アンドレの手には、一通の手紙が握られている。封筒は茶色く変色し、古くなった油の匂いが染み付いている。油紙に包んで保存されていたのだろう。


訪問者を知らせるチャイムが鳴ったのは、彼がオスカルの寝入ったのを確かめて、寝室のドアをそっと閉めたのとほぼ同時だった。
やって来たのは、車椅子の老人と介助の青年で、老人は一見してかなりの高齢と見受けられた。髪はほとんど抜け落ち、わずかに後頭部に残るばかりで、皺だらけの顔の眼窩は落ち窪んで、瞳孔が白く濁って光を失い、わずかに、かつては青色をしていたことが伺える。
老人はショヴィレという姓だった。アンドレがリビングに通してお茶を運ぶと、介助の青年が老人の身の上話を始めた。
それによれば、彼はジャルジェ家に代々仕えてきた一族の末裔で、18世紀からの手紙を届けるために、やって来たのだと言う。
手紙の宛て先は確かにここで、その筆跡には見覚えがあった。信じがたいことだが、オスカルの手によるものに違いなかった。

老人が帰ってからも、アンドレはしばらく、手紙を開封できないでいた。テーブルの上に並べてあるティー・セットを片付けもせずに、弾力性のあるソファに深く腰を下ろして封筒をじっと見つめている。
”18世紀からの手紙だって?”
かなり柔軟な思考をしているはずのアンドレにさえ、不可解な出来事がつづく。
200年の時を越えて届けられたという古びた手紙には、いったい何が書いてあるのか、彼にも見当がつかなかった。だが、ひとまず読まねば先へは進めない気がする。意を決したアンドレは、キッチンから小型のナイフを取ってくると、慎重に開封して、中から便箋を取り出した。
便箋には、封蝋に刻印されているのと同じ、剣を捧げ持った獅子が印刷されていた。ジャルジェ家の紋章なのだろう。その下には、封筒の宛て名書きと同じ筆跡で、文面が綴られていた。ぎこちないほど丁寧に書かれた文字は、しかし、ところどころが滲んでいた。おそらく紙に羽ペンが引っかかってしまったのだろう。使い慣れない道具を何とか使いこなそうとしている様子が伺えた。


親愛なるオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ殿
突然の出来事に、きっと混乱されていることと存じます。わたしもずいぶんと困惑しましたが、そちらは、こちら以上に混迷を極めていることは想像に難くありません。
さらにあなたの混乱を深めるだけかもしれませんが、まずは用件の趣旨が通るように、自己紹介をしなければなりません。
わたしの名前はオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェと申します。わたしは、あなたの生きた時代から、はるか数百年の未来を生きる者です。
あなたの周囲は、あなたの生きた時代には無かった物で溢れてはいませんか。それは200年以上に渡り、人類が科学を進歩させた成果です。それらと、この過去からの手紙が何よりの証拠と思っていただけないでしょうか。
驚かないで読んでいただきたいのですが、どうやら、わたし達は、鏡を通して、精神だけが入れ替わってしまったようなのです。天使を象った飾りの付いている、あの大きな鏡です。わたしにも、はっきりした理由を説明することができませんが、ジャルジェ家に伝わる“異世界に通じる鏡”の伝説をご存知かと思いますが、あの鏡がそれで、何らかの未知の力が宿っているのかもしれないと推測しています。しかし、その謎についてはひとまず置いておき、今は事実だけを受け止めようと思っています。
こちらでは、ご家族もお屋敷の人達も、大変に親切で快適に過ごすことができています。しかし、わたしは、未来に、自分の世界に戻ることを切に望んでいます。未来にはわたしのするべきことが待っていて、そしてわたしの大切な人達がいるからです。きっと、あなたも同様に思われていることでしょう。
わたしは、もし、入れ替わったときと同じ状況が作れれば、元に戻れるのではないかと推論しました。あのとき、わたし達は偶然にも、同じ日付の同じ時刻に鏡の前に立ってしまったために、このような事態に陥ったように思えるからです。
この未来への手紙を、あなたのアンドレに託します。アンドレはわたしの心の支えとなり、よく動いてくれています。この手紙をわたし達が入れ替わった日の翌日の正午に、わたしの住所に届くように指定しますので、12月24日のきっかり夜9時に、もう一度、例の鏡の前に立って下さい。決して時間をまちがえないようにお願いいたします。
そちらにもわたしのアンドレがいてくれたらと思いますが、今、彼は遠い異国の地にいるはずです。しかし、あなたは優秀な軍人だそうですから、どんな状況であろうと冷静かつ的確な行動を取り、事態の収拾を果たしてくれるものと信じております。
夜までの間、わたしの部屋で、どうぞゆっくりなさって下さい。置いてあるものは、全てご自由にお使いになって結構です。部屋の中ですら、驚くべきもので溢れ返っているのですから、外出は控えた方がよいように思います。外は危険で満ちあふれています。命の危険すら招くこともあるでしょう。どうぞ、そのことはしっかりと心にとめておいて下さい。決して外出されませんように。できれば夜までの時間を居間で過ごされる方が賢明かもしれません。アパルトマンの中でも、思わぬ事故が起こらないとも限りませんから。
わたし達が元に戻るためには、お互いの無事がもっとも肝要だと思われます。
この手紙が、無事にあなたの手元に届くことを心から祈りつつ。
あなたと同じ名前の オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェより


「なんてことだ!18世紀と現代のオスカルの精神が入れ替わってしまっただって!?」
長い手紙を読み終えて、アンドレは思わず大きな声をあげてしまった。寝室の方でコトリと音がしたような気がする。オスカルが目を覚ましたのかと、そっとドアの前で聞き耳を立てたが、部屋の中は暗いままで、起きた気配はなかった。音を立てないようにしてドアを開けると、彼女は先ほどと同じ、こちらに背を向けた姿勢のままでベッドに横になっている。
アンドレはほっとして、ソファに座りなおし、手紙にもう一度、じっくり目を通した。

この手紙には、一連の出来事の顛末と、そして解決方法までが記してあった。入れ替わった状況が手紙の通りなら、100パーセントの確信がなくても、その方法を試してみる価値はあるだろうと彼も思った。
しかし、この手紙には同時に、彼を悩ませる新たな問題も含まれていた。
今、隣の部屋で寝息を立てている彼女は、過去の彼女で、しかも夜には18世紀に戻る予定なのだ。
オスカルからの手紙は、長めではあったものの、必要最小限のことがうまくまとめてあった。手紙には、余計なことはできるだけ省いているような節がある。不要な情報を彼女に与えることによって、過去に戻ったオスカルの行動に影響が出るのを懸念してのことに違いない。
物理学でいうカオス理論に「バタフライ・エフェクト」という言葉がある。
“初期条件のわずかな差が時間とともに拡大して、結果に大きな違いをもたらす”という理論を詩的に表現したもので、ゆえに正確に未来を予測することは不可能と結論づけるものだが、今、アンドレの目の前で起きていることに限って言えば、“初期条件のわずかな差でも、時間の経過によって結果に大きな違いをもたらす”という部分が非常に重要だ。
オスカルもきっと同じことを思ったのだろう。明後日から仕事が詰まっているからという現実的な理由もあるだろうが、できるだけ短期間に収拾を図ろうとしているのは、多分、そのためだ。
例えば、革命の辿った、その後のみちのりを彼女が知ってしまったら、どうなるだろう。オスカルの記憶によれば、彼女は王妃と王家を深く敬愛していたそうだが、その王妃がギロチンに送られてしまうことを知ったら……。彼女は果たして、バスティーユで民衆の側に立つことができるだろうか。
そうなれば、歴史が大きく変わることになるかもしれない。死すべき人間は死なず、生まれてくるべき人間が生まれて来ず、起こるべきことは起こらずに、未来は今と同じであるべくもない。
手紙を書いたオスカルは、アンドレがパリに戻っていることを知らない。だから手紙で、できるだけ、彼女が余計なことを知ることがないように行動の制限をしているのだ。
しかし、自分は今、ここにいる。自分の責任を思って身が引き締まる。できるだけ彼女を現代から隔離し、無事に18世紀に帰すこと、それが自分の使命であるように思う。
手が汗ばんで、手紙を知らず知らずのうちに握りしめていたことに気づく。
「この手紙を、彼女に見せるかどうか……」
ひとつひとつ、慎重に行動しなければならない。彼は、ここが未来だと知ったときの彼女の反応を頭に思い描いた。もし、彼女がブルボン王家の行く末や、フランスのその後について質問してきたら、どう説明すればいいのか。帰るまでの数時間、未来世界の情報を完全にシャットアウトすることは不可能だが、それが過去にどんな影響をもたらすのか。考えれば考えるほど、わからなくなっていった。いっそそれまで、このまま眠りつづけてくれたらと思うが、それは無理な話だろう。
何かもっとよい方法はないだろうかとアンドレは思案にくれて、手紙を再度、読み返した。四度目に手紙の文面を追ったとき、彼は鏡にまつわる伝説のところで目を止めた。
この伝説を使って、彼女にここが異世界だと思わせることはできないだろうか。全く別の世界だと思えば、彼女の行動に影響は出ないかもしれない。幸いなことに、彼女はショヴィレに会わずにすんだし、この手紙の存在も知らない。

彼は、まず部屋の中から、未来を臭わせるものを徹底的に排除しすることにした。そろそろオスカルが起きて来るかもしれないから、迅速に行動する必要がある。キッチンからゴミ用の大型ビニール袋を取り出して、危険そうなものをその中に入れる。キッチンのカウンターに置いてある、デジタル時計にまず気が付いた。日付表示のあるデジタル時計は、だめだ。リビングの壁にかかっている柱時計は大丈夫だろう。備え付けのラックに並んでいる雑誌や、取り置いてもらっていたらしい新聞の束も、次々に袋の中に放り込んだ。袋はたちまちのうちにいっぱいになったので、ひとまずリビングからつづくバルコニーの隅に置いておくことにした。
トイレやバスルームも念のために確認したが、問題はなさそうだった。寝室の奥の部屋も使わない家具や調度だけだから、大丈夫だろう。
書斎には鍵をかけた。オスカルは読書家で、作りつけの本棚には、小説からビジネス本、専門書にノンフィクションから歴史の本までが、ずらりと並べられていて、情報の宝庫だ。ここには絶対に立ち入らせてはならない。
一通り片付いて、ほっと一息つこうとしたのも束の間、アンドレはあることを思い出して、寝室の前に立ちつくした。
つい最近、オスカルが実家から家誌を取り寄せて読んでいると言っていた覚えがあったが、書斎にもどこにも見当たらなかった。ジャルジェ家の家系図や先祖代々の記録が記してあるものだ。もちろん、革命後の顛末もしっかりと書かれている。あれが彼女の目に触れるのが一番まずいだろう。あるとすれば、残るはこの部屋だ。だが、そこには現在、18世紀の精神を宿したオスカルが眠っている。




(つづく)

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