Castor and Pollux




久しぶりにコンビを組むことになった彼女は、浮かない顔をしていた。
アランはフライト前のブリーフィングの間中、クルーの中心になって説明を行い、細かな点まで確認を怠らないオスカルをじっと観察していた。
いつもと、やっていることには変わりがない。的確な指示にも迷いは感じられなかった。だが、ふとした瞬間に、表情が曇り、青い目に影が走る。アランだけはそれを見逃さなかった。
「それでは、今日もよろしく頼む」
ファイルをパタンと閉じると小脇に抱え、オスカルがミーティング・ルームを一番先に出て行った。
やはり気になった。いつもなら、クルー全員が退室するのを見送って、それから一番最後に部屋を出るのが常なのに、今日は違う。
アランは早足で、自分達と同じ制服を身に纏いながら、どこかほっそりとした背中を追いかけた。
まっすぐに続いていた廊下が、乗務員専用ラウンジに向かって直角に曲がったところで、ようやく追いつく。肩に手を伸ばそうとして、やめた。かわりに後ろから声をかけた。
「機長!」
オスカルが足を止めて振り返った。金糸のベールの向こうに、整った赤い唇が垣間見えたと思うと、彼女を象徴する青い瞳がアランを見据えた。
「何か、質問し忘れたことでも?」
声をかけたものの、アランは言葉がつづかなくて頭をかいた。
「あー、その……あちらでの滞在時間は6時間で間違いなかったですよね?」
肝心な言葉は出ないで、どうでもいい言葉が口から溢れる。オスカルはそうだと肯いた。
「以上なら」
そっけなくそう言って、オスカルは彼に背を向けた。アランはあわてて廻り込むと、壁に手をあてて彼女の進路をふさいだ。オスカルが目を丸くしてアランを見上げる。不意打ちをくらった彼女は、アランの目にひどく無防備に映った。
「どこか悪いんじゃないかと思って」
オスカルが小首をかしげる。
「さっきのブリーフィングで、少し元気がなかったから」
オスカルの静かな湖水を思わせる瞳に、さざ波が立った。
「そんなことは……。いや、確かに少し、疲れているのかもしれない」
彼女は否定しようとして思いなおした。これから互いに命を預けるようにして仕事に取り組む相手だ。気づかれているのなら、嘘はだめだと思った。ため息まじりにオスカルが言う。
「詳しくは話せないが、フライト以外のことでいろいろあってな。この仕事も長いと、ただ空を飛ぶだけに特化していればいいと、それだけでは済まないこともあるのだよ。個人的なこだわりもあるのだが」
どういう意味だろうかとアランは思った。彼女は社のパイロットの中では、押しも押されぬエース、いや、クイーンのような存在だ。何を思い煩うことがあるのだろう。もしやと、ついブイエの言葉を思い出し、勘繰ってしまう。それに、“個人的なこだわり”とは何だろう。やはり、ただの恋愛がらみなのか。全くわからなかった。
「顔に出てしまうようでは、わたしも修行が足りないな。だが、仕事には影響がないように、きっちりするつもりだ。信頼してもらっていい」
彼女は彼をまっすぐに見つめた。静謐な声に凛とした強さが加わる。アランは、もうこれ以上は踏み込めないと思った。彼女は一線を引いた。問題を抱えていても、自身の胸の内に秘め、自分で解決するだけの強さを持っている女だった。男としては、もっと、もたれかかってくれてもいいくらいだと思うのだが。
「わかりました。でも、何か役に立てることがあったら――」
アランは一旦、言葉を切った。
「――ヤバイことして、内規部なんかに目を付けられたりしないようにして下さいよ」
「ん?……ああ、ご忠告感謝する」
オスカルはふっと相好を崩す。
「……おまえ、ずいぶんと頼り甲斐のある男になったな」
彼女は軽くアランの肩をたたくと、横をすり抜けた。ラウンジの方に向かい、そのまま室内に消えていくのをアランはただ見守っていた。
彼女の触れた肩がうずく。厳しさの裏返しである彼女の言葉は、真実味があって優しくて、あたたかい。だが、かわいがっている弟に向けるようなその口調に、なぜかアランは傷つけられたように感じていた。


その日のフライトは、オスカルの言っていたとおり、問題なく終わった。比較的小型の機体に数人の客を乗せ、ポルトガルのリスボンまで送り届け、機体の整備が終わったら、とんぼ帰りして来るだけの仕事で、夜には自宅に戻ることができた。
「数年前ならば」と、オスカルが言った。空港に隣接するホテルのラウンジで、クルーの何人かと一緒に休息をとっていた時のことだ。
用事が終わるまで、機体とクルーを待機させ、帰路も利用するケースが多かったが、ここ数年の世界的な不況の煽りを受け、片道のみなど、コストを抑えた利用の仕方をする顧客も増えているらしく、今回もそのケースだった。
もっとも世界経済が傾こうが、一国が潰れてこの世から無くなろうが、そんなことは一毫も関係のない金持ちがいるもので、上級の顧客リストには、そういった面々が名前を連ねているから、会社の屋台骨には影響はないらしかったが。その中の何人かはオスカル個人の熱烈なファンでもあると耳にしたことがある。それに、アランにしてみれば、給与さえきちんと支払われているのなら、何の文句もなかった。
「リスボンの旧市街はなかなか見応えがあるぞ。休暇のときにでも来てみるといい」
そう言ってから、彼女はビカを口に含んで、顔をしかめた。ビカはポルトガルのコーヒーだ。どろりと濃くて苦味の強いコーヒーは、彼女の口にはいまひとつ合わないらしい。
アランはふと彼女と自分が連れ立って、リスボンの街をそぞろ歩いているシーンを頭に思い浮かべた。ファドの歌声が流れるレストランに誘ったら、彼女はいっしょに行ってくれただろうか。もちろん、同僚としてだが。

アランはシャワーを浴びると、部屋着に着替えて、軽くタオルで拭いただけの髪のまま、PCの電源を入れた。
このところ、一日の終わりに日報をメールすることが日課になっている。いや、義務付けられていると言った方が正確かもしれない。あて先は、内務部のブイエだ。
オスカルと接触のない日も欠かさず報告を上げてくることを課されていたが、今日は一日彼女といっしょだった。そのことは、あちらでも掴んでいるはずだった。
しかし、どこまで書いていいのか判断がつきかねて一向に文章が出てこない。キーボードの脇で空回りする指をデスクに打ち付ける。カツカツと爪のぶつかる音がする。
あまり内容のない報告では、内務部の指令に服従しているのかどうかを疑われてしまうが、彼女が疲れた様子だったこと、何か悩みを抱えているようにも見えたこと、その中でもフライトはつつがなく終わったこと、それだけを書いて送信ボタンを押した。本当にこれ以上は、彼にもわからないのだから。
送信が完了すると、未開封のメールをチェックした。今日はそれほど数がなかった。タイトルを見て、要不要を判断する。ネット・ショッピングの広告などは、内容も見ずに、選択にチェックを入れて、腹立たしげに全て削除した。
二通、会社のドメインを使ったメールがあった。一通は社内の友人からで、一通は社員に一斉送信されたものだった。
「あ、これか」
アランは、リスボンでの休憩中にオスカルが言っていた言葉を思い出した。彼女が時間つぶしの話題の一つとして提供したものの中に、社長宅のパーティーに出席するかというのがあった。
毎年復活祭の頃に、滅多に直にはお目にかかれない社長夫妻と社員の交流目的で、パリ郊外の社長宅でパーティーが開かれる。贅を尽くした料理に無礼講のどんちゃん騒ぎで、豪華商品の当たる抽選会など、趣向をこらしたイベントもあり、毎年ほぼ100パーセントの割合で社員が出席すると聞いている。このメールは、そのパーティーへの出欠確認だった。出席と答えれば、折り返しIDカードが送られて来る手はずになっている。
噂には聞いていたが、訓練生の間は参加資格がなく、アランが正式なパイロットになってから初めて行われるパーティーだった。正直、興味をそそられた。――しかし。
アランは“出席”とタイプして、マウスを送信ボタンに載せたままで躊躇した。
オスカルは、出席すると言っていた。しかし、彼女をスパイするような、この状況下で出席しても楽しめないような気がする。送信の決心がつかないまま、メールを保存して答えを保留した。
あと一通残された未読メールを読む。送信元は、自分より数年先輩のユランという同僚で、総務課に勤める生まじめな男だった。今回のパーティーで、屋敷に常時勤務する使用人達だけでは手が足りず、臨時にスタッフとして一日勤務できる知り合いがいないかとの照会だった。社長一家が臨席する場に、縁もゆかりもない派遣社員を投入するよりは、多少技能が劣っても、社員が身元を保証する人間を配置した方が、安全を確保するという上では都合がいいという判断らしかった。
マウスに手を置いたまま、アランは友人関係をざっと頭に描いた。その中で、一人の男の顔がはっきりと浮かぶ。あいつなら適任ではないだろうか。
フリーターだという、あの男。
数日前に会ったばかりだが、誠実な男だ。酔いつぶれた自分を置き去りにすることも出来ずに自宅へ連れ帰り、ベッドを明け渡してソファで眠る律儀さは、どう考えても信頼するに値すると思う。
女ならば選り取りみどりだろう甘いマスクを持っていて、性格も決して悪くはないのに、アランから見れば、狂おしいほどに一人の女を思いつめる一途さは、ほとんど天然記念物だ。いまどきのパリで、そこまで素朴で真っ正直な男を捜すのは、どれだけ骨の折れることか。
フリーターと言っても、それほど金に困っている様子も見られなかったから、出来心で盗みなど働く畏れもなさそうだったし、帰り際に会ったアパルトマンの子供達にも懐かれていた様子だった。子供に好かれる男に、悪人はいない。
それに。

「え?おい、アンドレ、何があったって言うんだよ!」
その日は、壁一枚隔てたところから聞こえる、争うような怒鳴り声で目を覚ました。辺りを見回すが、アルコールがまだ抜けきらない頭では、はじめ状況がつかめなかった。記憶をいくら辿っても見覚えのない部屋。のそのそとベッドから起き出す。声のした方に面したドアを開けると、果たして、膝をついて呆然としている部屋の主がいた。
その男のことは覚えていた。昨夜、オペラ座近くのバーで知り合って、いっしょに飲んでいた男だ。そうすると、自分は酔いつぶれてしまい、この男の部屋に泊めてもらったということかと合点がいった。
男は膝をついたまま、ゆっくりと振り返った。そしてこれほど深い絶望はないのではないかと思うような声で言った。
「完璧に振られたかもしれない……」
自分が彼のベッドで高いびきをかいている間に、どうも昨夜の話に出てきた、アンドレの永遠の女が現れて、あっという間に口論になり、顔を拝む暇もない間に恋人達の決裂は決定的になっていたようだった。しかし、何があったのか、思いつめた顔の男に詳しいところまで問い詰めることはできなかった。
おまえなら、すぐに、もっといい女が見つかるさ、おまえを振る女なんて、大したもんじゃないさと、思いつく限りの慰めの言葉を投げかけたが、彼はアランの思いやりを察して、かろうじて微笑んでくれるだけだった。
ずっと気になってはいたが、何となく連絡するきっかけがなくて、連絡しないままでいた。今ごろ憔悴しきっているのか、それとも犬も喰わぬなんとやらで、すっかり仲直りしているのか分からなかったが、いずれにしろ、仕事の話は悪くないだろうと思った。一日限りだが、時給はかなりいい。

アランは床に無造作に置いてあるフィルソン社製のカーキ色のブリーフケースから携帯を取り出して、男との別れ際に教えてもらった番号へと電話をかけ、応答を待った。



(つづく)






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