風は、夜半から強くなった。
冷たい北風は、ときにはバンシーの泣き声のような高い風鳴りを伴って、ときには太古の平原を駆け抜けていた頃と同じ低い唸り声をあげながら、木々の間を抜け、古い家をきしませて、いずこかへと去っていく。
スタンドの灯りの下で、アンドレは頬杖をついていた。集中できるので、部屋の照明は落としてあるため、蛍光灯の光がスポットライトのように、彼の手元を照らしていた。
愛用の灰白色の紙の上で、さきほどから手は止まったままだった。今夜はどうも筆が進まない。
机の傷に爪を立ててみる。この机は、故郷のプロヴァンスから、一緒にこのパリへやって来たものだ。子供の頃、近所に住む家具職人の小父さんが作ってくれたものだが、アンドレが大きくなってからも使えるようにと、かなり大きめにこしらえてくれたので、子供の頃はずいぶんと広く感じたものだが、今はむしろ狭いくらいだ。
何度もニスを塗りなおした机には、大小の傷があちこちにあった。いつ付けたのか、さっぱり覚えていないものもあれば、それを見るだけで、ありありと当時の思い出が浮かぶものもある。
窓の外で、風は中庭の木々を大きくしならせながら啼いていた。アンドレはブルー・ブラックのインクで、意味のないらくがきを書き付けた。万年筆で描かれた螺旋状の円の連なりは、どこか、つむじ風のようにも見える。

背後で、コトリと音がした。
振り返ると、遠慮がちに少しだけドアが開いていて、そこから白い指先がのぞいている。
「なんだ、先に休んでいてくれていいと言ったのに」
誰何もせずに声をかけると、木製のドアがきしんだ音を立てながら、また少しだけ開いた。
「……眠れないのだ」
おぼろげに金の髪と白い顔が認められる。暗がりなので表情はわからなかったが、声は少し甘えた調子で、ベッドの中で何度も寝返りを打ち、逡巡したあげくに、アンドレのもとへやって来たのが分かる。
彼は椅子から立ち上がると、まっすぐドアの方に向かい、迷わずノブを手前に引いた。
目が合うと、いきなり視界が開けたせいか、彼女は少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐに、その瞳は戸惑いの表情に揺れた。そして、怒ったか悔しがってでもいるかのように、ほんのちょっと下唇を噛んだ。
「すまん。仕事の邪魔をするつもりは無かったのだが」
「いや、いいよ。今夜はどうもペンが走らなくてね」
アンドレはオスカルを書斎に招き入れた。目と目を見交わしてから、彼女は所狭しと積み重ねられている本の山の間を通って、裸足のひたひたとした足音を立てながら、スタンドに照らされたデスクに近づいた。目についた紙片を取り上げる。
「なんだ、全然書けていないじゃないか」
そう言った彼女は、すっかりいつもの快活な調子に戻っていた。
オスカルの気持ちの切り替えは速い。見ている方は狐につままれているのではないかと思うほど、鮮やかに、だが自然に変化していく表情に、アンドレはいつまでたっても慣れないでいる。
「うん。テーマがないというのも、とっかかりが難しいものなんだよ」
書き始めれば速いんだけどねと、アンドレは言いわけしながら、彼女から紙片を奪い返した。
今度、新しく創刊される雑誌の巻頭を飾る作品を任されたアンドレだったが、そこそこ名前が売れて来たからか、編集者は字数制限を課しただけで、あとは好きなように書いていいと言って来たらしい。テーマがなくても、通常なら、過去の掲載作品や読者層を考えれば、どんな作品に仕上げればいいものか、少しは手がかりになるものだが、それすらなしというのは、アンドレにとって初めての状況だった。一行も書けないまま、しめきりは三日後に迫っていた。
オスカルはアンドレの座っていた椅子に横向きに腰かけると、背もたれに肘を乗せて、すらりと伸びた足を組んだ。
机の上には何も書いていない数枚の原稿用紙と、投げ出されたような万年筆がある。くずかごに、いくつも、くしゃくしゃに丸められた紙が入っていることからも、彼が頭を悩ませているのが分かった。
「いまだに手書きで原稿を書いている作家なんて、フランス広しといえども、おまえくらいのものではないか?」
書き損じの山を見て、オスカルがあきれて言う。電子データならば、始めから書き直すとしても、何文字書いてあろうが、削除キーで一瞬にして消すことができる。
「メールやコラムなんかはPCを使うけどね。どうも小説はこいつじゃないと調子が出ないんだ」
アンドレは、机の上の万年筆を指先ではじいた。やや緑みがかった暗い茶色の万年筆は、机の上をころころと転がった。オスカルがそれを人差し指で止める。
「キーボードでアルファベットを打つのと、手で文字を書くのは、全然違う作業なんだ」
同じテーマで、同じ資料を使って書いたとしても、書く道具によって物語の展開が変わってくるのではないかと思われるほど、何かが違っているのだとアンドレは説明する。
「そんなものか」
オスカルは、万年筆のつやつやとした握りを指で撫でた。銀色のペン先にはWの文字がプレスされている。正直、その感覚はオスカルにはよく分からなかったが、使い込んだ万年筆は、もはやアンドレにとっては、戦友のようなものなのかもしれない。

「……さ、そろそろ」
言い出しにくそうに、アンドレがオスカルを促した。仕事中にオスカルが話しかけて来ても、滅多に遮ることのない彼だったが、さすがに今夜は焦りがあるらしい。それに、ヒュプノスの羽ばたきが聞こえないようにと、室温を低めにしていたから、薄いナイトウェア一枚の彼女がずっとここにいると、風邪をひいてしまいそうだった。
オスカルはゆっくりと立ち上がった。彼女は一言も口をきかなかったが、ドアノブに手をかけた瞬間に、ちらりとアンドレの方を振り向いた。
アンドレが肩をすくめて首を振る。
「仕方ないな。寝室までついていくよ」
ドアの向こうのリビングは真っ暗だった。レースのカーテンから入るかすかな光を頼りに、二人はテーブルや椅子にぶつからないよう気をつけて通り抜けて行く。
あいかわらず風は強くて、たてつけの悪い窓がガタガタとうるさく音を立てていた。

寝室につくと、オスカルは素直にベッドに入った。アンドレが子供にするように、毛布を引っ張りあげて肩を包んでやる。
「眠れそうか?」
彼が低くてよく通る声でささやくと、オスカルは黙ってじっとアンドレを見つめた。
「わかった、わかった」
アンドレは木製の椅子の上にあった本をどけると、ベッド・サイドに引き寄せ、腰を下ろした。
「……何も言ってない」
「言わなくてもわかるんだ」
彼が笑う。この場合、彼女の青い瞳ほど雄弁なものはなかった。少なくとも、アンドレにとっては。
仰向けになっていたオスカルは、アンドレの方に寝返りを打った。
「風の音がうるさくて、どうにも寝つけないのだ」
確かに、風が吹くたびに、梢が寝室の窓ガラスを引っかいて、耳障りな音を立てていた。
「本当だ。もう少ししたら剪定の時期なんだけどな。明日、晴れていたら、その枝だけでも切ってもらうことにするよ」
アンドレは、オスカルの髪を梳くようにして、ゆっくりとなでた。彼女は神妙な顔をしている。

オスカルの不眠の原因は、風の音のせいだけではないことを、彼は承知していた。
もう一ヶ月以上たったが、ある事件があってから、時折、彼女は夜更けに不安げなそぶりを見せるようになった。だんだんと回数は減って来ているが、過去世の自分と精神が入れ替わるという、前代未聞の体験をしたのだ。精神に負担がかかっていても無理はないと思う。子供の頃に見たという悪夢も、思い出したかのように、何度か見ているらしい。
アンドレの指が、彼女のこめかみから耳の前を通り、白い頬をなぞって形のよいあごで止まった。オスカルが自分の手を、その上に重ねた。彼女の半分閉じたまぶたは神経質そうに震え、小刻みな振動がまつげの先まで伝わっている。
アンドレはベッドの上に座りなおした。すると、オスカルは自然と寄りそうかのように、彼の膝に頭をもたせかけた。
「何か、本でも読んで聞かせようか?」
アンドレが尋ねると、オスカルは首を横に振った。
「子供を寝かしつける、父親みたいじゃないか」
言葉は非難めいていたが、彼女の口調はまんざらでもなさそうだった。
「ちょっと、今はそんな気分かな。では、お嬢様、ひとつゲームでもいたしませんか」
アンドレが明るくおどけてみせる。
「なんだ、それは」
「頭のこりをほぐす、ちょっとした発想の転換エクササイズだよ」
オスカルは少し興味をそそられたようだ。
「どんな?」
「想像してみて」
アンドレは彼女の目に手をかざし、自分自身も目をつぶった。
「もし……もしも、鏡を通して入れ替わっていたのが、おまえ達でなく、おれ達だったら、どうなっていたと思う?」
二人の会話を盗み聞きでもしていたのか、それを聞いた外の梢が、窓ガラスをひとつ叩いた。




(つづく)

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