フラクタル 〜歯車@〜




グラースを発つ日も、朝から快晴だった。地中海にまで連なる空の色は、パリで見るそれとは、どこか違う気がする。空気の澄み具合か、それとも陽光の強さのせいか。この空には、北の空をくすませている薄いベールをはがしたような、新鮮な青を感じる。

「今生の別れじゃないんだからさ、また来るし、おばあちゃんがパリに遊びに来たっていいんだよ」
テーブルを挟んで向かいに座っていたアンドレが、頬杖をつきながら、あきれ気味に慰めると、マロンは孫息子をきっとにらみつけた。
「ばかだね、分かってるさ、そのくらい。分かっちゃいるけど……」
その言葉すらも、この人情味あふれる老女の涙腺を刺激した。思わぬところで出会えたオスカルとの別れは、よほど辛いらしく、孫はそっちのけで、朝からずっとこんな調子なのである。オスカルの顔を見れば、目尻に涙を浮かべ、言葉を交わせば、ほろりと流れた。
今は、朝食が済んだテーブルで、オスカルの隣にちょこんと座り、手を取りながら名残惜しそうに話しかけている。
「そうだよ、ばあや。ぜひ遊びに来て。よかったら、父上や母上にも会ってほしいし、姉上達もばあやが来るとなれば、きっと何を置いても集まってくるよ」
「いえいえ、滅相もない。お屋敷をとうに辞めた身ですから……」
マロンは生成りの麻素材のエプロンで涙をぬぐいながら、声を震わせる。オスカルは小さな肩に手をかけた。顔をのぞき込み、「そんな遠慮は必要ないから」と優しく言うと、何度も何度も肯きながら、老女は洟をすすった。

玄関ドアが少々乱暴に閉じられる音がした。
「全く、わが夫ながら、あきれるわ!ご挨拶もしないつもりかしら?」
コリンヌがぷりぷりと怒りながらダイニングルームに入って来た。昨夜から仕事場にこもって朝食にも姿を現さなかったセルジュを呼びに行ったのだが、のらりくらりと返事をするばかりで、一向に出て来る気配がないらしい。
「大丈夫です。きっとお仕事がのっているところなのでしょう。事情は伺っていますし……。わたしも仕事をもっていますから、お気持ちはわかるような気がします」
本当にごめんなさいね、と謝罪するコリンヌに、オスカルが言った。
現役の調香師として生き残れるかどうかの瀬戸際である。その道一筋でここまで来たのだ。簡単にはあきらめがつかないのは無理もない。何とかならないかと気持ちが焦って、アイデアが浮かべば直ちに試したくなるだろうし、日常のことが疎かになるのも仕方が無いのではと彼女は思った。
自分もプライドをもって仕事をしているから、セルジュの心情は想像できた。むしろ、それほどの情熱を傾けていることを、オスカルは好ましいと思った。
「そう言ってもらえると―…。ふふっ、あの人のことで、わたしったら謝ってばかり」
眉間に皺を寄せていたコリンヌの表情がやわらぐ。その表情には夫への愛情がにじみ出ていた。現役を退いても、調香師養成学校で教鞭を取らないかという話が来ているそうで、これからも暮らしには困らないというが、コリンヌも半ば潮時とあきらめながらも、夫には少しでも長く好きな仕事をつづけさせてやりたいと、そう思っているに違いなかった。
「名残惜しいけれど、そろそろ荷物を運んで来て、出発の準備をしたらどうかしら」
コリンヌに促されて、マロンもようやく踏ん切りがついたようだった。アンドレもオスカルも、それぞれの部屋に向かう。
後で荷物を下ろすのを手伝いに行くからと、階段を昇りかけていたアンドレがオスカルに声をかけた。玄関のポーチまで出ていた彼女は振り返ると、軽く片手をあげた。
離れに向かった彼女が庭の真ん中辺りまで来ると、横手から吹いて来た風が、ニオイスミレの香りを運んできた。思わず足を止め、それから、香りに誘われるようにして、庭を見渡した。緑の葉の中で揺れる、赤、紫、黄色、ピンク、白――とりどりの花の色。同じ系統でも、それぞれの種類で微妙に色の具合が違って、一つとして同じ花はない。
アンドレに連れられて、赤いひなげしの咲き乱れる草原や、紫色の絨毯のようなラベンダー畑を見て、鮮やかな一色の圧倒されるような美しさに見惚れたが、この庭に咲く花たちも、オスカルは優しくて好きだと思った。最初にアンドレのアパルトマンと似ていると感じたのは、この庭の雰囲気が、あのアパルトマンの中庭で老女が世話をしている、小さな花壇を大きく広げたようだったからだ。
庭を見渡しているうちに、納屋の一つの扉が、風に吹かれて、わずかに開閉しているのに気づいた。蝶番がギイギイと、下手くそなバイオリンのような音を立てている。気になって、ふと、そちらに足を向けた。

荷物をスーツケースに詰めて、アンドレが階下に下りて来ると、そこにはマロンが立っていた。先ほどと同じで、浮かない顔をしている。
「おばあちゃん、元気出してよ。またきっと、オスカルを連れて来るからさ」
「いや……そのことじゃないんだよ」
祖母は臍の辺りで組んだ手をもじもじと動かして、何か言いたげな素振りである。いつもと違って、歯切れが悪い。
「なんだよ、言ってみてよ」
「あ、あのさ……オスカルさまのことだけど。大丈夫かね?あんたなんかと……その……本当にすごい家なんだよ」
どうやら、オスカルのことを心配しているらしかった。孫息子とでは住む世界が違って、釣り合わないのではないかと気をもんでいるようだ。
「大丈夫だよ、オスカルのことは大切にする。何があっても。長生きして、おれのこと、しっかり見張っててよ、おばあちゃん」
そう言って、アンドレはやさしく祖母の額にキスをした。
「うんうん、そうだね……」
マロンがそう言ってくれたので、アンドレはスーツケースを引いて、車の方に向かった。
孫息子の男らしく逞しく成長した後姿を見送って、マロンは呟く。
「心配なのは、オスカルさまの方じゃなくてさ……一番傷つくのは、おまえじゃないか」

自分の荷物をトランクにしまうと、アンドレはオスカルの荷物を運ぶために離れに向かった。ドアを開けて、階下から名前を読んだが、返事がない。階段を上がって中に入ると、部屋の中は今朝方、彼女を起こしに来たときのままで、ベッドのシーツは乱れていたし、薄手のナイトウェアは着替えた時にかけた椅子の背に、そのまま置いてある。もちろん荷物はパッキングなどされていない。
「あいつ、一体どこにいるんだ?」
オスカルの名を呼びながら、アンドレは一通り、離れとその周辺を探したが、姿は見えなかった。心当たりを探してみることにして、まずは母屋に戻って行った。


その建物のことをオスカルは最初、物置小屋だと思っていた。だが実はセルジュの仕事場になっていて、今日もそこに篭っているはずだ。
彼女はそっと扉の縁に手をかけると、中の様子を伺った。誰もいない。セルジュは何か用事ができて出ているのかもしれない。
小屋の中は、仕事場として機能するように、ずいぶん手がかけられていた。整理整頓されていて、掃除も行き届いている。正面の壁に小さく設けられた窓のそばに、大きな机とキャスターのついた椅子があった。机の上には紙束とノートと、ビーカーやメスシリンダーに試験管、ピペットのような形の器具が置いてあって、学校の化学室のようだ。ガラス容器の中には、液体やどろっとした油脂状のものが入っている。
窓には厚い遮光カーテンが引かれているので、薄暗かったが、壁には書架があり、分厚い本が並べられているのが見えた。どんな本が並べられているのかと好奇心にかられて、オスカルは一歩、中に足を踏み入れる。
書架に並べられていた本の背表紙を見ると、ほとんどが香料関係の本で、有機化学と分析化学、農学の本などもある。下の方の段には、革に背文字が箔押しされている古書が佇んでいた。オスカルは、書架の前を歩きながら、本達の背を指先で辿った。それは、まるで指先から本の内容を読み取っているのではないかと思えるような仕草だった。
書架の対面には、真ん中に切れ目があって、一度中に押し込んでから横に押し開けるタイプの扉があった。そこにセルジュがいないかと思って、そっと扉を押すと、扉は抵抗なく開いた。誰もいない。中は広めのウォークイン・クローゼットになっていて、普段は使わない生活用具が置いてあり、冬に使う石油ストーブなどがしまってあった。壁にはコートがかけてある。
一番奥の隅に、無造作に積まれた本やファイル類があった。その一番上には新聞が載っている。オスカルは新聞を手に取って広げ、一番大きく報じられている記事のタイトルを見た。頬が思わず緩む。それは、彼女が大捕り物を演じた事件を報じた、あの日の新聞だった。わざわざ取ってあったようだ。
その下のファイルにも手を伸ばして、ぱらぱらとめくってみる。よく見えなかったので、灯りを点けると、それはスクラップブックで、新聞や雑誌の切抜きが、たくさん貼り付けてあった。全部同じ人物に関する記事だ。それから、積み重ねてある本のタイトルをざっと確認する。
「ああ、そうか……」
ほほえましさに、彼女の瞳はやさしくなる。
“さあ?どうかしら、わたしも聞いていないの”
あの時の、コリンヌのいたずらな指先の理由がやっと分かった。セルジュ本人はばれていやしないと思っている秘密を、古女房には、とっくの昔に見抜かれていたのだ。

「何をしているっ!?」
背後から怒鳴り声がして、オスカルは思わず手にしていたスクラップブックを取り落とした。それは、はっきりとした木目の床の上に落ちて、バサッと大きな音を立てた。



(つづく)





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