その日、彼女は日本からのフライトを終えて自宅に戻る道すがら、目に止まった書店にふらりと立寄ってみたのだった。

いつもなら真っ直ぐアパルトマンに戻り、お気にいりのバス・キューブを泡立ててゆっくりバスタブにつかったあと、たまった新聞や郵便物に目を通しながら、パリでの日常生活にモードを移していくのが常だったが、その日はまだ日没まで時間があった。小春日和のこんな日に太陽の光を浴びなくてどうするのか。パリの冬は、そこに住む誰もが太陽を恋しがる季節だ。少し寄り道してみることに決めると、アパルトマンにまっすぐつづく通りを右に折れた。
高級住宅地として知られるパリ16区、バルザック記念館脇のベルトン小路に入る。文豪バルザックの作品が好きだった彼女が記念館を訪れた際に、たまたま見つけた場所だ。
ここは19世紀末に行われた、大規模な近代的都市整備前のパリの姿をとどめている数少ない場所だった。何千万回も踏みつけられて黒光りしている石畳の上を、乾いた音を立てて枯葉が舞う。


オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェは、ここがとても好きだった。


なぜかここを歩いていると心が落ち着いた。



小路を抜けたところに、その書店はあった。
"こんな店、今まであっただろうか?"
これまで何度も通ったことのある場所なのに、見覚えがない。
最近建った建物とも思えないそれは、おそらく17〜18世紀頃建てられたものだろうとオスカルは直観した。
不思議なことに、その年代の事物については、特に勉強したわけでもないのに大学教授なみの知識を披露できることがあった。是非、歴史学の大学院に進んでほしいと、文学部の教授に泣いて頼まれたことがあったが、いくつかあった選択肢の中から、彼女が選んだのはパイロットの道だった。

看板すらない店だったが、窓辺に何冊かの本が並べてあったから、それが本屋だということがわかった。
まるで引き寄せられるようにドアを開けて建物の中に入る。チャイムがわりに付けられていた大きめの真鍮の鈴がカラリとひとつ鳴った。
内部は薄暗く、寒々としていた。インクの匂いがする。所狭しと本棚が何列も並び、それに本が詰めこまれるように収まっていた。
奥の方に、白髪頭に真っ赤な毛糸で編んだ帽子を被った痩せた老人が座っていた。おそらくこの店の主だろう。鷲鼻からずりおちそうになっている眼鏡の向こうからオスカルを一瞥すると、読んでいた本に再び視線を落とした。
彼女の他に客はいないようだった。
なんとなく居心地の悪さを感じた彼女は、入り口に一番近い本棚の、彼女の目と同じくらいの高さにある棚から1冊の本を抜き取ると、店主らしき老人に手渡した。
なんでもいいから本を買って、この店から一刻も早く立ち去りたいと思ったからだ。
面倒くさそうに立ちあがった店主であったが、渡された本の表紙を見た途端、相好を崩し、さきほどまでとは打って変わって、好々爺然とした顔つきになった。
「ほほお。この本を選ぶとは目が高い。決して数は売れていないが、いいものを書く作家だよ。上下巻本だが、上巻だけでいいのかね?」
「いえ、これだけで」
老人の豹変ぶりに、かえって気まずさを感じたオスカルは代金を支払うと、むき出しのまま本を掴んで、真っ直ぐに出口へと向かった。
「また、どう…」
最後の方はドアが閉まった後だったので、彼女の耳まで届かなかった。


同じ16区にあるが、バルザック記念館のあるパッシー地区より落ちついた佇まいのあるオートゥイユに、彼女のアパルトマンはあった。
この地区はアール・ヌーボー建築がかなりの数残っており、オスカルのアパルトマンもその一つだった。19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した建築家エクトール・ギマールの設計である。
建物は全体が優美な曲線で縁取られ、エントランス右手の蔓を模した窓枠には、植物をモチーフにしたステンドグラスがはめ込まれている。

さすがに中は現代的に改修され、高級住宅街にふさわしく最新鋭の設備がそなわっていた。
コンシェルジュから数日分の新聞と自分宛の郵便物を受け取ると、エレベーターに乗り、5Fまで上がると解錠キーを入力した。ドアを開けると自動的に照明がつく仕組みになっている。
彼女はリビングをぬけると寝室に向かった。クローゼットから着替えを出そうと思い、手に持っていた本は、ベッドの上に放り投げた。
着替えを見つけると、今度はバスルームへと大股で歩いて行く。帰る途中に携帯からお湯を張るようにコードを送信しておいたから、入浴の準備はできているはずだ。
すりガラスの向こうは温かな湯気でいっぱいだった。洗面台の上からいつものバス・キューブを取り出すと、湯に投げこんだ。溶けたバス・キューブから甘いバラの香りが立ち上り始める。ようやくいつもの儀式にたどりついたのだと感じる。
オスカルは着ていた服を脱ぎ捨てると、湯に浸かった。そのままじっと目を閉じると、自然とため息がもれる。真っ白な肌が次第に上気して淡紅色に染まり、水滴が肩から腕をすべり落ちてバスタブに返っていった。
壁に備え付けられているTVのチャンネルは、ニュース専門チャンネルLCIに合わせられていた。ガザ地区で起きた自爆テロ事件の速報を伝えているのが聞こえ、浴室に反響していた。

たっぷり一時間はバスタブにいただろうか。
ようやく満足したオスカルは立ち上がると、水を含んだ金髪をタオルで軽くふいて頭に巻きつけ、下着を身につけた上にわずかにピンクがかった白いバスローブを羽織ると寝室に戻った。
日が沈み、外は凍るような寒さであったが、部屋の中は快適な温度と湿度に自動的にコントロールされており、バスローブ一枚でも寒いとは感じなかった。

すらりとした肢体を、お気に入りのアーム・チェアに深く沈めると、いつものように新聞や郵便物に目を通し始めた。新聞には特に気になる記事はなく、手紙類もダイレクト・メールやカード会社からの請求書など事務的なものばかりだった。
一通り目を通した後、ふと物足りなさを感じて、さきほどベッドの上に無造作に投げ捨てた本のことを思い出した。
取り上げて、パラパラとページをめくってみる。
幼なじみの男女の恋愛小説のようだった。

普段のオスカルはこの類の本はあまり読まない。
なりゆきで買うことになった本だ。最初は何ページか読んで、そのままゴミ箱にでも放りこんでやろうかと思っていた。
ところが、10ページほど読んだ辺りから物語の世界に引き込まれ、時間を忘れて一気に最後まで読み切ってしまった。
あろうことか、不覚にも涙までこぼしていたのである。

内容はたわいもない恋愛小説と言えなくもなかった。なのに、なぜだか自分でもわからないまま、涙がこぼれてこぼれて止まらなかった。主人公の金髪の少女に同化するほど感情移入している自分がいた。彼女が恋する黒髪の少年に自分が恋しているような切なさを覚えた。それに、作品の中のたべものや風景の描写を読むと、彼女の体の中で、香りや味や手触りまで再生されるような錯覚がし、懐かしくて胸がしめつけられるようだった。

上巻は、成長した2人が、周囲の反対や誤解から音信不通になるところで終わっている。

「くそっ!いいところで終わっているな。当たり前といえば当たり前だが」
いらだちを含んだ声でひとりごちると、時計を見た。まだ6時を周ったばかりだ。あの店が開いているかもしれない。店主の口調から下巻の在庫があるのはまちがいない。
矢も盾もたまらず、ジーンズと白いカシミアのセーターを着、コートを羽織ると先ほどの書店を早足で目指した。いや、そう思っているのは本人ばかりで、まわりから見ればほとんど走っているようにしか見えなかったのだが。
ベルトン小路は街灯が少なく、この時間帯は人通りも少ない。いくら馴染みの場所とはいえ、普段の理性的なオスカルなら、夜間、女一人でこのような場所へ来るのがどんなに危険なことかわからないはずはなかった。軍人であった彼女の父親に、幼い頃より武術のてほどきを受けていたから、多少のことがあっても大丈夫だという自信があったにしても。
だが、この時の彼女は自分でもわけのわからない感情に付き動かされて、物語のつづきを読むことしか頭になかった。まっくらな小路を全速力で駈けぬけた。交差している通りまで、ようやく辿りつく。
ところが。
そこにはバーが建っているばかりで、例の書店は存在しなかったのである。

息を切らしながら、判読不能なほどボロボロになった映画のポスターの名残が張りついているレンガの壁を呆然と見つめる。
必死に記憶を辿ってみる。そういえば、確かにこの場所には元からこの店が建っていた。昼間感じた違和感はこれだったのだ。
だが、店一軒がまるで煙のように消えてしまうわけはない。
あれは何だったのだろう。そう考えながら、手袋をはめるのを忘れていたために、すっかりかじかんでしまった手をコートのポケットに突っ込んだ。


部屋に戻ると、ベッドの上には例の本が飛び出した時のままの状態で、確かに、あった。
店がなかったとしても、本を買ったことだけは紛れもない事実のようだ。
さて、ともかく下巻を手に入れるにはどうしたらよいだろうかと、考えをめぐらす。
次善策を思いついたオスカルは、パソコンのスイッチを入れた。最初からこうしていればよかったのに。あまり売れていない本でもネットなら簡単に検索して買うことができるはずだ。届くまで2、3日はかかるだろうが、明日、本屋を何件も梯子して、せっかくの休日を棒に振るくらいなら、その方がマシに思えた。
本音を言えば一刻も早くつづきが読みたくてたまらなかったのだが、先刻の失敗で冷静さを取り戻したオスカルは、突き上げてくる衝動を押さえこみ、起動が完了したパソコンの前に座ると、いつも注文しているネット書店にアクセスした。
トップページからは、書名と作者名で検索が可能だった。
本の表紙を確認する。
タイトルは「追憶」。ありふれたタイトルだ。絞り込んだ候補は256件。
作者名を入力してさらに絞込みをかける。


作者名は、アンドレ・グランディエ。



(つづく)

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