目を覚ますと見慣れぬ白い天井が見えた。壁も床もリネンも全て真っ白な部屋。
消毒液のにおいがする。ベッドは固くて、ふだんオスカルが使っているものとは違う。シーツはごわごわするほど、しっかり洗濯され糊付けされている。
オスカルが顔を横に向けると、ベッド・サイドに心配そうな顔をして、彼女をのぞき込んでいるアンドレがいた。
「オスカル、気分はどうだ?大丈夫か?」
次第に意識がはっきりしてくると、オスカルは、自分がなぜここにいるのかを思い出した。
アンドレと歩いていて、チュイルリー公園で急に倒れたのだ。きっとアンドレが病院に運び込んでくれたのだろうと思った。
同時に、倒れる直前に見た映像が再び脳裏をよぎり、オスカルはベッドのシーツを握り締めた。
「急に倒れたから驚いたよ。何か持病があるとか……?」
アンドレが遠慮がちに聞いてきた。
「いや……発作を起こすような病気はとくに…ただ」
「ただ?」
アンドレが聞き返したが、オスカルは言いよどんで黙り込んでしまった。それ以上、何も言いたくない様子だった。今はそっとしておいた方がいいのかもしれないと、アンドレは話題を切り替える。
「簡単には診てもらったけど、一度、精密検査を受けた方がいい」
アンドレが諭すように言った。
「うん。命を預かっている身だからな」
今度はオスカルも素直に頷いた。


オスカルの状態が落ち着いているので、その日は帰宅することにした。半日近くも眠っていたようで、もう次の朝を迎えていたが、冬のパリの夜明けは遅く、まだ太陽は昇っていなかった。
オスカルの足取りは既にしっかりしていたが、アンドレが家まで送ると言うので、タクシーでオスカルのアパルトマンに向かった。車を見送ってからも離れ難く、アンドレはエレベーターにいっしょに乗りこみ、彼女の部屋まで行き、それからようやく別れを告げた。

早朝の高級アパルトマンの広い廊下には、2人以外誰もいなくて、しんと静まり返っている。磨き上げられた黒と白の市松模様の床はひんやりとして、冷気で足元から凍っていきそうだ。
オスカルがドアにもたれかかり、アンドレがそれから半歩ほど離れて、部屋の前で暫時見つめ合った。どちらも何も言わない。
オスカルはもう少し傍にいてほしいと思ったが、一睡もしないで自分に付き添ってくれていたというアンドレの疲労を考えると、それ以上のわがままは言えなかった。
『寄っていかないか』、喉まで出かかった言葉を飲みこんで、彼女は、ありがとうとだけ言うと、ドアを開けて部屋の中に消えた。
目の前のドアが閉ざされると、アンドレは後ろ髪引かれる思いで彼女の部屋を振り返りながらも、ちょうど止まっていたエレベーターに乗りこみ、階下へと下りて行った。


数日後。
原稿に向かっていたアンドレの携帯が鳴った。オスカルからだった。
「どうした?」
電話に出るなり、誰何もせずにアンドレが聞いた。
「今日、精密検査の結果が出た。特に異常はないそうだ」
電話越しだが、彼女の声は元気そうで、ずっと気がかりだったアンドレは安堵した。
左手で電話を耳にあてながら、右手で書きかけの原稿を取り上げた。かすかにかさり、と紙が立てる独特の音がする。
「すまない。仕事中だったか?忙しいなら、これで切る」
「ん?どうしてわかった?大丈夫だ。まだ締めきりは先だから」
「紙の音がしたから。おまえは原稿を手書きしてるって言ってただろ。新作の原稿か?」
そういえば、そんな話をしたことがあった。2人で仕事上でのこだわりを話した時だったか。



「恋愛物は書かないのか?『追憶』以外、一本も書いてないだろ」
使いこんだ感じのする万年筆のキャップをアンドレが閉めていると、オスカルがそう尋ねた。アンドレの作品は10数作品にのぼるが、恋愛をテーマにしたものは、それ一作のみだった。
「実は、何本か書いてみたんだけどね、どうしても悲恋に終わらせてしまうからお蔵入りになったんだ。それも、必ず男の方を殺してしまう」
それを聞いてオスカルが笑いだした。アンドレはオスカルの明るい笑い声を聞いて嬉しくなり、さらに本の話しをつづけた。
「あの本、あまり売れなくて絶版になってたのに、よく見つけたな。その感想が今頃になって送られて来たから、びっくりしたんだよ。それに、"男性"にしては、彼女の方にずいぶんと肩入れした感想だったから、妙に気になって返事を書いた」
アンドレはオスカルをもっと笑わせようと思って言ったのだが、彼女はあの時の申し訳なさを思い出してしまったようで、
「あの時は本当に悪かった。ただ、おまえのあの本を読んでいると、まるで自分が体験したことのように感じられて、彼の死を知った時の彼女の痛みが私の中に流れこんで来て……。たまらなくなったんだ。私だって物語としての悲劇はおもしろいと思うが、自分の人生を悲劇にされて、喜ぶ馬鹿はいないだろ?誰だってハッピーエンドを望んでいる」
自分の感じたままを正直に話して、アンドレに理解を求める。
「それに、初めて会った時、おまえ、私をからかっただろ!あれで帳消しだ」
そうだったな、とアンドレが楽しそうに大きな笑い声を立てた。
「何だか初対面のような気がしなくて。懐かしい幼なじみに会ったような。ずっとメールでやりとりしていたからかな。だけど…」
アンドレがそこで一旦、言葉を切った。
「だけど?」
一呼吸置いてから、アンドレが言う。
「あまりに綺麗だったから、一瞬息を飲んだ」

数秒の沈黙。互いの息遣いだけが感じられる。オスカルがおもむろに切り出した。
「この間、倒れた時のことだが……」
アンドレは原稿をデスクの端に寄せた。
「……。聞いてくれるか?頭がおかしいと思われるかもしれないが」
ようやくアンドレに打ち明ける決心がついたらしい。
「そんな風には絶対に思わないよ。話してみて」
どこまでも優しく彼女を受け入れるアンドレに、オスカルはあの時、自分が見たものについて話し始めた。

オスカルの話は、彼女の幼少期に遡って始まった。
小さい頃、どうしても行けない場所があった。それが彼女の倒れたチュイルリー公園だった。傍を通っただけで気分が悪くなってしまう。社会見学でルーブル美術館に行く時などは、前日から熱を出したりして、パリ生まれでパリ育ちながら、初めてチュイルリー公園を通ってルーブルを訪れることができたのは、彼女が13才になった頃だった。
子供の頃、何度も繰り返し見た夢の話もした。黒い髪をした少年が成長していき、最期は血まみれになって死んでいく、あの夢。

あの日。
彼女が倒れたあの日、アンドレが「ルーブルに行こう」と言った頃から、少しずつ気分が悪くなっていった。昔感じたことのある、ざわざわとした髪の毛の固まりが体に絡みつき、体内にまで入りこんでくるような異様な感覚が蘇った。
もうすっかり治ったものと思っていた。子供の頃の一次的なものだと。だから大丈夫だと思って歩き続けたのだが、チュイルリー公園に一歩足を踏み入れた途端、立っていられないほどの悪寒を感じ、ついには夢の中の映像が、夢で見た時よりもずっとリアルに眼前に繰り広げられたのだ。
軍服を着て騎乗した男が銃弾を浴び、ずるりと崩れ落ちるように落馬する。傷口からも額からも口からも鮮血があふれていく様が、フラッシュバックのように次々と映し出された。
彼の死に顔が現れた途端、目の前が真っ白になって、その後のことは覚えていない。
次に気がついた時は、病院のベッドの上だった。


話し終わっても、何も言わないアンドレに、オスカルの方が先に切り出した。
「どうかしていると思うか?」
「いや。それだけ鮮明に再現されるということは、オスカルが物心つく前にでも、どこかでそんな場面をみたんじゃないのかな。実際にでなくとも、映画とか何かで。あそこはフランス革命時に戦闘があった場所だろ」
両親からそんな話は聞いたことはなかったが、確かに彼の言うとおりかもしれないとオスカルは思った。
だが、もう一つ気になっていることがある。言うか言うまいか迷ったが、この件については、アンドレには全て知っておいてもらいたいと、思い切って話すことにした。
「気を悪くしないで聞いてほしいんだが……。その夢の中の男が、おまえにそっくりなんだ。しかも、夢の中の自分と愛し合っているようで。で、でも、あくまでも夢の中の話だからな!愛し合っていると言っても」
最後の言葉を自分で慌てて否定するオスカルに、アンドレは苦笑した。

心のつかえを洗いざらい話して、すっきりしたのだろうか。オスカルがアンドレに次に会う約束をせがんで来たので、2人のスケジュールをすりあわせて約束をすると、電話を切った。
携帯を定位置に戻すと、アンドレは再び書きかけの原稿を引き寄せたが、その日は一向にペンが走らなかった。




(つづく)

ミスリル様より頂戴した素敵なイラストを挿絵として使わせていただきました。
ありがとうございました!



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