでさえ、じっと耐えていらっしゃるものを」と謝りながら嗚咽して突っ伏してしまった。その背中が丸く小さくて。最近、一層食が細くなり、スープくらいしか口にしない日もあるという。子供の頃の記憶では、もっと、この背中は大きくて、声も達者で力強かった。それが、自分が大人になってみれば、実際はこんなにも、ちっぽけに映る。小柄で特別な力も身分もないその人が、あふれ出る慈しみの心と素朴な愛情で、どれほど大きく見えていたのかを思い知る。自分や姉達、そしてジャルジェ家に必要な人。
「愛しているよ、ばあや。いつまでも……限りなく……」
その言葉に嘘はなかった。
だが。
「オスカルさま……どうか……」
パリから無事に戻って、その言葉をもう一度聞かせてほしいという老女の願いには、曖昧な肯定しか返せなかった。
“きっとでございますよ”と念を押され、言葉につまってしまった時、声がかかった。アンドレが呼びに来ていた。「オスカル、肖像画が出来上がったそうだ」
もう、ベッドから起き上がる力のないマロンは、後で、どんな風に仕上がったのか教えて下さいましねと、オスカルを送り出す。
扉を閉めると、オスカルは苦笑いを浮かべ、「いくつになっても、ばあやには敵わないな」とアンドレに向かって呟くと、彼も「ああ、誰も」と笑った。


その肖像画は、かなりの大きさがあった。既に注文済みの額装をしてみればさらに大きくなり、おそらく、ジャルジェ家の一室の高い壁一面を覆うことになるだろう。
ひとまずは運び込まれた玄関ホールでのお披露目となった。白い布で覆われたカンバスの周囲には、ジャルジェ夫人の他、肖像画の完成を聞きつけた館の使用人たちも大勢集まっていた。
作者である老画家が覆い布に手をかけた。眼鏡の奥の小さな目は、最後の情熱を傾けたという作品を前に満足気だった。
布が引き下ろされると、周囲の人々から歓声があがり、どよめきが起こる。描かれていたのはローマ軍人風の鎧に身を固めたオスカルが白馬に跨っている姿だった。剣を掲げて雄々しく天を仰ぎ、真紅のマントは風をはらんで翻る。だが、なぜか現在のオスカルよりずっと幼く見えた。
少年とも見紛うその姿は、見る者を圧倒する輝きを放っていた。
オスカルは眩暈を覚える。まだ人を愛することも人生の選択に迷うことも知らず、ただひたすら真っ直ぐに前を見て、自分の信ずる道を突き進んでいた頃の自分だった。一点の陰りも纏わない、まばゆさ。
絵の出来栄えは文句のつけようがなく、画家自身も会心の作だったが、変則的な絵が依頼主に受け入れられるか自信がなかったのだろう、戸惑いながら、この絵の着想を得た経緯を説明する。かつて、おそらく王太子妃夫妻が初めてパリを正式訪問した15年前、偶然目にした彼女の姿をずっと描きたいと思い続けて来たことを告白する。それから、別に、現在の似姿を描いた、無難な肖像画らしい肖像画も仕上げてあると。
オスカルは絵から目が離せずにいた。画家の目には、自分がこのように映ったのだろうか。
あの頃とは物の見方も信条も何もかも変わってしまっているけれど、本質は変わってはいないのだろうか。
不思議な幸福感。自分の中に残っていた輝きが、芸術家の手によって結実した絵。自らが放つ光が迷いの霧を掃う。それに照らされて、何年かぶりに感じる清々しさ。
人の前には、それぞれに見えない境界線があるのだという。
誰しもが、無意識のうちにそれを踏み越えないようにして生きている。その境界線を踏み越えた、その先には。
栄光があるのか、それとも世の則を犯した末の惨めな末路が待つのか。
いずれにしても、自分が自分の心と情熱の趣くままに道を選んだという、誇りだけは残るに違いない。
それは。

「ありがとう、すばらしい絵だ!」
心からの賛辞を送る。芸術が人の本質に触れて暴くものならば、こんなに見事な暴かれ方はない。

画家に告げた矢先、喉の奥に違和感を覚えた。胸が苦しい。息が詰まって慌てて口を押さえる。突然、オスカルは咳き込みはじめた。
内臓から禍々しい塊が込み上げて来る。
こんなところで。嫌だ、気づかれたくないのに。抑えつけようとしたが、抑えようがなかった。体温は上昇しているのか冷えているのか。寒気と熱さを同時に感じて、冷や汗が噴き出てふらつく。
目の前が暗転する。
荒い息の中で、彼女は思った。包まれていたい柔らかな時間ほど、一瞬にして断ち切られる。今朝見ていた夢が粉々に砕け散ったように、運命は容赦なく現実へと引き戻し、追い立てつづける。
何とか抑え込もうとするオスカルの意志に反して、咳き込みは激しくなる一方だ。異変に気付いたアンドレが歩み寄る。彼の手が自分に触れる前に、オスカルは駆け出した。彼女を気遣うアンドレや周囲の目から逃れるために。
よるな、放っておいてくれ!
見られてはならない。おそらく、咳を受け止めた手は赤く染まる。誰にも知られてはならない。
自室に駆け込み、ベッドに倒れ込んだ彼女は、さらに激しく咳き込んだ。眼前の白いシーツについた紅い染みが、みるみる広がって行く。
急に駆け出した彼女を追って来たアンドレが閉ざされたドアを何度も叩き、侍女たちが彼女の名前を呼んでいる。
「誰も来るな!」
絞り出した叫びはかすれていた。
目にしたばかりの自分の肖像画が脳裏に浮かぶ。
かつて父に、生涯を軍神マルスの子として生きると宣言したとおり、武官として人生を全うすることが自分の生きる意味であるのは間違いない。先ほどの肖像画を見た時、その核心は一層強まった。
わたしには力がある。
力なき者を守るために、剣と砲弾を操り、部隊を率いる術。最初は父が授け、自ら磨き上げてきた。
そして、正義とは理想とは何かを見極める知恵も、それを追及するために、心の趣くまま自由に生きるだけの力も。
夫や父親の庇護がなくとも生きていける。豪奢なドレスも夜会での笑いさざめきも、宝石も享楽も必要ない。それよりもずっと大切なものを、わたしは確かに知っている。

武官として生きる覚悟は、軍務について以来、一瞬たりとも忘れたことはなかった。自分が守るべきものを守る誇り。そのためならば、いつ死んでもおかしくないし、いつ死んでも構わないと、常に思って生きる。
ただ生きつづけるだけの人生など、何の意味もない。


だが。


それなのに、今は、生きたい……。

生きていたい……!
これほどまでに強く、生きたいと願ったことはない。
掌にべったりと張り付いた血の跡を見つめる。
病魔に負けて命を落とすか、それとも、その前に、明日にも無残に戦闘で命を落とすことになるかもしれないのに。目の前が赤く、赤く、赤い色で覆われていく中で。
その中に、アンドレの顔が浮かぶ。
咳き込みも死病への不安も、明日への恐れも一向に収まらないのに、絶望が深ければ深いほど強烈に、生きたいという気持ちがとめどなく湧き上がる。
オスカルは目を閉じる。



彼と共に生きていきたい。



神よ……。


最後まで、私が私であるために、力をお貸しください。

光は見えるだろうか。


父母と囲んだ晩餐のテーブルには、金の燭台にいつもの数倍の蝋燭が灯された。ようやく暗くなった室内を再び明るく見せる。その明りの下の食器は、ジェルジェ家の秘蔵の品の一つで、将軍の数々の功績に対して、ルイ15世から賜ったセーブル製の一揃いだった。
ローズ・ド・ポンパドゥール(ポンパドゥール夫人の薔薇色)と呼ばれる地色に金彩の透かし模様が入ったもので、夫妻の好みは別として、その出自から賓客や特別に親しい友人を歓待する際に使用されてきた。
女性性を強く感じさせる、その色と描かれた文様。落ち着いた薔薇色がゆらゆらと灯る蝋燭の下に照らされて、特製のソースがかかった焼肉や旬の素材をあたたかく見せる。果物が盛られた深めの鉢には、金で縁取った楕円の中に、穏やかな緑の木々を背景に座って語らう少年と少女が描かれていた。
彼女は食前酒を口にしながら思った。父と母と自分が揃って、こんなにゆっくりと会話を楽しみながら食事をするのは、一体いつ以来だろうか。
母が、今日仕上がった絵を屋敷のどこに飾りましょうかと尋ねる。それから、オスカルの姉たちの家族の近況なども話題に上る。なごやかに過ごす晩餐。母は優雅にほほ笑んで、父である将軍の話に相槌を打つ。将軍は幼い頃からのオスカルの記憶にあるとおり、一家の主として悠然と座している。誰も明日の出動については触れなかった。敢えて避けているのか、それとも、申し合わせなくとも、皆が、いつも通りを覚えておこうとしているのだろうか。
やがて運ばれて来た料理は、いつもと品数は変わらなかったが、オスカルの好物ばかりが並ぶことになる。ジャルジェ夫人が手配したのか、シェフが気を利かせたのか。
ふと、ダイニング・ルームの入口に彼女付きの侍女が立っているのが目に入った。オスカルに向かって深々とお辞儀をすると、顔を背けて小走りに去って行った。
オスカルにはそれで、彼女の伝えたいことが理解できた。頼んでおいた始末は万事うまくやってくれたようだ。
咳が落ち着いた頃、信頼する彼女を部屋に招き入れた。血の付いたシャツやシーツを人の目に触れぬように処分し、口裏を合わせるよう頼むと、灰褐色の瞳は瞬時に全てを悟った。侍女は何も言わなかったが、見開いた両目からは涙があふれ出す。そのまま黙って、敬愛する主の言うままにシーツとシャツを部屋の隅に隠すと、主の口許にこびりついていた血の跡をそっと拭った。やがて侍女は涙をふくと、笑顔を作って勢いよくドアを開けた。部屋の前に心配して集まっていたアンドレや召使い達に、もう大丈夫、何も心配することはないと告げる。着替えをして体調の持ち直したオスカルが姿を見せると、血の気のない白い顔を心配されながらも、その場は何とか収まった。
大きく一つため息をつく。彼女はよく尽くしてくれた――最後まで面倒をかけてしまったね。
こんなにも、わたしは多くの人に愛され、大切にされているというのに。

わたしがこれから取る道は、自分を慈しみ育て、大切に思ってくれている人たちを悲しませ、苦しませる結果になるかもしれない。

そうだとしても。


アンドレが、おそらく屋敷の誰かに頼まれたのだろう、追加の燭台を倉庫から探し出して運んで来た。ジャルジェ将軍の前に置く。将軍がアンドレに声をかけた。
「今夜はおまえも一緒にテーブルにつくがいい」
同じテーブルで食事を共にするということは、自分が同等として扱われていることを意味する。
提案は、使用人であるアンドレには身に余る言葉だった。しかし、彼は断らねばならなかった。そんなことをすれば、見えていないことがばれてしまう。祖母と一緒に取りたいと辞退すると、将軍はそれ以上強要はしなかった。

テーブルを回って、アンドレがオスカルの方にゆっくりと近づいて来た。主一家の晩餐を辞して、厨房から二人分の食事を受け取って、祖母であるマロンの部屋に向かうつもりだった。
先ほど、肖像画の前から慌てて走り去り、侍女の助けを借りて、 周囲から人が引けた後も、アンドレだけはその場に残った。彼女の部屋に入り、ドアをしっかりと閉めて二人きりになると、彼女の体調について食い下がる。
「本当に、本当に何もないのか?オスカル……おれにだけは言ってくれ」
アンドレが、オスカルに迫る。後ずさりして矢車菊をモチーフにした壁紙に背中が当たる。アンドレは彼女が彼の視線から逃れられないように、壁に手をついた。
自分のことを誰よりも、一番よく見ているのはアンドレだ。
壁に追いつめられて逃げ場を失ったオスカルが言う。
「もし、もしも私が死んだら」
アンドレの目が見開かれる。両手で彼女の肩口を掴む。
「そんなことは、絶対にさせない」
暗く低く呟く声は、オスカルを守りたいという意志に溢れていて、昨夜と同時に圧倒される。
「ばかだな……」
彼に壁に押し付けられたままでオスカルは俯いてから、笑って顔を上げた。
「冗談だよ。言ってみただけだ。明日は、もしものことも無くはないから」
彼女を押さえつけていた力がわずかに弱まってホッとするのも束の間、彼は彼女の顔に自らの顔を寄せ、激しい口づけを求めて来た。性急な彼の求めにオスカルが反射的に抵抗を見せても、舌を割り入れ、強引に絡ませる。体の力が抜けていく。足が萎えて立っていられなくなる。両手で彼の体を押しやろうとしても、何の役にも立たなかった。オスカルは、壁に押し付けるアンドレの両手にかろうじて支えられながら、彼の求めを受け入れていた。何も考えられなくなって、体の芯が甘く痺れて爛れていく。彼の胸に手を伸ばして触れる。自分とは違うしっかりとした首筋に指を這わせながら、浮遊感の中で、ただ彼が与える刺激にだけ反応する。身も心も全てがアンドレに向けられる。
陶然として、時間の感覚を失った頃、彼はようやく彼女の唇を解放した。
「おれが、最後までおまえを守るから」

吐息がかかるほど近くで囁かれる言葉に身が震える。瞬きもせず見つめる黒曜石の瞳は、怖いほどに体の奥深くまで鋭く刺し貫いた。
この瞳無くして、わたしは、わたしではいられない。

オスカルは純白のナプキンに視線を落とした。アンドレは彼女の背後を通り過ぎようとしていた。
「アンドレ、あとでわたしの部屋へ……」





彼と生きていたい。


彼と共に生きつづけたい。

理想や願いは現実を越えられるのだろうか。




わたしがわたしであるために、明日、そして、今夜。



fin.





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