藍色の空に曙光が差した。だんだんと灰青色に変わっていく東雲の空に、パリの街角の輪郭が浮かび上がる。
アパルトマンの中庭で、太陽の訪れを検知したセンサーライトが誰にも気づかれずに消えていくのを、自室の窓から静かに眺める時間が、アンドレはとても好きだった。何かが入れ替わって始まるとき。


彼は毎朝、目覚ましにセットした時間の5分前に自然と目を覚ます。まだ鳴ってもいない目覚ましを解除してベッドから起きあがると、盛夏でもない限り、部屋の中はたいていまだ暗い。
彼の故郷グラースでは、日の出前に香水の原料となる花を摘む。彼もそれをよく手伝わされていたからか、早起きの習慣が沁みついていて、パリに出てきてからも起床時間はかなり早かった。故郷を離れて1年あまりたつが、今度帰るつもりでいる。彼女と2人で。

部屋の明りをつけ、キッチンに造り付けの戸棚からコーヒー豆の入った陶器の入れ物とコーヒーミルを取り出す。ライオンのエンブレムが入った手挽きのミルは、時間もかかるし一度に大量に粉を挽けるわけではなかったが、彼のお気に入りだった。
文筆を生業としているアンドレには始業時間に合わせて行動する必要はない。好みの粗さになるまで豆をゆっくり丁寧に挽く。すると豆に封じこまれた芳香が空気に解放されてアンドレの鼻をくすぐる。コーヒーをたてるのにドリップするよりサイフォンを好むのも、そちらの方が茶褐色の液体に香りがより強く残るからだ。
初めて彼女にコーヒーをたててあげた時、よくそんな手間がかかることを毎回するなと、半ばあきれ顔で感心された。だが、一口含んだ後、お前にしかいれられない味だ、なるほどと一人で納得していたのが妙におかしかった。

いれたコーヒーに申しわけ程度にミルクを入れて飲む。春である今は、そうしているうちに日が昇ってくるのだ。

一杯目のコーヒーを飲み干して体が目覚めると、アンドレは着替えをして買い物に出かける。毎朝買うのは、焼きたてのバゲットと新聞。
朝の空気はひんやりと湿っていて、それでいて日溜りだけが暖かい。そのコントラストはとても心地よかった。
アンドレのアパルトマンは2つの棟が小さな中庭を抱え込むようにして建っており、そこを通り抜けて街路に出る構造になっている。中庭を通り抜ける際、花の香りがするのに気づいた。庭の日当たりのよい片隅にある花壇から香ってくるのだった。そこは、向かいの棟に犬と2人暮らしをしている老女が丹精こめて世話をしている。

いきつけのブーランジェリー(パン屋)で、いつもの先が尖ったバゲットと、今日はリンゴジャムの入ったベニエに、ブリオッシュを買った。毎日新聞を買っていた雑貨店が最近閉店してしまったので、今は街角のキオスクで新聞を買う。そこの話好きのおかみさんともすっかり顔なじみになった。新聞を買うだけなのに、いつもたっぷり5分は話し込んでしまう。といっても9割方相手が喋っているのに相槌を打っているのだが。

部屋に戻ると先ほどのコーヒーと買ってきたバゲットで軽く朝食を済ませる。
午前中は家事をひととおり済ませた後で、新聞を読んだり、メールのチェックに、調べ物をしたりするのが日課だ。
午後は外出することが多い。打合せに出たり、生活に必要なものを買いにでかけたり。
部屋を出たところで、同じアパルトマンに住む男の子達にくわすと、急ぎの用事がなければ、たいてい遊びに付き合わされる。お返しにと夕食に招待されることがあったが、そうした見返りを抜きにして、純粋に子供達と遊ぶのは楽しかった。


その日は午後からの予定がなかったが、やはり外出してみることにした。締め切り間際には一日中机に向かっていることもあったが、集中できる夜の時間を使ってコンスタントに執筆をし、昼間はできるだけ仕事以外の時間を作るように心がけていた。一人でいるのは苦ではなかったが、決して人嫌いなわけではない彼にとって、子供との遊びも他愛ない会話も、必要な人生の一部だったから。
それに、すっかり春めいたパリの街は、それだけで人を戸外へといざなっているようだった。
彼は火の元をチェックして窓を締め、ジーンズにイタリアンカラーの青いネルシャツという軽装で廊下に出て自室に鍵をかけた。


「アンドレ!」
アパルトマンの出入り口まで来ると、案の定、頭上で聞きなれた声がした。
鼻の頭にうっすらとそばかすのある白髪に近いプラチナブロンドの少年が、転げおちそうな勢いで階段を駆け下りて来た。
「ねえねえ、今日もサッカー教えてよ!」
アンドレのシャツの袖を捉まえて、逃がさないぞとばかりに力いっぱい引っ張る。そうされると、例え急ぎの用事がある時でも、ふっと笑みがこぼれてしまうから不思議だ。
「フランソワ、この間教えたリフティングは練習したのか?」
少年が大きく頭を振って何度もうなづく。もうこの辺りでは一番上手になったさ、と鼻の下をこすって自慢げに言うので、
「じゃあ、今日はドリブルでもやるか」
そう言って少年にボールを取って来るように促そうとした時。
「先約か。では今日はここで失礼するかな」
背後で声がした。振り返ると戸口にすらりとした人影があった。逆光で、金糸の髪の輪郭が、ひときわ鮮やかに輝く。

「オスカル?」
予期していなかった訪問者に、軽く驚きの声をあげる。聞いていた予定では、今頃大西洋上を飛んでいるはずだ。
「クライアントの都合で今日のフライトがキャンセルになった。何でも不倫旅行が奥さんにばれて、大変なことになっているらしい。暇だから寄ってみたんだが……」
彼女は、ちらりと脇の少年を見た。アンドレが振りかえると、オスカルの顔をぼーっと見つめながら、突っ立っているフランソワがいた。
「かわいい友達と約束があるなら仕方がない。他をあたる。突然訪ねて悪かった」
そう言ってオスカルがフランソワにほほえみかけると、少年は頬を上気させて気をつけの姿勢になり、慌てて言った。
「いいんだよ!アンドレとはいつでも遊べるから。ね、アンドレ!」
アンドレの脇を肘で小突く。いいのか?とアンドレが、かなりの身長差のある少年の方に長身の体躯をかがめて聞くと、少年が彼に耳打ちした。
「この人、アンドレの恋人なの……?振られないように気をつけなよ。あんな美人そうそういないんだから」
年端も行かない少年のありがたい忠告に苦笑しているアンドレを、オスカルは怪訝そうな顔で見ている。
じゃあねと階段の踊り場から大きく手を振るフランソワを見て、何をこそこそ話していたのだ?と尋ねるオスカルに、アンドレは男同士の話だよと言って笑った。




(つづく)







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