7日目





アンドレは、1階にあるミュージック・ルームで、2階まで吹き抜けになっている天井を見上げていた。館は18世紀前半に流行したロカイユ様式の建築で、左右対称の設計になっており、このミュージック・ルームは書斎のちょうど反対側にある対の部屋だった。
書斎の天井が高いのは書架のためだったが、こちらは音の反響を助けるためだ。現在はがらんとしているその部屋には、かつて楽器が置かれて人々が演奏を聴くために集っていたのだろう。クラシカルなピアノかあるいはクラブサン、それにハープが似合いそうな室内装飾だったが、現代となってはジャズも似合いそうだし、よく通る声の歌手が独唱するのも、複数人でハーモニーを奏でるのもいいと、彼はそんな風に思った。
「それにしても遅いな、オスカルのやつ」
彼女と連絡を取ってから、かれこれ2時間近くが経過していた。住所は送っておいたし、ナビもあるから迷うこともないだろう、遅くとも1時間もすれば到着すると概算していたのだが。
来訪する知人を待ちたいと告げると、サン=ジュストはすぐにラップトップPCを取り出して、事務仕事を始めた。待ち時間を有効に使う気らしい。もちろん、アンドレに断ってからだが、アンドレが返事をする前に、もうPCは机上に置かれていて、その態度は傲岸不遜にも思えた。しかし、いらつきながら待たれるよりはずっとましだったし、待つことを快諾してくれたのだから、これくらいのことはと思った。彼はPCに向き合うと、すぐにアンドレなどいないかのように目の前の仕事に集中し始めた。邪魔しないよう、そっと書斎を後にする。それに、ちょうどもう一度、一人で館の中を見ておきたかったから、この空き時間はむしろありがたかった。

ミュージックルームを後にした彼は、地下につながる階段を下りていくと、今度は下から上へと見て回ることにした。地下室はごたごたと生活用品がつまっていて、整理が必要だった。おそらく、ここにあるものは捨ててもいい物が大半だろうから、権利譲渡の前にサン=ジュストに処分してもらうのもいいかもしれない。取捨選択は、あの、ここの鍵を開けてくれた家政婦に任せれば間違いないだろう。2階建ての居住空間部分には、書斎とミュージック・ルームの他、キッチンとダイニング・ルームに居間や、休憩室などの小部屋がいくつかあった。バスルームは3つ。水回りをじっくりよく見れば、きちんとメンテナンスが出来ていない部分が目についた。あの契約書にある見積もりを見直させる必要があるかもしれない。
ベッドルームは、メインの他にサブ・ベッドルームが3部屋あり、そのうちの一番小さくて一階にある部屋は、家政婦の老婆が使っていた。メイン・ベッドルームのベッドは運び出されてしまっていて、カーペットに窪みが出来ていることだけが名残りだった。家具はそこそこ揃っていたが、他にも何か所か不自然に空間が空いている部分があったから、そこにあった調度も運び出されて、どこかに売られたか寄付されてしまったのかもしれない。壁にも、かかっていたはずの絵が外されている形跡がいくつか見られ、サン=ジュストはこの館にあるもの以外は全て寄贈・寄付されると言っていたから、価値の高い絵は持ち出されて、そのうち、どこかの美術館の壁を飾ることになっているのだろうと推測した。

アンドレは緩やかに螺旋を描きながら上階につづいている階段を2階へと上り、最後に屋根裏へと到達した。そこは、ほとんど使われていなかったのか、だいぶ痛んでいる箇所があったが、手を入れれば居住空間としても使えそうだった。
窓から差しこむ日差しは既に斜めになりつつあった。彼は窓辺に近づくと、ガラス窓を押し上げて、空を見上げ、それから庭を見下ろした。吹いている冬の風はそろそろ少し冷たくなり始めていた。庭をぐるりと取り囲む林の向こうに、緑に覆われた小高い丘が見えた。どこまでが、ボレツキイ氏の所有なのだろうか。
庭に目を戻すと、アンドレの口が唖然として開かれた。
視線の先には、あの老婆が談笑している姿があったからだ。それに、朗らかな様子で老婆の相手をしていたのが、他ならぬ、彼が2時間も待ち続けていた、その人だったから。
「何だ、オスカルの奴、着いたら連絡すると言っていたくせに……!」
思わずそう口に出すと、アンドレは階段を駆け下りて行った。早足で玄関から二人のいる楢の木の下に向かうと、声をかける。
「オスカル!」
「ああ、アンドレか」
彼女は悪びれもせず、彼に笑顔を返した。「こちらのマダムに庭を案内してもらっていたんだ。素敵な庭だな。独特の雰囲気のある」
オスカルはアンドレの剣幕など意に介さない様子で、ゆっくりと庭を見回す。ただし、老家政婦の方は、彼が勢いよく屋敷から飛び出して来たのに恐縮して、小さい体をさらに縮こませ、上目使いで、ちょこんと一つお辞儀をした。



オスカルがこの館に到着したのは、30分ほど前のことだった。今朝、目撃したジャガーが駐車しているのを見ると、ふんっと一つ鼻を鳴らし、まっすぐに林の中に入って行った。アンドレのメールの中で、所在地のほかに、館が林の中にあることも説明されていた。彼がその館を相続することになるかもしれないことも、持ち主だったボレツキイ氏には一度会ったことがあるものの、その理由が彼自身にもよく分からなくて当惑しているということも簡単に書き添えてあった。
林が途切れて庭に出ると、ちょうどゴミを回収ボックスに捨てに来ていた老婆と行き合った。案内を乞おうとして、庭の趣きを誉めると、気をよくした老婆が、彼女に庭を一周して見せてくれたのだという。
「おまえが相続するかもしれないのなら、よく見ておかなければと思ってな」と言われると、アンドレは何も言えなくなった。それに、彼女が言った”独特の雰囲気”という言葉も彼を黙らせた。彼女は自分と同じように、この場を感じてくれている。
オスカルによれば、老婆は懇切丁寧に、この庭について解説してくれたそうだ。寒風の中でも咲いている花を彼女に見せ、未だ咲いていない花々の植わっている場所を一つ一つ辿り、季節を迎えた時の、その美しさを、夢見るように語って聞かせた。林の中から庭へときどき顔を出す、リスや野ウサギや小鳥の仕草の愛らしさ。狐の親子が住み着いた時、子狐の一頭が死んだ時は悲しかったし、育児を終えて子供たちが離れていき、親ギツネも去って行った時の話も臨場感たっぷりにしてくれた。オスカルは、老婆に向かって感謝を込めて微笑んだ。
それを受けた老家政婦の顔が一瞬で、少女のようにほころんだ。アンドレが出て来るのを見ておののき、曲がった背中をさらに小さく曲げた姿からは想像もつかないような、20も30歳も若返ったような生き生きとした笑顔だった。


「見ろ、アンドレ」
彼女が楢の木の肌を撫でた。
「ここに跡が残っているだろ」
アンドレが近づいて目を凝らすと、かすかに削ったような、または何かが擦れたような跡がついていた。
「この木には、かつてツリー・ハウスがあったそうだ」
彼女が眩しそうに目を細めて頭上の枝を見上げた。常緑の葉の隙間から木漏れ日が差す。確かに、それがあってもおかしくないほどのしっかりとした枝ぶりだった。
「奥様が亡くなられた後に、取り壊させてしまったんですがネ……」
老婆が東欧訛りの少し風変わりなアクセントのフランス語でそう言った。サン=ジュストから相続人となる血縁がいないことは聞いていたが、ボレツキイ氏の家族についての顛末は詳しくは知らなかった。
「……坊ちゃまがおかわいそうに、事故で死になさって、旦那様は人が変わっちまって、奥様も後を追うように死になさって」
アンドレは、ボレツキイ氏が出したという条件の3番目を思い出していた。きっと、この木のことを言っているのだと確信する。
老婆がエプロンでそっと目の縁をぬぐった。
「黒い巻き毛のそりゃあ、そりゃあ、かわいい男の子で……」
幼いうちに不慮の事故でこの世を去った、ボレツキイ博士の一人息子の名は、アンドレイと言った。


オスカルはアンドレに案内されて、邸内を一通り回ると、サン=ジュストの待つ書斎へと向かった。彼は、アンドレがそこを離れた時と同じ姿勢でPCに向かっていたが、二人が入って来たのに気付くと、顔を上げた。
その顔を見たオスカルの表情がわずかに強張る。今朝、アンドレを連れ去った女だと確信する。だが、この件で彼に接触をしたのなら、仕方がないことだし、何も問題はないと気持ちを落ち着かせる。それに、もし女が自分のライバルになるようなことがあるのならば、感情を露わにしても相手を喜ばせるだけだ。
隣のアンドレの顔をそっと見る。カフェで受けた電話ではいつもの調子に戻っていて、先ほど庭で顔を合わせた時も、昨日のわだかまりは感じさせなかった。停電のことは聞いたし、想像していたほど、怒ってはいなかったのは間違いない。彼女は彼に気づかれないくらい少しだけ、彼の腕に自分の体を近づけた。
アンドレがサン=ジュストに声をかけた。
「長時間待たせてしまって、すまなかった。こちらは、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。オスカル、この件を担当している弁護士のムッシュウ・サン=ジュストだ」
”男……!?”
彼女は、どこかで聞いたことがある名前だと思ったが、それよりも、相手が男性であったことの方が驚きで、動揺を隠せなかった。確かに握手した手は、指が細くてしなやかながら、女性にしては、しっかりとしている。
「あなたが、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェですか!」
相手も、自分の名前を知っていた。どこかで会ったことがあっただろうか。
「いつかはと思っておりましたが、こんなところで会えるとは。例の青年は、保護観察中で、たまに事務所に顔を出しますが、あなたの紹介した仕事、まだつづいているそうですよ。真面目にやってるみたいです――まあ、今のところはですけれどね……」
オスカルは挨拶を返す前に、最速で脳をフル回転させて、彼の意図するところを整理する。
弁護士に頼んだ”例の青年”といえば、心当たりがあるのは、アンドレと南仏を旅した時に巻き込まれた事件に関わっていた、あのアフリカ系の若者しかいない。体格はよいが、まだ少年ぽさを残していた顔が、ひょっこりオスカルの前に現れたのは、あの後だいぶたってからだった。別れ際に渡したメモを頼りにやって来た青年は、ニースで会った時よりもずいぶん痩せ、衣服や髪はひどく汚れていたので、自首して立ち直ろうと決心するまで、あちこち彷徨って、迷っていたことが窺がえた。
弁護士に付き添われて出頭した彼は、数か月後に刑期を終えて出所した。その後、弁護士が後見人となり、オスカルがこっそり周旋した仕事についた。
「ロベスピエールのところの!」
その件と、それから、社長夫人の双子の姉妹の離婚の件で頼ったのは、旧知のロベスピエールという弁護士だった。人権派弁護士の彼は、報酬の高い離婚案件よりも、アフリカ系の青年を社会で独り立ちさせる件の方を喜んで引き受けた。その時は、まだ自身の名前だけを冠した事務所だったが、最近、パートナーを得て、事務所名を改めたと挨拶状が送られて来ていた。そこに連ねられていたのが、確かサン=ジュストという名前だった。


相手の素性が分かったオスカルは、その手を強く握り返した。
「スウェーデンのどこぞの御曹司と不倫していた金持ち女の離婚協議は、実に下らない案件でしたが、あのアフリカ系の青年をめぐる弁護はなかなか有意義でしたよ」
男性でも見惚れるだろうほどの美貌に天使の微笑を浮かべながら、白刃を突きつけるように、口からは辛辣な言葉が飛び出す。
ロべスピエールが、富裕層の離婚・訴訟・損害賠償などの案件を引き受けて高額な弁護料を受け取るかわりに、格安かまたは無償で貧しい人たちの相談や弁護を引き受けていることは、彼女も知っていたが、この青年も同じ志を持っているらしい。
オスカルに初対面の挨拶を済ませた彼はアンドレの方に向き直ると、早速、再度、結論は出たのかと尋ねた。
「いや……まだ、その……」とアンドレは言葉を濁して頭をかいた。ちらりとオスカルの顔を見る。


「建物自体が古いから、今後、幾何級数的に修繕費が膨らんでいくかもしれないぞ。庭の維持だけでも相当の手間がかかるだろうし」
オスカルと邸内を回った際、彼女は壁や天井、それに家具の状態までチェックし、キャビネットがあれば開けてみて中を確かめた。彼女は冷たい石壁を撫でながら言った。場合によっては、負の遺産だぞと。それは、広大な所有地と由緒ある建物を維持管理するジャルジェ家の当主となるべく育てられた、彼女だからこその視点だった。
「すると、おれはこの館のお世話係みたいなものか」
アンドレがポツリとつぶやくと、彼女は「ボレツキイ氏に見込まれたな」と大笑いした。
「受け取るのは、この館や土地だけか?博士は相当な資産家だったはずだが」
さすがオスカルは、そういった情報には明るかった。
「他は全て、国や学術機関に寄付されるそうだ。おれに貰えと言われても困るよ」
サン=ジュストが「ちなみに」と教えてくれた氏の資産総額は、今の生活ならば、千年くらい暮らせそうなほどの評価額だった。
自分の生活に必要なものは自分で稼ぎ出せているし、金で買えるもので、特にほしいものはない。ほしいものは、もう傍にあるから。彼女の顔を見つめた。それ以上に欲しいものなど、何もなかった。
「いざとなったら、売却もできるし」
アンドレの頭の中にはボレツキイ博士が出した一番目の条件が浮かんでいた。10年後には手放すことが可能になる。
「なんだ、もう受け取る気でいるみたいな言い方じゃないか」
振り返った彼女は、彼の心を見透かしたように笑っていた。


引き受けなければ、これまでの生活がつづくだけで、全く損も得もない。
もし、引き受ければ、彼女の言ったリスクを覚悟した上でのことになる。
アンドレの脳裏に、ボレツキイ博士が突き付けた謎めいた3つの条件が巡り、夭逝したという彼と同じ名をもつ少年がツリーハウスで遊んでいる光景が浮かんだ。博士は息子のあとにつづいて木を登ろうとしていて、夫人は日傘を差して、二人を幸せそうに眺めている。
博士がこの遺言に込めた思い。
謎かけと言ってもよかった。
さきほど楢の木の下で、老婆はこう言った。
「あなたがあのアンドレ・グランディエさんなら、旦那様はずっと、ようく、あなたのことを気にかけていらしって」
それは、書斎に自分の小説が並んでいたことからも分かった。
だが、自分はボレツキイ氏のことをほとんど何も知らない。


来た時は南側から差していた日が、今は西の窓から差している。
サン=ジュストは、じれた素振りを見せ始め、深くため息をついてみせると、さも残念そうに、「それならば、また日をあらためましょうか」とスケジュールを確認しようとした。
アンドレがオスカルの顔を覗き見ると、先を促すように、さっきと同じ顔で笑っている。
アンドレはため息をついた。
要するに、いくらリスクが高かろうと、謎めいた存在に自分は弱いのだ。事件の真相を解き明かす探偵のように、宝探しをする探検家みたいに、探れば探るほど何かを見つけられそうなことに惹きつけられる。隣の彼女の顔を見た。そして、そこから離れがたくなる。これはきっと一生治らない。
オスカルと目が合った。
彼の答えは、もう決まっていた。


数十分後、アンドレのサイン済の書類が入ったカバンを抱えたサン=ジュストが意気揚々と館から出て来て、相変わらずの歩調で庭を闊歩して行った。
耳にはモバイルフォンにつながったイヤホンが伸びている。
「ああ、先生。ええ、ちょっと時間がかかりましたが、単独初仕事にしては上出来でしょう、先生。グランディエ氏は受けるそうですよ。先生は少なくとも一週間はかかるのじゃないかと仰ってましたが、どうです、一日で終わりましたよ、ぼくの言ったとおりになったでしょう?明日から、手続きを進めますが、これで今日は上がりです。……え?先生も今夜は早く上がれますか。じゃあ、久しぶりに一緒に食事しましょう。何なら、ぼくが作っても構いませんよ」


館に残った二人は、家政婦の老婆に館を相続すると報告に向かった。館の主になるとすれば、この老婆の処遇も考えなければならないからだ。冬の短い昼はもう暮れかけていて、老婆は開け放ってあった窓を閉めて回っており、ちょうど二人が来たときは、ミュージックホールにいた。
彼女は、アンドレがこの館を引き継ぐと決心したと聞くと、自分のことのように喜んだ。
「これで、安心して娘の所に行けますよ」
長年、こちらで務めて来た彼女だったが、寄る年波には勝てず、家政婦としての仕事がかなり負担になっていて、主人を見送ったのを契機に隠居して、娘の家の近くに住むことに決めていたのだそうだ。ボレツキイ氏は、彼女の労に報いて十分な年金が受け取れるよう手配してくれていた。ただ、館の行く末を見届けるまではと、ここに居残っていたらしい。
彼女は懐かしそうにホールを見渡した。
「坊ちゃまと奥様がいらした頃は、よくここで音楽会が開かれて、奥様がピアノを弾かれて、坊ちゃまはかわいいお手々でヴァイオリンを弾かれて、そりゃあそりゃあ、明るくにぎやかでございました。きっと、また、そんな日がくるんでしょうネェ」
はしゃいだ声が室内にこだまする。慣れてくると、かなりお喋り好きな女性だったことが分かる。
たくさんの深い皺が刻まれた顔に、また夢見る少女のような表情が浮かび、手は胸の前で組み合わされていた。彼女の目には夢の家族がそこで暮らしてる様子が、見えていたのかもしれなかった。
老家政婦は、楢の木の下でしたように、二人の顔を交互に見て、ひときわ大きな声を出すと言った。
「お二人のお子様でしたら、さぞや賢くてお美しいことでございましょうネェ!ここは環境も治安もよくて、お子様を育てるにはぴったりでございますよ。近くにいい学校もございますしネ。それが見られないのは、かなり残念なことでございますよ」
二人は顔を見合わせた。
「わ、わたしたちは、別にまだ、そんなわけでは――」
いつになくオスカルが顔を赤らめる。
「あらあら、ちっと喋りすぎちまいましたネ。いつもこれで旦那様のお目玉を食らってきたくせに、これだけはちっとも治りませんですわ。それじゃ、あたしは失礼しますネ。すっかり暗くなっちまう前に窓を全部閉めて、食器も片づけちまわないと」
言いたいことを言うだけ言って去って行った、曲がった小さな背中を見送ると、広いホールはしんと静まり返った。
二人は目が合わないように違う方向を見つめていた。お互いにもう怒ってはいなかったが、まだきちんと仲直りしたわけでもない。
「な、なかなかよい音響だな」オスカルが天井を見上げた。
ふいに何かを思い出した彼女は、つかつかとぽつんとホールに残されていたキャビネットを開けると、ヴァイオリンのケースを取り出した。先刻、部屋を見て回った時に見つけたものだ。この部屋から、他のものはすっかり運び出されたのに、これだけ置き去りにされたように残っていたので、印象に残っていた。ネックをもってケースから本体と弓を取り出すと、顎と鎖骨で挟む。軽く弓で弦をこすると、深みのある音が室内に響いた。手入れはされていたようだ。
「へえ、ヴァイオリンなんて弾けたんだ」
出会ってからだいぶたつが、アンドレも初めて聴く。
「子供の頃から習っていたが、もう長い間、触っていないから、どうかな」
状態を確かめた彼女は、「いけそうだ」と、弦の張り具合を少し調整すると、曲を弾き始めた。子供でもよく知っているクラシックの名曲だ。
彼女の腕がしなやかに動く度に、楽器が歌った。弦の上で弓が躍る。当初、繰り出される音色に不思議そうに耳をそばだてていたが、やがて曲を弾くことに没頭し、あご当ての上の唇はふんわりと緩んだ。
しばらく壁にもたれて彼女の演奏に聴き入っていたアンドレだったが、ゆっくりと彼女に近づくと、まずは弓を動かしていた右手を捉え、それから左手を取って、楽器を体から離させた。曲が終わるまで、待てなかった。
彼女が抗議する前に、すばやく唇をふさぐ。彼の熱っぽくて弾力のある唇。吸うような長い口づけに我を忘れそうになって、オスカルは彼の体を押した。
「アンドレ、ヴァイオリンが……」
「楽器なぞ、どうでもいい」
そう言いながらも、アンドレは彼女から楽器を奪うと、椅子の上に置き、再び彼女を引き寄せ、しっかりと抱きしめた。
「オスカル、昨日は――」
「謝らなくていい!」
彼女の腕も彼の背中に廻る。
「………わたしも謝らないからな」
今度は彼女から口づけをねだるように目を閉じた。彼の顔が近づいて来る気配に心が震える。やがて、しっとりとした感触が与えられて、彼の情熱が注ぎ込まれる。彼の激しさに、目の奥で火花が弾けるようだった。言葉よりも確かに、それは彼と彼女の気持ちを伝えあっていた。
台所で洗い物をしていた老婆は、ヴァイオリンの音色が聞こえると、メロディに合わせて体を左右に揺り動かしていたが、ぱったりと音がやんでしまったので、自分でそのつづきを小声で口ずさんだ。うろ覚えだったので、途中から違う曲になってしまったが、当の本人しか聴いている者もいなかったから、そんなことは、おかまいなしだった。


窓の外で一番星が瞬き始めたのを見つめながら、二人はまだお互いの体から腕を離さなかった。
「亡くなる前に、もう一度博士に会っておきたかったな……」
アンドレがそう呟くと、腕の中で彼女はくすくすと笑った。
「“会える”さ。ここに住んでみたら」
博士を知るために、おまえはここを引き受けることにしたんだろと言われ、アンドレは頷いた。
「うん、そうだな」
まずは週末に通って、倉庫の片付けから始めるかなと言うと、彼女は、胸に顔を擦り付けて、おまえらしいなと、さらに小さく笑った。



時はめぐり、季節も移り変わる。冬の冷気をじっとこらえながら、地中でぬかりなく準備を始めている花たちは、大気がぬくもりを取り戻したのに気づくと、誰に命令されるわけでもなく、自然と花開く。
初夏の頃、二台のバイクはA13号線を北西に向かって走っていた。
もちろん、行く先はあの館だ。
オスカルは無事に教習を終え、免許を取得した。通常、10時間オーバーくらいが普通だと言われる教習を最低限の必要時間で終え、試験ももちろん一発合格だった。それにも拘わらず、そこまで期間がかかってしまったのは、アンドレに無理はしないと約束して、ペースを落としたためだった。
合格が決まると、彼女はまだバイクも購入していないくせに、「今度、アンドレの故郷に行く時には、ばあやを後ろに乗せてやろう」と、いつ実現するかも分からないことまで語りだした。
「細い山道は車では通りにくいところもあるが、バイクならば悠々だ。ばあやももう歳だから、普通のバイクではなくて、ビックスクーターがいいかもしれないな」と、そんな心配までしながら。
それから、オスカルがぽつりと言った。
「これで、おまえと並んで、どこまでも一緒に遠くへ行ける」


今日、高速に入る時に、アンドレはその言葉をあらためて思い出していた。
以前、高速だと二人乗りでは速度が出なくて、行ける範囲にも限りがあると彼が言ったことがあったのを彼女は覚えていて、それでバイクの免許を取ろうなどと考えたのだろうか。
“これで、おまえとどこまでも一緒に遠くへ行ける”


抜きつ抜かれつ、時には並走し、風を切って進む。
こんな感覚をどこかでいつか、感じていた覚えがある。
オスカルも同じだろうか。
彼女はやはり、誰かの背中にしがみついているより、自分の思うがままに走り回るのが似合っている――。
彼はそう思って、前を走る彼女の背中を追った。少し寂しくなった自分の背中を感じながら。


まもなくオートルートを下りる。



(了)










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