Castor and Pollux





アランは、磨きぬかれたローズウッドのドアの前で、ノックするのをためらっていた。
「何か、ヤバイことしちまったっけ……?」
頭をかく。
情報対策室は、社外および社内の業務全般に関わる情報を収集・管理する部署で、その情報を元に、企業運営における決定を下したり、社内の不採算部門にてこ入れを行ったりする。
フランス国家でいえば、対外治安総局と軍事偵察局に、中央対内情報局を合わせたようなところだ。内規部は、その中でも社員の規律を正し、企業情報の漏洩を防いだり、ハラスメントの防止などを主な業務としている。
心当たりがないわけではなかった。時折、同僚とわずかな金額を賭けてカードをすることはあるし、気心の知れた女性の同僚や、後輩をからかったりしたことはある。しかしどれも、部長じきじきに呼び出されるほど、問題になることではないと思う。
もっとも上層部からにらまれてしまえば、どんな些細なことでも懲戒の対象となりうるのだが。
アランをためらわせたのには、他にも理由があった。内規部長であるブイエは、虫の好かない相手だった。自分のポジションを笠に着て、管轄下ではない他部門でまで上司風を吹かす、そんな輩だ。アラン達、パイロットに対してもご多分にもれずだった。
もっとも、彼らは他の部署に比べれば被害が少ない方だった。主たるターゲットになって、嫌味を言われたり、圧力をかけられる人物が決まっていたからだ。
オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ。
女性だから目立つという理由もあるが、彼女は決してブイエにおもねるような態度を取らなかったばかりか、自分が正しいと思えば堂々と意見を述べるようなところがあり、それが、このお山の大将的な人間の怒りを買った。
そればかりか、彼女は他のパイロットに累が及びそうになると、進んで自分が矢面に立とうとする。最初は正直、出しゃばりやがってと、そんな風にしか思えなかった。社長の覚えがめでたいから、部長もおいそれと手出しができないのをいいことに格好をつけているだけとしか、彼には受け取れなかった。
だが、同乗していた機がトラブルに見舞われ、一緒に死線を越えたあの日以来、見方が変わった。彼女はそんな上辺だけの人間ではない。そして、変わったのは彼女という人間性に対する評価だけではなくて……。
そういえば、最近は同じフライトになることも少なくて、このところ顔を合わせていないが、どうしているのだろう……。
「おれは何を」
そこまで考えて、アランは我に返った。浮かんでいた彼女の笑顔を頭の中から追い出す。
今は自分の身を守ることが先決なのに。一体なにがお咎めの対象になったのかわからなければ、対策の立てようもなかったが、自分は母と妹を養っていかなければならない身だ。精一杯抗弁して、それでも処分されるというのなら、言いたいことは言ってしまって、それから辞めよう。
彼はネクタイを心もち締めなおすと、思い切ってドアをノックした。
ドアが開かれる。出てきたのは女性秘書だった。スーツに身を包んではいるが、すらりとしたモデル体形の美人だった。ロシアか東欧系だろうか。
「ア、 アラン・ド・ソワソンです」
緊張気味に名前を名乗る。女性秘書はにこりともせずにデスクに戻り、インターフォンで彼の来訪を部長に告げた。
「どうぞ、さきほどからお待ちです」
奥の部屋に通された。緊張していたせいか、沈み込むほど厚いカーペットに足を取られそうになる。
ブイエ部長は、紫檀の重々しいデスクの向こうに座っていた。黒い革張りの椅子に深々と腰を下ろしている。アランがドアの前で立ち止まっていると、近くに来るように指示した。アランがデスクの前まで来ると、ブイエはデスクの上で手を組み、黙って観察するように彼の頭から腰の付近まで、何度かゆっくりと視線を往復させた。
「あの、御用はなんでしょうか!?」
短気なところのあるアランは、値踏みするような視線に少し不快感を覚えて、自分から尋ねた。ここまで来ると肝も座ってくる。もうなるようになれだ。
「まあ、そう硬くならんで、まずは掛けたまえ」
意外なことに、部長の声はやわらかく親しげで、アランは拍子抜けした。言われたとおりソファに腰を下ろす。ダークブラウンの落ち着いた感じのソファは思ったよりも固かった。
ノックの音がして、先ほどの秘書が紅茶を運んで来た。まずブイエの前に置き、つづいてアランの前のローテーブルにも置くと、無言のまま出て行った。
「君はわが社に入って何年目だったかな?」
はあ、4年目になりますとアランが答えると、ブイエは、同期は誰がいるだの、今の仕事は気に入っているかだの、次々に当たり障りのない質問をしてくる。
アランはそれに機械的に答えながらも、警戒心を解かなかった。世間話をするためだけに呼び出されたとは、どうしても思えなかった。自分がそれほど、気に入られているはずはない。
「ところで」
ブイエの口調が変わった。来たな、と密かに思う。
「君の担当教官だったのは、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェだったね?」
突然、彼女の名前が出てドキリとする。はいと冷静に答えながら、さきほど自分が考えていたことを思い出して、アランは一瞬冷や汗が出そうになった。
「君を呼び出したのは他でもない。彼女の身辺で困ったことが起きていてね……」
ブイエは自慢の口ひげを指先で弄ぶように触った。膝の上で組んだアランの手に力が入り、わずかに汗ばむ。次に出てくる言葉を彼はじっと待った。



あれは、オスカルだった。
自分のアパルトマンに戻ったアンドレは、そのまま体をベッドに投げ出すと、天井を仰いだ。
髪をまとめ、サングラスをかけた、いつもと違う装いをした彼女。ほんの一瞬、すれ違いざまの出来事で、見間違いかもしれなかった。他の人物だったならば。だが、彼が彼女を見間違うはずはなかった。
聞いている予定では明後日帰ってくるはずだ。なぜ、パリにいるのだろう。いっしょにいた男は誰なのだろう。なぜ連絡をくれないのだろう……。
次々に疑問符つきの言葉ばかりが浮かぶ。
これまでにも、予定が変わって早く戻って来ることはあった。だが、その場合は真っ先に彼に連絡をくれていた。それこそ、空港から、搭乗していた機体を降りた直後にでも。
一緒にいた男性は同僚なのかもしれない。彼女の職場環境や会社の人間を全て把握しているわけではない。それに、まだ仕事の途中なのかもしれなかった。だがなぜいつもと違う、まるで変装のような格好をしていなければならなかったのか。
疑念を打ち消す言葉を考えようとしても、さらにそれを打ち消す言葉が浮かんでしまう。
それに、ちらりと見ただけだが、側に寄り添っていた男の姿がちらついて離れない。妙にひっかかるものがあった。
会ったことはないはずなのに、ずっと知っているような気がして心に引っかかる感覚。それは、以前にも感じたことがあった。あれは、確か、オスカルが航空機事故にあったというニュースを見て空港に駆けつけた時だ。そのとき会った男に感じたものと似ている。
彼は寝返りを打った。鎧戸の隙間から、萌え出し始めた青葉の影が揺れるのが見えた。
彼女はここの中庭がとても好きだと言う。この部屋で過ごした時間のうち、彼女が訪れるようになってからの方が、もう長くなっていた。
壁際のスツールの上に、無造作に投げ出されたようになっている携帯電話はいまだに鳴らない。起き上がって手を伸ばす。ベッドのスプリングがきしんだ。
登録してある番号を呼び出してコールする。彼は祈るような気持ちで呼出し音が途切れるのを待った。何度か同じトーンが繰り返された後、デフォルトで用意された知らない女の声がメッセージを残すようにと彼を促した。
無言のまま接続を切ると、彼は弾かれるように立ち上がり、仕事部屋に置いてあったヘルメットを拾って部屋を出た。行き先は彼女のアパルトマンだった。会えてしまえば、こんな疑惑など霧消してしまうに違いない。彼はいつになくスロットルを吹かすと、エッフェル塔がそびえる西に向かってバイクをスタートさせた。


それから一時間ほど後、オペラ座界隈をふらふらと一人で歩いている男がいた。アンドレだった。

彼はオスカルのアパルトマンに着くと、彼女の駐車スペースにバイクを止めて、正面のホールに向かった。コンシェルジュに挨拶してから彼女の部屋に向かう。部屋には人の気配はなかった。何度かベルを鳴らすが、インターフォンからは何の応答もない。パスワードは知っていたから中を確かめることもできたが、それには及ばないと思った。彼は再びホールに戻ると、さきほどのコンシェルジュに声をかけた。オスカルから伝言はないかとさりげなく尋ねると、実直で優秀な男は答えた。
「さきほど一度、お戻りになられましたが、メッセージはお預かりしていません」
「そ、そう。じゃあ、すれ違ってしまったんだな、きっと。……あいつも……一緒だったらいいんだけど」
アンドレは努めて冷静を装う。かまをかけてみる。
「お友達とはご一緒でしたから、大丈夫でしょう。男性の方ですよね」

返事を聞いてから、きちんと礼を言えたのかどうか覚えていない。
そのまま建物を出ると、あてどもなく歩き出していた。何となく一人でいるのは寂しくて、パリの中心の方へと自然と足が向かった。
彼女はやはり戻って来ていた。
いつの間にかシャイヨー宮もエリゼ宮も通り過ぎ、気がついた時にはマドレーヌ教会の前に辿りついていた。少し先にオペラ・ガルニエの灯りが見える。
その明かりに誘われるように、アンドレは歩き続け、有名な老舗カフェ・ド・ラペの前に立った。ここまで来ると、どうしても彼女のことを思い出さずにはいられなくなる。彼女と初めて待ち合わせるのに指定した店だ。その時は知らなかったのだが、奇しくもこの近くに彼女の勤める航空会社の社屋もあった。
初対面なのに、彼女は怒って飛び出して、あわてて捕まえて。それから始まった。
ガラスに映った自分の顔のひどさにアンドレは苦笑した。まるで幽鬼のようだった。
普段は激したりすることが少ないと自負しているのだが、彼女にまつわることとなると、どうにも制御できない感情に押し流されることがある。
今回のことだってそうだ。まだ真相を確かめてもいないのに。
アンドレはその場を離れ、また歩き出した。しばらく歩き続けると、並びの店からどっと陽気な笑い声が聞こえた。ショット・バーだった。普段、彼はあまり飲み歩いたりするともなく、家でもたしなむ程度にしか酒を飲まなかったが、今日は酔いたい気分だった。
開け放たれた窓から、酔客の声と食器のぶつかる音と、調子の外れた歌が聞こえていた。彼の今夜の気分を紛らわすには、ちょうどいい場所のように思えた。

アンドレはカウンターに陣取ると、強い酒をたてつづけに何杯かあおった。元々アルコールに弱い性質ではなかったが、今夜は特に頭が冴え冴えとして、酔うことが出来なかった。
琥珀色の液体を一気に喉に流し込んだ後、氷だけが残ったグラスをカウンターに打ち付けるようにして下ろし、また次の杯を注文する。
バーテンダーがグラスに酒をそそいでいる時に、カウンターの端に一人で座っていた男と目が合った。アンドレと同じ、黒髪に黒い瞳をした男は自分と同じくらいの年か、いくらか下くらいの若い男だった。アンドレはすっと視線を逸らした。今日は誰かと話す気になれない。
また差し出されたグラスを一気に飲み干す。ようやく酔いが回ってきて、アンドレは何か胸につまっているものまで吐き出すかのように、大きく息を吐いた。
そのまま俯き加減で背を丸めていると、肩を叩かれた。
「しけた顔してると、ハンサムが台無しだぜ」
親しげに声をかけて来たのは、さきほど目が合った黒い瞳の男だった。



(つづく)




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