注)ラブ・シーンはありませんが、J×Oのデート場面があります。




昨夜は、子供の頃に何度も繰り返し見た夢を、久しぶりに見た。

夢の中で、黒髪の男の子が服をぼろぼろにして泣いている。やがて彼の髪が背中まで伸び、立派な青年に成長する。彼はいつも彼女の隣で笑っていた。夢の中の彼女はその笑顔が大好きだった。いつしか彼は、髪を短く切って隻眼の男に変わり、最後は血まみれになって死んでいくのだ。

目が覚めると決まって涙を流している。子供の頃は怖くて怖くて泣きながら母の胸に飛び込んだものだった。
大人になってからは見ることもなくなっていたのだが、小説に描かれた黒髪の青年の死が、夢の中の男の死と重なったからかもしれない。

今日も泣きながら目を覚まして、夜明け前の薄明りの中で子供の頃を思い出していた。そういえば、まだ小さかった頃はずいぶんと情緒不安定な子で、どうしても行けない場所があったり、何かのきっかけで怒り出すと歯止めがきかないことがあった。一度など、ケンカ相手の男の子が気絶するまで馬乗りになって殴りつづけたことがある。
両親が心配して精神科医に相談したり、迷信深い母方の祖母が占い師のところに連れて行ったりした。占い師は「前世の宿縁が……」などと言っていたらしいが、精神科医の見立てどおり、大きくなるにつれて次第にコントロールできるようになった。
このところの自分はあの頃に戻ったみたいだと、彼女は苦笑した。


その日はオフだった。
オスカルが朝食をとるためにレストランにやって来ると、ジェローデルが先に朝食を取っていた。相席することにして、トーストとスクランブルエッグ、それにカフェを注文した。
ジェローデルとの会話は楽しい。知識は幅広く話題が豊富で、見識も高い。それに外交官だった父親について、幼い時から世界各国をまわっっていたというから、現地に住んだ者にしかわからない面白い話も聞ける。

「今日のご予定は?よろしかったら、このままご一緒しませんか?」
ジェローデルは優雅な手つきでマイセンのカップをソーサーに置くと、そう尋ねた。
「そうだな。特に予定はないし」
夢見が悪かったせいか、何となく一人でいたくない気分だったオスカルは誘いを受けた。
これまで何度か食事をいっしょにしたことはあるが、一日行動を共にするのは初めてかもしれない。

自分の部屋に着替えに戻り、ロビーに下りて来ると、ソファに腰掛けていたジェローデルが立ちあがった。正面玄関前のロータリーには、オープンカーのポルシェがとまっていた。ジェローデルが手配したものらしい。
「手回しがいいな」
オスカルが皮肉っぽく言うと、
「貴女のためなら、これくらい当然です」
悪びれた風もなくそう返す。

アルジェリアでは、冬でも平均気温が10度を下回らない。その日は快晴だったこともあり、オープンカーでドライブするのは気持ちがよかった。白い海岸線をエメラルドグリーンの海を望みながら走る。海風にオスカルの金髪がなびく。
少し肌寒いなと感じた頃、車は岬の先端に立つ一軒のレストランの前で止まった。ジェローデルが素早く助手席のドアを開け、オスカルの手を取って中にエスコートする。店には予約が入れられており、左手奥の地中海が一望できる席に通された。
オスカルの好みや、その日の食材などを聞きながら、ジェローデルがオーダーをする。
アルジェリア人のボーイが少し訛りのあるフランス語で、テイスティングをと言って、彼のグラスにワインを注いだ。
前菜のラタトゥイユにはじまり、メインも、デザートのスフレまで文句のない味だった。
「いかがでしたか?」
食後のカフェを楽しみながら、ジェローデルが聞く。
「うん、本国でもなかなかこんなに上手い店はないと思う。よくこんな店を知っているな、ジェローデル」
料理に舌鼓をうったオスカルは、いつになくリラックスしているようだった。オスカルの様子に満足したジェローデルはつづけた。
「ここのシェフはフランスの三ツ星レストランで修行をしていたのですよ。いつか貴女をお連れしたいと思っていました」
ジェローデルはフライト先でも、きちんとしたレストランで食事をとる。オスカルが現地の庶民的なレストランに出かけたり、好奇心から市場で名物を食べてみたりすることが多いのとは対照的だ。
「貴女ともっと、こうして仕事以外でも同じ時間を過ごせるといいのですが、オスカル」
ジェローデルが情熱をこめた目でオスカルを見つめる。今まで呼んだことのなかったファーストネームのところだけ、少しだけ強調するようにして言った。
予想もしていなかった言葉に、オスカルはしばし唖然となる。ジェローデルのことは信頼しているが、そのような対象として考えたことはなかった。

帰りのオスカルは無口だった。ジェローデルも敢えて話しかけようとはしない。そんな男の横顔を見つめながら、彼女は思った。
ジェローデルのことは決して嫌いではない。むしろ好ましく思っている。容姿も能力も家柄も申し分ない。性格も遊び人のようでいて、本当に大切だと思う人間には誠実なのも知っている。たいていの女性は、彼に好意を持たれたら心ときめくのだろうと思う。もし、彼と恋に落ちて、結婚したら幸せになれるのだろうか……そんな考えがふと脳裏をよぎる。
これまで何人かの男性と付き合ってみたことがあるが、何度か会ってそれで終わりだった。深い関係になったことは一度もない。全てをもっているのに、みんな何かが足りなかった。オスカルの心をかきたてるような何かが。

やがてホテルに着くと、先ほどのように助手席に回ろうとした彼を制し、オスカルは自分でドアを開けると、言った。
「それでは、明日のフライトもよろしく頼む」
ポーカーフェイスを崩さない男に微笑むと、軽く右手をあげてエレベーターに乗りこんだ。
自室に戻ると、着替えもせずにソファに体を投げ出した。仰向けに寝転んで天井を見つめる。先ほどのジェローデルのことを思い出してみるが、やはり、好意を持たれて悪い気はしないくらいの感情しか湧かない。
明日は午前中のフライトだ、早く眠ろうと思って、日課のメール・チェックを済ませる。今日は急ぎの用件はなかったはずだと思ったが、一件だけ新着があった。
タイトルは「お願い」。
送信者は、アンドレ・グランディエ。
もう彼と接触することは二度とないだろうと思っていたから驚いた。正直、振りまわされるのはもうごめんだと思った。一体何の用だろうと、オスカルはいぶかりながらメールを開いた。




(つづく)





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