閉園の時刻が迫る頃、辺りはかなり暗くなっていた。
正門を出ると、ぽつりと最初の雨がオスカルの頬に落ちてきた。アンドレがバイクを取りに行っている間に雨はしとしとと降り始めて、ようやくアンドレが戻った頃には、彼女の金髪の少しカールした部分で、いくつもの水滴が水晶のかけらのように光っていた。
バイクをスタートさせてまもなく雨脚は急に強くなり、2人はこのまま数十キロの道のりを走り抜けるのを早々に断念すると、ヴェルサイユ宮殿近くのこじんまりとしたカフェ兼バーで、夕食を取りながら雨がやむのを待つことにした。
あまり食事のメニューは充実していなかったので、クラブサンドイッチとガレット(塩味のそば粉入りクレープ)にエポワスチーズを添えたものとサラダ、それに炭酸入りのミネラルウォーターを注文した。初老のマスターらしき男性が丹念にグラスを磨いているカウンターの奥には、かなりの種類のアルコールの瓶が並んでいたが、バイクでの帰路を考え、今は控えることにした。

店の中は薄暗く、各テーブルにはグラスの中に灯るちいさなキャンドルが置かれていた。ウィークデーの晩だからだろうか、店内はそんなに混んではおらず、テーブル席にはオスカルとアンドレのようなカップルが2組と、あとは店の常連らしき数人がカウンター席に陣取っているだけだった。注文の品が運ばれてくると、アンドレが白い小皿に取り分けて自分とオスカルの前に置いた。アンドレはサンドイッチにかぶりつき、オスカルの方はサラダを口に運んだ。味は可もなく不可もなくという感じだった。
オスカルはまだ何かひっかかるところがあるのだろうか。黙々と食べ物を口に運んでいる。
アンドレが話題をふっても生返事だ。

食事がだいぶ進んだ頃、音楽が流れ出した。誰かが店の隅にあったジュークボックスにコインを入れたらしい。むかしからそこにあるのか、店の趣味でわざわざ取り付けてあるのか、かなりレトロな趣きのそれは、クリアさを追求した今のプレイヤーにはない懐かしい音がした。英語の歌が流れる。
「ビリー・ホリデイだ」
アンドレが言った。
「ああ、『奇妙な果実』の」
オスカルが言うとアンドレはくすりと笑った。
「何がおかしい?」
「いや……真っ先にそんな政治色の強い曲が出てくるのがさ。おまえらしいなと思って」
アンドレが実に愉快そうに言うので、オスカルはむっとして言い返した。
「彼女の代表曲じゃないか。何がいけない?どうせ私は頭の堅い色気のない……」
「怒るなよ」
「怒ってなんていない」
オスカルはいくぶん口を尖らせて、ちぎって口に入れかけていたガレットを皿に戻した。
「そんな風には思ってないよ」
アンドレはミネラルウォーターをひとくち口に含んだ。
実際、すねてみせる彼女は柔らかくかわいく見えた。きっと仕事の時とは全然違う顔なのだろう。
入って来た時からずっと、店中の男たちがちらちらと彼女を盗み見ている。本人は全く気づいていないが。
しかしあえてそのことは口にしない。自分がどれほど女性として魅力的か自覚されては困る、これ以上手がつけられなくなってはとアンドレは思う。

曲が変わった。
カップルの一組がテーブルを離れると、カウンター脇のスペースでゆったりとチークを踊り始めた。
「踊るか?」
空気を変えようと、アンドレがオスカルを誘ってみる。
「ワルツなら踊れるが、こういうのは踊ったことはないぞ」
オスカルは躊躇したが、強引に立ちあがらせると、
「踏んでもどうせおれの足だ。気にしなくていいから」
彼女の手を引いてカウンター脇まで引っ張り出すと、すばやく背中に手を回してステップを踏み始めた。
彼女は一度だけアンドレの足を踏んづけたが、すぐに彼の動きに合わせられるようになった。
ダンスが自然に踊れるようになると、ぴったりと密着した彼と自分の体のことが気になった。耳元にかかる息がくすぐったい。こうして抱き合うことは初めてではなかったが、人前だからだろうか。妙に照れくさく感じる。
"今日はアンドレにリードされっぱなしだな。たまにはよいか。一日くらいなら。今夜だけは……"
アンドレの肩口に頭をそっともたせかけて、そう思った。


雨は小止みになっては、また激しくなるのを繰り返し、ようやくあがった頃には11時をまわっていた。店を出ると、雨上がりの大気は湿気をはらんで少し煙っていた。
もやの向こうに宮殿が黒くぼんやりと消え入りそうに浮かんでいる。雨があがって開け放たれた店の窓から、またジャズの旋律にのって歌声が聞こえた。目に映る宮殿と、耳に届く音楽が不思議とマッチしているように感じる。今は18世紀の調べよりも。
「今の宮殿だって悪くないとは思わないか?21世紀なりの役割を果たして、少し形を変えてもそこにある。新しいものと融合したりして。」
オスカルの心を読み取ったかのようにアンドレが言う。
「ルーブルのピラミッドみたいに?」
彼女の言葉に彼の目が泳いだ。
「ああ、……あれはちょっとな」
「そうだな、あれはちょっと、だな」
2人は顔を見合わせて笑った。だんだんいつもの調子が戻って来ているのがオスカル自身わかった。

バイクが走り始めると、オスカルは一度だけ後ろを振り返った。
"ヴェルサイユよ、また"


再び高速をひた走る。夜の高速は車もまばらだったが、路面が濡れていたので往路よりもずいぶんゆっくり走った。最初の恐怖はもうなかったが、オスカルは行きよりもアンドレに強くしがみついて、彼の体の感触を確かめた。厚い皮革の上からでは彼の肌に触れることはできなかったが、胸板から引き締まった腰にかけてのラインにゆっくりと手を這わせ、彼の広い背中を体で感じた。
"思い出は触れられなかった"
もう一度、心の中でさっきの言葉を繰返した。
アスファルトの上を走りつづけるうちに、今日が昨日に変わってしまった。


高速のパリ側の出口は、オスカルのアパルトマンがあるオートゥイユ近くにあった。アパルトマンの前にバイクを止めると、アンドレはヘルメットを外した。オスカルもヘルメットを脱いでバイクから下りた。別れの挨拶が口から出かかった時、アンドレが彼女の右手を掴んだ。とっさに手を引いたオスカルだったが、彼の手を振りほどくことはなかった。
アンドレの瞳が熱を帯びているのが、街灯の明りだけでもよくわかった。手首をつかんだ彼の手は昼間のやさしい手と違って、強引で少し乱暴にさえ感じられた。
古傷がいたむようなうずきが心臓に伝わって大きく脈打ち出した。胸が苦しい。
「いたい」
彼女が小声で言うと、彼ははっと我にかえったように、ごめんと慌てて手を放した。
彼は彼女の頬に軽くキスすると、ヘルメットをかぶりなおしてイグニッションキーを回した。スターターモーターが回転を始める音が聞こえる。
彼女は解放された右手をぎゅっと握り締めた。店で聞いた題名もわからない曲のワンフレーズが、ふと頭をよぎった。
"サン・ジェルマン・デ・プレには、もう明日はない。あさってもないし、午後さえ来ない。あるのは今日だけ"
(Il n'y a plus d'apres Juliette Greco)
雨で濡れて光った路面には、途方にくれたような女の影が黒々と浮かび上がっていた。




翌朝もいつもと変わりなく夜が明けたが、アンドレが目を覚ました時には、中庭のセンサーライトはとっくに消えてしまっていた。
ベッドから起き出すと、いつものように豆をゆっくりと挽いてコーヒーを炒れ、一杯目を飲み干すと買い物に出かけた。
中庭の花壇で、せっせと花の世話をする老女に「おはよう」と声をかけると、しわがれているが、かわいらしい声で挨拶が返って来た。花を切って置いておくから帰りに持って行ってというので、アンドレはお礼を言ってから路地に出た。
今日もキオスクのおしゃべり好きのおばさんは、アンドレを捕まえて、とりとめのない話を延々とつづけた。亭主の給料が少ないから大変よ、娘が今年からリセに通うの、昨日から腰が痛くてね。愚痴っぽい話題の方が、幸せそうに見えるのはなぜだろう。

いつもと変わらない街と、変わらない習慣。


だが今日は帰ってから大変な仕事がひとつ待っている。


部屋を出る時にそっとのぞいたベッドルームで、白い肩と乱れた金髪が彼に背をむけて横たわり、その上によろい戸の隙間から差す光が縞模様を作っていた。
今も彼女はベッドの中でまどろんでいることだろう。行為の後、彼女は何度も寝返りをうって寝つけないようだったから。
朝食を運んで起こさなくてはならない。低血圧でなかなか目が覚めないと聞いているから、いきなり寝ぼけた恋人に殴られたりしないだろうか。
幸福な心配をしながら歩調は自然と速まっていく。昨日の雨でできた水溜りを、アンドレはひょいと飛び越した。
道路とアパルトマンの敷地を隔てている壁をくぐり抜けると、花壇の隅に淡い水色のリボンで束ねられた愛らしい花束が置かれていた。
華やかとはいえないが、春の息吹が感じられるブーケの香りをかいでみると、数種類の花の香りが交じり合って、ちょうどポプリをかいだような感じがした。
起きぬけの彼女の鼻先にこの花を差し出したら、どんな顔をするだろうか。
アンドレは最悪のパターンから最高のパターンまでを思い描きながら、そっと自室のドアを開けた。




(了)











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