少年の夢と目覚め―あるいは幼年期の終わり
(「風邪と喧嘩と…」アンドレver.)

※「風邪と喧嘩と…」を先にお読みになった方が楽しめるかと思います。




彼の主人であるオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェが風邪のために伏せってから、もう3日がたつ。
初めはせいせいしていた彼だったが、こう顔を見ない日がつづくと会いたい気持ちが1秒ごとに膨らんでいった。勝気で生意気な、自分を振りまわすだけ振りまわす彼女なのに。

彼女の乳母である自分の祖母から、オスカルがかなり回復したと聞いた時には、いても立ってもいられなくなって部屋に忍び込んでしまった。

寝台の上で静かな寝息を立てている彼女はふだんと違って見えた。
柔らかな金髪。触れずともわかる滑らかな白い肌。頬から首すじ、そして鎖骨にかけては、うっすらと桜色に染まっていた。
当たり前の女性として育っていたら、誰もが気づいただろう彼女の本質がアンドレの目の前にさらされていた。
いつもは険のある表情に隠されて誰も気づいていないだろうが、アンドレだけはただ一人それに気づいてしまった。

「アンドレ!?」
彼女が側に人がいるのに驚いて声をあげた。
アンドレは弾かれたように一歩後ろに下がった。
「3日も士官学校を休んでいるから、その…どんなものかと思って、様子を見に来た」
我ながらまぬけな見舞いの言葉だと思った。自分にきびしいオスカルは休んだことを気に病んでいるかもしれないというのに。
案の定、機嫌を損ねてしまったようで、彼女はいつもの可愛い気のない口調で憎まれ口をたたいた。
いつもなら笑ってかわすか、うまく軽口が出てくるアンドレだったが、さきほどまでオスカルの寝顔をうっとりと見つめてしまっていた後ろめたさが、彼をいたたまれなくした。
結果、喧嘩となって部屋を飛び出してしまった。

その晩、アンドレの自室の寝台はいつになく冷たかった。
布団を耳までかぶっても寒気は収まらず、やがて悪寒となって、一晩中うとうとと眠っては気分の悪さに目が覚めるのを繰り返して朝を迎えた。

日がすっかり昇る頃になると、一向に起きて来ない孫息子を怒鳴りつけに、マロン・グラッセが彼の部屋にやって来た。
だが孫の苦しげな顔と体の熱さに気づくと、すぐに孫思いの優しい祖母の顔になって、主であるジャルジェ将軍を探した。あいにく早朝から出仕していたため、ジャルジェ夫人にアンドレの様子を伝え、一日仕事を休ませてもらえないかと頼み込むと、夫人は二つ返事で申し出を了承し、「一日でも二日でも、アンドレが元気になるまでゆっくり休ませるのですよ」と、忠実な使用人であるマロンがアンドレを無理に働かせないように釘を刺した。

それからアンドレが寝こんでいることを知ったオスカルの意向によって医師が呼ばれた。
アンドレは風邪くらいで、使用人の自分がジャルジェ家お抱えの医師に診察を受けることを不思議に思ったが、
「オスカルさまがどうしてもとおっしゃるからねぇ…。ありがたく思うなら、早く元気になってオスカルさまのお役に立つんだよ、いいね!」
という祖母の言葉に事の成り行きを察した。
処方された苦い薬をがまんして飲むと、やがて眠気に襲われた。
昨夜、熟睡できなかったこともあってすぐにアンドレは深い眠りに落ちた。

どのくらいの時間がたっただろう。
深く寝入っていたアンドレだったが、ふと額にひんやりとしたものを感じて、ぼんやりしながらも意識が浅いところに戻って来た。

人の気配がした。そばにいてくれたのは、いつも優しく温かく自分を包んでいてくれた母だった。
夢の中の母はあいかわらずにこにこと笑っていて不安な気持ちを吹き飛ばしてくれた。
その中では確かに母親は生きて温かくて胸の鼓動まで聞こえるようなのに、懐かしくて懐かしくて涙が溢れた。
「か、母さ…ん…」
こみ上げる感情が母を呼ばせた。

寝返りを打とうとしたアンドレが腹部に重いものを感じて目を覚ますと、椅子に腰かけた姿勢のまま、アンドレの体に覆い被さるように眠っているオスカルがいた。
彼女の左手がアンドレの右手に絡められている。
自分よりも一回り小さなその手。白く柔らかくて、指はほっそりとしている。強く握り返したら彼の手の中で砕けてしまいそうだった。
まだ熱のあるアンドレの掌に比べて、彼女の手はひんやりとして、それがとても心地よかった。さきほど額に感じた冷たさと同じだった。
では、ずっと側にいてくれたのはオスカルだったのだろうか?
かつて幼い時に母がそうしてくれたように。

「おい、オスカル。おいってば。こんなところでうたた寝をしていると、また風邪がぶり返すぞ!」
オスカルの肩を揺り動かして起こした。
「ん…アンドレ…気分はどうだ?」
「あぁ。仕事を免除してもらって十分休んだから、明日にはまた仕事に戻れそうだ。お前さえ元気になったらお前の供も…」

彼の言葉を聞いた彼女は見逃しそうなほどの刹那、泣きそうな顔で目を見開いたが、すぐにいつもの不敵な笑みを浮かべると冷静な声で言った。
「士官学校に行けるようになるまではもう少し時間がかかりそうだ。だからその間だけでもゆっくり休め。そのかわり元気になったら存分に働いてもらうからな!」

ああ、いつものオスカルだと、彼女の言葉に苦笑してから彼はふと思いついて言った。
「ところでオスカル?おれ、寝言で何か言ってなかった?」
一瞬の間があいてオスカルが答える。
「…いや別に。何も聞かなかったが…」

目覚めて、そばにいてくれたのがオスカルだと気づいた時、自分の涙をオスカルに見られ、寝言を聞かれたかと思った。
気丈に男社会に立ち向かっている彼女に、自分の悲しみや苦悩を見せてはいけないと心に誓っていた彼は咄嗟に心配になったのだ。
「そうか。それならいいんだが」

オスカルがアンドレの顔を見つめる。アンドレもじっとオスカルの顔を見つめ返した。
薄暗い室内でも彼女の金髪は輝いて見える。まるでそれ自体が発光しているようだ。
白い顔も青い瞳も形のよい唇も、記憶に深く刻まれるほど見てきているから網膜に映らなくてもはっきりと目に浮かんでくる。
自分は彼女づきの従僕とはいえ、単なる使用人の一人にすぎない。
病で臥せっているとはいっても、部屋まで訪ねて側についていてくれる主人など、ヴェルサイユ中探しても他にはいないだろう。
彼女の身分を越えた友情に感動すると共に、友情とは違った感情が彼の心を揺さぶり始めているのを同時に自覚した。
その感情は正体を知ってはいけないような類のものだとアンドレは本能的に悟っていた。

「そろそろばあやが来るかもしれない。そしたら2人とも大目玉だ。退散するとするか」
おもむろにオスカルが椅子から立ち上がった。

彼女が消えていった扉が閉まるのと同時に、彼は目を閉じた。
オスカルの残り香がする。その香りは不思議な安堵感を彼にもたらした。
今日だけはこの香りにたゆたってしまおう。屋敷の仕事も、オスカルの供も、気づきはじめてしまった感情にも、今だけは全てに蓋をして…。
そう思いながらアンドレは、今度は夢のない眠りに沈んでいった。

―了―